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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第七章 澣わざる衣の如し
47/130

穿つ

痛い描写あり

 沐浴を終え、清潔な深衣に着替え、小夏に髪を拭いてもらっている陰麗華を、劉文叔が呼んだ。言われるままに文叔の座る牀の隣に腰を下ろすと、彼が杯に満たされた飲み物を勧めてくる。


 「これは……?」

 「いいから飲んで」

 

 にっこりと蕩けるような笑顔で言われ、陰麗華は多少、戸惑うものの、素直に杯に口をつける。どろりと甘い。――かなり強い酒精の含まれたものに、蜂蜜で甘みが加えてあった。


 酒に強くない陰麗華は一口で酩酊しそうになり、途中でやめようとしたが、文叔が許さなかった。


 「全部飲んで」

 「でも――」

 「いいから」


 無理に飲み下して、半ば朦朧とした状態で、陰麗華は牀に倒れ込み、小夏がそれを支える。


 「いったい何を――」

 

 問いかける小夏を、文叔は一睨みで黙らせると、言った。


 「麗華を支えていてくれ」


 見れば、牀前に置かれた机の上に、陸宣が灯台と布、そして、尖った長い針を準備し、その針を灯火で陸宣が炙り始める。小夏が息を飲んだ。 

 鄭麓が、豪華な錦を貼ったハコを持って文叔の前に跪き、函の中身を示す。文叔は函を覗き込み、白玉のものを選びだした。


 酒精の酔いで、とろんとした目で文叔を見ていた陰麗華は、彼の掌の上の、一対の白い耳璫を見て顔色を変える。


 「文叔さま……?」

 「ああ、痛いけれど、すぐに終わるから。少しだけ我慢して」


 消毒の済んだ針を手に笑いかける文叔を見て、陰麗華が恐怖で悲鳴を上げる。

 

 「いや! それ、いやあ!」

 「大丈夫、薬も飲んだし、すぐに終わる」

 「いや! お願い、いや、いや、いや!」


 劉聖公に耳朶を穿たれた時の恐怖がぶり返し、陰麗華は全身を硬直させて逃れようとするが、両側から陸宣と鄭麓に押さえつけられて、逃れることができない。


 「文叔さま! やめてください! お嬢様はっ……!」

 「小夏、麗華を押えて。動くと危ない。……麗華、力を抜いて。すぐに終わる」

 「いやです、やめて! 怖いの! どうしてっ! 文叔さま、お願い!」


 泣きながら首を振って陰麗華は懇願するけれど、文叔はまっすぐに陰麗華を見て、その右の耳に手をかける。


 「動かないで。動くと危ない。……君の身体に劉聖公の開けた孔があるなんて、我慢ならない……すぐだから」


 ほぼ、塞がっている孔を文叔が鋭い針でもう一度穿っていく。恐怖と激痛で陰麗華が悲鳴を上げた。

 

 


 


 「まだ、痛い?」


 膝の上に乗せた陰麗華の頭の、黒髪を梳きながら劉文叔が尋ねる。痛みと恐怖で恐慌パニックになり、飲まされた薬の作用で泣きながら眠りに落ちてから、どれくらいの時が経ったのか。


 「……文、叔さま……?」


 回廊から差し込む日差しが、冬の午後の、やや力を失ったものに変わっている。ずいぶん、眠っていたらしい。


 「わたし……」

 「ごめん……僕は君を辛い目に遭わせてばかりだ。もう、辛い思いはさせないと、誓ったそばからこれだ。でも、我慢できなかった……」


 文叔の長い指がそっと、陰麗華の耳朶に触れる。穿たれたばかりで腫れた耳朶に、トロリとした白玉の耳璫がまっている。


 「ひどい……やめてって……言ったのに……」

 「ごめん……麗華。君を穿っていいのは、この世に僕だけだ。もう二度と、他の誰にも触れさせない……」


 文叔の顔がゆっくりと降りてきて、陰麗華の腫れた耳朶に唇が触れる。文叔の結わないままにした黒髪が、帳のように陰麗華の顔の周囲を覆ってしまう。


 「愛してる……絶対に、離さない……」


 耳元で囁かれた言葉に、陰麗華は気づく。


 この耳璫みみだまは枷なのだ。陰麗華を自分のものだと、主張する男たちにとっての。――劉聖公も、そして文叔も、同じ。


 陰麗華はただの所有物だ。

 どれほど熱く愛を囁いても、文叔にとって、陰麗華は意志を持たない宝石と同じ。磨き、飾り立て、箱に入れて閉じ込め、懐に抱き込んで守るだけの存在。……だからこそ、劉聖公は文叔から陰麗華を奪い取り、辱めた。

 

 陰麗華を、ではない。要するに目的は文叔であって、陰麗華はたその手段に過ぎなかった。

 陰麗華にも心があり、意志があり、希望があるが、文叔は陰麗華が自らの翼で自由に飛ぶことを許す気はないのだ。


 陰麗華が諦観とともに目を閉じれば、目尻から真珠の粒のような涙が零れ落ちる。文叔はその雫を唇で吸って、溜息をつく。


 「――ごめん。愛している。手放すことはできない。……君の心がもう、僕から離れていたとしても」

 「……嘘つき……」

 

 思わず零れ落ちた言葉に、文叔が反論する。


 「嘘じゃない」

 「愛してるのに、わたしを苦しめるの?」

 「……愛しているから、苦しめることしかできない」


 文叔は陰麗華の黒髪を指で梳きながら言った。


 「……麗華、僕は君を皇后にするつもりだ」


 陰麗華が一瞬、黒い目を見開く。


 「……無理よ。あちらにはもう……」

 「だってそれ以外に、君に僕の愛を信じてもらう方法がない」

 

 麗華が正面を見上げれば、上から覗き込むような、文叔の顔と目が合った。彼の顔の周囲を覆う黒い髪。普段はかっちり結い上げたそれが、彼の野性の執着を表すように陰麗華を外界から遮っている。


 「……そんなことになったら、わたしは余計に辛いことになるわ」

 「そうだね、きっと針のムシロだ」

 「わかっていて、どうして!」

 「愛しているから。……正妻でなければ、君は側にいてくれないのだろう?」

 「……脅すの?」

 「君を繋ぎ留めるためなら、なんだってするよ」

 「じゃあどうして……」


 他の人と結婚なんかしたの。わたし以外の人を抱いたの。どうして、誓いを破って、わたしを裏切ったの――。


 その問いは陰麗華の口から出ることはなかった。

 なぜなら、陰麗華もまた、文叔を裏切ったから。腹の子を守るためとはいえ、他の男に肌を許した。


 たとえ、仕方のないことだと天がゆるしたとしても、陰麗華自身が、自らの裏切りを赦せない。


 詰って、罵って、離縁にされた方がうんとマシだった。

 その報いのように、文叔に裏切られるよりはうんと――。


 「もう……無理よ」

 「麗華……?」


 触れるだけの口づけを顔中に受けながら、陰麗華が呟く。


 「わたしはもう、変わってしまった。汚されて孔を穿たれて……元には戻れないの。……砕けた玉が戻らないのと同じ」

 「麗……」


 文叔の動きが止まる。しばらくそのまま、瞼に口づけていた文叔は、唇を離して上から見下ろした。


 「……どんな姿になっても、粉々に砕けた欠片カケラになっても、君を愛してる。……あの時、そう言えなかったことを、僕はずっと後悔している。無意味な約束で君を縛り付け、君を苦しめた。……もう、忘れて。いや、忘れなくていい……ただ生きて……僕の側にいてくれさえすれば」

 「あなたがわたしを置いていったんじゃない」

 

 陰麗華が少しだけ睨めば、文叔も笑う。


 「そうだね。……これからは、どこに行くにも君を連れて行くよ。二度と手放したりしない」

 「……まさか、戦場にも……?」


 陰麗華が目を丸くするが、文叔は当たり前だと言わんばかりに微笑んで、もう一度唇を塞いだ。




 

 数日後、皇帝・劉文叔は貴人陰麗華の兄・陰次伯と、建義大将軍の朱仲先、建威大将軍の耿伯昭こうはくしょう、偏将軍の馮公孫ふうこうそん、そして侍中の傅子衛を招いて、後殿で私的な会食の席を設けた。

 

 朱仲先は即位以前からの昔馴染み、馮公孫と耿伯昭は側近中の側近で、陰麗華らを奉迎した傅子衛の労をねぎらうという名目であった。その席に()()である郭貴人がいなくてもいいのか、と陰麗華も陰次伯もお互い目配せするが、文叔は意にも介さない。宦官や宮女たちが、それぞれのおぜんの上に料理を並べていく。

 洛水で採れた鯉魚のさしみ、豚肉と芋のにこみ、野菜と鶏肉のマリネ等々。洛陽の北に連なる邙山ぼうざんで狩られた鹿肉のあぶりやきは、薄切りにして同じ鹿肉のしおからを添えて供される。豚肉の煮込みは塩漬けの貯蔵肉を使い、モチキビでトロミとほんのりした甘味を加え、生姜の風味が効かせてあって、南宮の料理人の腕は確かだと思わせた。しかし季節柄、野菜も限られ、平和な時代の陰家の食卓に並んでいたものよりも品数は少ない。それでも戦乱の続いた洛陽では、かなり恵まれていると言うべきだ。


 「子衛には南陽から戻って、ロクな労いもできずに悪かった。今夜は、河北から持ってきたえき酒の甕を開けよう。中山の銘品なんだ」


 文叔はやたら上機嫌で、自ら「中山冬醸」と呼ばれるえき酒の甕を開ける。冬が乾燥して寒さが厳しい河北は、醳酒の銘品が多い。冬月の始まりとともに醸造を開始し、幾度も穀物を足して発酵を進め酒精を強くし、春の終わりにようやく出来上がる。この甕は味が変わらないよう、温度管理に気をつけて大事に運んできたのだ。逆に、数日で出来上がるどぶろくは、気候の温暖な南方が向いているのか、南陽に近い襄陽が有名な産地である。襄陽のものではないが、南陽の醪酒の甕も並ぶ。


 「傅子衛のおかげで、私も二年ぶりに()と再会がかなった。さあ、みんな乾杯と行こうじゃないか!」


 文叔が酒注ぎから手酌で酌もうとするのを、陰麗華が慌てて手を出して、漆塗りの酒杯を満たしてやると、文叔は嬉しそうに微笑んだ。その様子から、どうやら主君は()の説得に成功したらしいと、家臣らはちらりと陰次伯を見る。陰次伯もやや不機嫌そうに眉間に皺を寄せているものの、大人しく酒杯を掲げているのを見て、朱仲先らはお互いに目配せし、それぞれ酒杯を満たして右手で掲げる。


 「乾杯!」

 

 馮公孫が、機嫌のよさそうな主君に声をかける。馮公孫が久しぶりに見る陰麗華の姿は、以前よりも痩せて、だが美貌は健在であった。――主君の執着も仕方がないと思わせるほどに。


 「陛下はずいぶん、ご機嫌でいらっしゃる。……さては仲直りに成功なさったので」

 「あはは。もちろん土下座祭りだったけど、麗華は心優しいから許してくれたよ」


 その言葉に陰麗華がそっと溜息をつく。

 ――許すもなにも、最初から焦点はそこではない。絶対に別れないと言い張る男に、陰麗華が根負けしただけである。


 陰次伯もそうだが、基本的に、陰家の人間は押しに弱い。第一、洛陽で文叔を敵に回したら生きていけない。自称だろうが何だろうが、劉文叔はもう、皇帝なのである。しかも、文叔が毎晩、陰麗華の部屋で休んでいるために、すでに南陽から来た()()()()()の噂は、前朝でも話題になり始めていた。


 『あれが最近、陛下が迎えた()()()()()の兄らしいぞ』


 宮殿内でコソコソと囁かれた噂話を耳にして、陰次伯は殴られたような衝撃を受ける。


 新しいってどういう意味だ。

 李次元を捕まえて事情を問い質し、陰次伯はさらに絶望する。

 

 『陛下が河北で真定王の姪の郭氏と婚姻を結んだことは、皆知っています。それ以前に南陽にも()がいたことは、一部の人間しか知りません。……重婚が明らかになると都合が悪いので、大ぴらに宣伝できませんから』


 つまり、河北で文叔に新たに仕えた者は、文叔の正妻は郭聖通だと信じているし、南陽の妻の存在を知る者も、空気を読んで黙っている、ということだ。

 

 『だから知らない者からしたら、南陽の人間が、陛下に新しい姫妾を献上したのだろうと思っているでしょうね』

 

 皇帝・劉文叔の周辺は、南陽以来の者と、河北で新たに帰順した者と、大きく二つに分かれる。河北の豪族出身の妻だけではバランスが悪いと、南陽豪族もまた、掖庭に女を献じ、皇帝もそれを受け入れたのだ、と。


 『つまりそれって……僕は南陽豪族を代表して、美人の妹を後宮に献上した男に見えているってこと?』

 

 陰次伯の言葉に、李次元が感心したように頷く。


 『この二年でだいぶ、政治ってものが分かってきたみたいですね。まさしくその通りですよ? 来年早々、きみの封爵も決まっているしね。……一応、劉聖公の下で行大司馬事だったこと、これまでの軍功も考慮の上でってことになってますけど、誰も信じないでしょうね』


 陰次伯がこめかみを押える。


 『じゃあ……弟の君陵を出仕させるのも……』

 『閨閥を思いっきり利用しようとしているように見えるでしょうね。……でも、弟御が近侍するのは必要だと思いますよ。陛下の陰貴人への寵愛は、彼女を危険にさらすかもしれない。そんな時に頼りになるのは、要するに血縁者だけですから。きみと弟御が陛下の近臣としての地位を確立する。それが妹御を守る唯一の方法ですよ』


 李次元との会話を思い出し、陰次伯はそっと溜息をつく。


 『美人の妹を持った宿命です。古くは衛青や李広利将軍のように、姉妹が皇帝の寵愛を受けて出世した将軍も多い。あなたや君陵も同じ道を歩むだけの話です』


 でも断じて違うと陰次伯は思う。

 僕は皇帝の後宮に陰麗華を献上したつもりはない。南陽の劉文叔って一人のチンケな男に、仕方ないから妹を嫁に出しただけだ。たいした財産もない三男坊で、それでも麗華があいつがいいって言い張るから――。


 武帝の皇后にまで登り詰めた衛皇后も、寵姫の李夫人も、もとは賤民じゃないか。由緒正しい陰家の令嬢である陰麗華を、同じ列に並べるな、と思う。ましてその縁で出世した、衛青や李広利と同じにされたくない。


 陰次伯は、南面した牀に並んで座り、妹にお酌してもらって嬉しそうにヤニ下がっている、顔の濃い男前を複雑な気持ちで眺める。――たぶん、傍目に見たら睨んでいるみたいに見えるだろうけど、実際、ムカついている。結局、妹を奪われてしまったらしい、不甲斐ない自分にも――。


 顛末を聞いたら、鄧少君は怒り狂うに違いない。

 このままなら陰麗華は正妻ではなく、後宮の一寵姫になるしかない。どう言い繕ったところで、正妻から妾に格下げされたことに変わりはない。最初の妻だったと言い張れば言い張るほど、陰麗華が惨めになるだけだ。


 いつもどおり後ろに流した陰麗華の黒髪の隙間から、耳朶の白玉の耳璫が覗いて、陰次伯はぎょっとして思わず杯を乱暴に置いた。


 「どうした、次伯」


 朱仲先が陰次伯を覗き込み、陰次伯が慌てて首を振った。


 「いや……その……」 


 何でもない、と取り繕い、鹿肉のしおからを口に含むが、味はしなかった。

 劉聖公に開けられた耳朶の孔は、この二年でほぼ、塞がっていたはずだ。つまり――。

 

 劉聖公が穿った、そして一度塞がりかけたその孔を、劉文叔はもう一度、自ら穿ったのだ。劉文叔の陰麗華への執着の凄まじさに恐怖すら覚えて、陰次伯はますます暗澹たる気分になる。


 そこへ、隣室に控えていた王元伯がげきと呼ばれる木簡の一種持って入っていきた。至急便などに使用し、松明か何かのように掲げて早馬で飛ばし、最優先で皇帝のもとに届けられる決まりになっていた。


 「陛下! 関中の鄧仲華将軍より、至急便です」


 皆が歓談をやめ、文叔も杯を置いて王元伯の檄を受け取る。袋に入り、紐で結んで結び目に粘土で封印が施されている。押された印が大司徒・鄧仲華のものであるのを確認し、文叔が封泥を外し、檄を取り出す。


 「劉聖公が死んだ!」


 その言葉に、陰麗華がひっと喉の奥で悲鳴を上げ、身を固くする。文叔はすぐにその背中に手を回し、優しく撫でてて宥めながら、檄を読み上げる。


 「……長安において、赤眉の暴虐はひどいようだ。これなら劉聖公の方がマシだったと、囚われていた聖公を逃そうという動きが出始めて、結局は――」

 「遺体はどうなったのです?」


 耿伯昭の問いに、文叔は檄を見ながら言う。


 「式侯が遺体を密かに収めたとあるが……」

 「式侯は劉盆子の兄ですね。どういう理由か知りませんが、劉聖公に心酔していたようで」


 文叔が河北で即位した同じ六月、赤眉も劉氏の中から皇帝を擁立したが、その手段はくじ引きで、劉氏の三兄弟のうち、もっとも幼い劉盆子が籤を引き当ててしまった。式侯劉恭はその長兄である。


 文叔はやや檄を見つめていたが、朱仲先と馮公孫を見る。


 「……さて、どうする?」

 「どうすると言いましても……いずれ、遠からず殺されると思っておりましたしね」


 馮公孫が言えば、朱仲先も頷く。


 「手間が省けたって感じじゃないのか?」

 

 文叔は一瞬だけ、ちらりと陰麗華の蒼白な横顔を見てから、控えている王元伯に命じる。


 「仲華に命じて、劉聖公を王の格式で葬らせよ」

 「……王の、格式で、でございますか?」


 王元伯が問い直せば、文叔は頷く。


 「私の政権は聖公を受け継いだもの。聖公がわが兄、伯升を殺した恩讐はすでに水に流したと、朱長舒を赦した時点で明らかにしている。聖公にも礼は尽くそう。……我々の手を汚さずに済んで、助かったというべきところかな」


 それだけ言うと、文叔は「この話はこれで終わりだ」と、歓談に戻るように皆に言う。

 その夜更けるまで、会食は続いた。





 宴がはけて、いつもの房で二人きりになって、文叔は陰麗華の耳元で囁く。


 「僕が、腰抜けだと思う?」

 「ええ?」


 陰麗華が驚いて文叔の顔をまじまじと見上げる。


 「本音を言えば、聖公の死体を喰ってやりたいくらい、憎い」


 文叔の声は、背筋が寒くなるほど昏く、憎しみに満ちていた。


 「あいつの手が……君に触れたのかと思うと……」


 文叔の大きな手が襦衣の上から陰麗華の身体を這って、陰麗華が悲鳴を上げた。


 「やめてっ……怖いの……」

 「あいつに抱かれて、感じた?」

 

 陰麗華が必死に首を振る。


 「……本当に、信じていいの?」

 「信じて。……嫌でたまらなくて死にたかった」

 「じゃあ、どうして僕を拒む」

 

 背後からきつく抱きしめられ、耳元で囁かれて、陰麗華はかつての恐怖が蘇り、全身に震えが走る。


 「お願い……怖い……許して……」

 

 震える妻の様子に、文叔は何かをじっと堪えるように奥歯を噛みしめ、肩口に顔を埋めて動かずにいた。


 「すまない……愛してる。耐えるよ。……いつか君が、僕をもう一度受け入れてくれるまで」


 文叔はそう呟くと、陰麗華の新たに穿たれた耳朶の、白玉の耳璫に口づけた。 



衛青:前漢武帝時代の将軍。姉の衛子夫の縁で取り立てられ、匈奴戦争で大功を挙げ、大司馬大将軍となる。

衛皇后:元は武帝の姉平陽公主家の家内奴隷でコーラスガールだった。


李広利:前漢武帝末の将軍。妹の縁で大宛征伐を命じられ、貳師将軍と号する。最後は匈奴に降伏して殺される。

李夫人:武帝後半の寵姫。元は楽人の李延年(宦官)の妹で舞伎。

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