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【登場人物紹介】 *周辺地図・系図あり

本日二話目の更新です。ご注意ください。

挿絵(By みてみん)



*何年生まれ、とある人は、史料から年齢が確定できる人です。それ以外の人の年齢は物語上の設定になります。


〇陰氏 本貫ほんがんは南陽新野県


陰麗華:元始五年(西暦五年)生まれ。

陰次伯:陰識。陰麗華の異母兄。陰麗華の六歳上という設定。

鄧夫人:陰麗華の母。陰陸の後妻。鄧偉卿の従姉という設定。陰麗華の下に、陰君陵(陰興)、陰訢、陰就の三男あり。

 *宇都宮清吉きよよし「劉秀と南陽」(『漢代社会経済史研究』所収)の系図では鄧氏を鄧奉の姉妹とするが、根拠が提示されておらず、また鄧偉卿が陰麗華の大叔父となり、年齢的に離れすぎると思われるので、その説は取らない。

なお、陰麗華には異母姉がいて、鄧譲(交阯牧)に嫁いでいる。


増秩・匡・曄:陰家の僮僕の母子。曄が陰麗華より五歳上、匡はその四歳上。

小夏:陰麗華の侍女(曄の後任)。

左武・張寧:陰麗華が助けた流民の夫婦。子二人あり。



〇劉氏(舂陵しょうりょう侯家) 本貫は南陽蔡陽県 。前漢景帝の子、長沙定王発の子孫


劉文叔:劉秀。建平元年(西暦紀元前六年)生まれ。

劉伯升:劉縯りゅういん。文叔の長兄。  *系図では縯の文字が表示されていません(泣)

劉君元:劉元。文叔の次姉。鄧偉卿の妻。子は鄧汎と娘三人。

劉伯姫:文叔の妹。陰麗華より二歳上という設定。

このほか、劉家には長姉の黄、次兄の仲がいる。


挿絵(By みてみん)



『水経注』巻二十八に、白水の北に白水陂というため池があり、その陽(水の場合は北側が陽)に漢光武の故宅があり、酈道元(北魏)の時代にはまだその址があったと言う。『後漢書』の李賢注もまた、「宅の南二里に白水有り」と述べる。


劉次伯:劉良。文叔らの叔父。もとのしょう県令。

劉聖公:劉玄。舂陵侯家の分家筋だが文叔らより本家に近い。更始帝。


劉敞:最後の舂陵侯。本家の当主。

劉巨伯:劉祉。舂陵侯の嫡子。最初の妻・てき氏を娶って僅か二十日後、妻の叔父の東郡太守翟義が王莽に対し叛乱を起こしたため、南陽郡の吏が妻翟氏を殺し、彼も収監される。後釈放されるが、終生にわたって官途につくことが禁じられている。


挿絵(By みてみん)

 

〇鄧氏 本貫は南陽新野県


鄧偉卿:鄧晨。劉文叔の姉、劉君元の夫。文叔より五歳年長という設定。

鄧汎:鄧偉卿の息子。

鄧少君:鄧奉。鄧偉卿の兄の子。字がわからないので、前漢の翼奉という人の字を拝借。


鄧仲華:鄧禹。元始二年(西暦二年)生まれ。十三歳で長安の太学に入学を果たす天才少年。文叔と一緒に長安で過ごした親友。


『水経注』巻二十九によれば、新野県の西北に鄧氏陂というため池があって、鄧禹の故宅と鄧晨の故宅が陂を隔ててあるという。この二つの鄧家の関係は『後漢書』その他に何も書かれていない。同族ではあるが以前に分かれた家と思われる。



〇その他


朱仲先:朱祜しゅこ。南陽宛の人。後漢安帝の字を避けて、『東観漢記』では朱福と書かれ、名を避ける必要ないはずの『後漢書』は、なぜか朱祐と書く。父を早くに失い、母の実家、復陽侯家の劉氏の家で育つ。復陽は舂陵とは山一つ隔てただけなので昔から行き来があった。長安遊学中に劉文叔と蜜を売ったり、地皇二年には、滞納租税の請求の不当を訴え出るために、一緒に長安の大司農府(納言府)まで掛け合いに行った。


来君叔:来歙らいきゅう。南陽新野の人。母が文叔の大おばだとあるが、のちに文叔の「外兄」とも書かれるので、母はおそらく文叔のおばで、つまり従兄であろう。妹は劉文叔の親類の劉嘉(字は孝孫)の妻だが、小長安の戦いで死亡している。史実では県の役人はやっていないが、登場させる都合で就職してもらった。同僚の樊仲華は実在の人物で、本当に新野県の役人。


李次元:李通。南陽宛の人。

李季文:李軼りいつ。李次元の従弟。


甄阜しんふ前隊ぜんすい大夫。残忍な性格。漢の南陽太守に当たる。

梁丘賜りょうきゅうし:前隊属正。属正は漢の都尉。郡の軍事を掌る。

潘叔:新野宰。宰は漢の県令。

荘伯石:荘尤。納言(漢の大司農)。『漢書』『後漢書』では、後漢明帝の諱・荘を避け、厳尤と書かれる。(『後漢書』は避ける必要ないはずなのだが……)


傅子衛:傅俊。潁川襄城の人。侍中として、皇帝の命令で陰麗華を迎えに来る。




〇避諱について


中国ではいみなは非常に重要なものとされて、目下の者が目上の者の諱を口にしたり、友人同士でも諱に触れることは大変、失礼なことでした。皇帝の諱を呼ぶなんてのはもってのほかで、王朝を通して、その漢字が使用できなくなります。で、例えば漢高祖の諱である「邦」→「国」、景帝の諱「啓」→「開」といった言い換えがなされます。『漢書』、そして『後漢書』の元になった『東観漢記』という歴史書は後漢時代の著作物ですので、前漢、後漢の皇帝の諱の文字は使うことができません。光武帝の諱「秀」、明帝の諱「荘」などは、「秀」→「茂」、「荘」→「厳」に書き換えられています。安帝の諱「祜」はめったに使われない字ですが、朱祜がたまたまそれに当たってしまい、『東観漢記』では「朱福」と書かれています。『後漢書』の作者范曄は南朝宋の人なので、後漢の避諱に拘る必要はないはずなのですが、「荘尤」を「厳尤」と書いてるのは、『漢書』と『東観漢記』の記述に引きずられたせいか…(-"-)しかし、朱祜が「朱祐」になっているのは、何故なんだと……。校勘記見るまで「朱祐」だと信じてたじゃねーかよ、どうしてくれる(-"-)



エクセルで系図を作成→図としてコピーでjpegファイルとして保存しているのですが、私の使用しているペイントっていう、もともと入っているソフトがポンコツなのか、劉縯の縯の字とか、翟の字とかが表示されません……「図としてコピー」しているんだけどなあ……そして何となくぼやけているし( ;∀;)

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