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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十四章 載ち之に璋を弄せしむ
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擅寵の謗り

久しぶり過ぎていろいろ忘れていて間違っているかもしれない……

 建武八年(西暦三十二年)閏四月、皇帝劉文叔は隗囂(かいごう)を親征した。しかし上邽(じょうけい)(現在の甘粛省)を包囲していた八月、雒陽(らくよう)にほど近い潁川郡(えいせんぐん)で賊が蜂起したという報せを受け、即座に軍を返すことを決意する。

 隗囂の立てこもる西城は大司馬呉子顔(ごしがん)と征南大将軍岑君然(しんくんぜん)に、上邽は建威大将軍耿伯昭(こうはくしょう)と虎牙大将軍蓋巨卿(がいきょけい)に委ね、早朝から深夜まで駆け続けに駆けること千五百里あまり(およそ七百八十キロ)――


 潁川郡は雒陽の南東に境を接する、古来からの要衝(ようしょう)の地。まさに都のお膝元である。さらに、潁川の賊に雒陽の北東に位置する河東郡の、郡太守の守備兵が呼応して兵を挙げたのだ。北と南とで挟まれた形になる京師・雒陽では民衆がパニックに陥っていた。


 皇帝不在の京師はただでも兵力が少ない。恐慌した民衆が城内で蜂起して官府等を襲撃することを恐れ、雒陽を守る大司空の李次元は、南宮の門を固く閉じ、警備を固めて厳戒態勢を布いた。


「陛下は兵を上邽から返され、すでに長安を過ぎたとの報せを受けております。後はただ、陛下の到着を信じてお心安らかに――」


 南宮の後宮、皇后の居宮である長秋宮に出向き、皇后・郭聖通に現状の説明を行う。郭聖通は陰貴人以下の後宮妃嬪――といっても後は許美人のみだが――と、後宮の女官・宦官の主だったものを長秋宮に招集して待機を命じていた。


「お心安らかになどいられると思って? 賊はすでに雒陽の城壁近くに迫り、城内には内通者もいるのではともっぱらの噂ではないの」

「城壁にはまだ近づいておりません。内通者云々もただの噂です」


 甲高い声で詰る郭聖通を、李次元が年齢不詳の美貌で窘める。

 

「城門の警備に異常は報告されておりません。たとえ外城が破られたとて、南宮の城壁は堅固で、そう簡単に破ることは不可能です。賊は烏合の衆で、南北で統制された動きが取れているわけではない。まずは城内の平穏を保ち、民の混乱を鎮めるのが肝要です」

「でも……」


 郭聖通は明らかに動揺していた。雒陽に都を定めて八年、天下騒乱の最中であっても、この地は不敗の皇帝・劉文叔の威光に守られ、平和と安寧を謳歌していた。よりによってその皇帝の不在に足元に火が点くなんて、想像すらしなかったのであろう。


 一段下がった貴人の座で、陰麗華は落ち着かない様子の郭聖通を眺める。


(そうか、長秋宮様はずっと、安全な場所にいらしたから……)


 いくども戦火に曝された陰麗華の故郷・南陽と異なり、河北もそれなりに動乱はあったけれど、郭聖通自身は守られていた。陰麗華のように文叔の陣に付き従ったこともない。陰麗華は不安げにざわめく女官や宦官を見回した。


(置いていかれるというのは、辛いものね。……昔、わたしもそうだったけれど)


 今まで、文叔に付き従って雒陽を留守にすることが多かった陰麗華は、残された身の辛さをしみじみと感じる。文叔について軍旅を共にするのも、女の身としては厳しいものだったし、子が生まれてからは子供たちの安全にも気を配らねばならず、心の休まる暇もない。でも――


 戦に出た夫の身を案じ、さらには我が身に迫る危難に怯える日々に比べれば――


「父上は雒陽に向かわれているのでしょう? 父上さえ戻ってくだされば、父上は無敵です! だから母上も父上を信じて待ちましょう」


 八歳にしては大人びた皇太子・彊の言葉に、郭聖通もやや、気を取り直したらしい。


「本当に。よりによって陛下のお留守に。陛下さえ、都に戻ってくだされば、潁川の賊など怖くないものを。郭子横の諫言従って、遠征を取りやめていればこんなことにならなかったと、悔しい気持ちですよ」


 郭聖通の母、郭主が苦々し気に言い、それから陰麗華をちらりと見た。


「この騒乱の原因は、天文にも表れているとか」

「天文……?」


 陰麗華だって星くらいは見上げるが、占いには詳しくない。郭聖通と郭主の母子を見返して首を傾げれば、郭聖通が母を窘める。


「お母さま、そのお話はおやめになって。……ただの星よ」

「でも、ここ数年、何度も月が不穏な動きをしているって。これは後宮が乱れているせいだと、何人もの術者が言っていますよ」


 甲高い郭主の声に、その場にいた者たちが一斉に陰麗華を見た。


「皇后を蔑ろにして妾に入れあげる天子に、天が怒っているんだって。ほら、長秋宮に対抗するように、千秋殿なんて呼ばせるものだから」


 思わず息を飲んだ陰麗華に、なおも郭主が言った。


「潁川や河東の賊も、後宮の乱れのせいだと――」

 

 なおも言い募ろうとする郭主を、さすがに李次元が咎める。


「天文はたしかに人事を映す(かがみ)とは申しますが、それを読み解けるのは聖人の道に通じた者だけです。小人が生半可に読み解けば、混乱を生ずるばかり。潁川の賊と、千秋殿様にはなんのかかわりもない。確証のないことを口にするのは慎むべきです」


 天文学にはとんと疎く、また日頃から噂の類からは耳を塞いでいる陰麗華には、まったく意味の分からない話。だが、何か天体の動きが示すよくない象が、自分のせいにされている――すくなくとも、郭主らは陰麗華以に結び付けたいのだろう。

 謂われのない批判に心がざわめき、心臓がドクドクと波打ち、冷や汗が背中を流れる。

 

「……ははうえ?」


 隣にいた四歳の皇子・陽――子麗が、不安そうに母の膝に小さな手を載せて見上げるので、陰麗華は慌てて笑顔を作った。


「……大丈夫よ、父上……陛下がもうすぐ雒陽に戻っていらっしゃるから。そうすれば――」





 不穏な会合が終わり、陰麗華は千秋万歳殿の居室に引き上げると、さすがに疲れて大きくため息をつく。崩れるように牀に倒れ込めば、(いぬ)(リュウ)が尻尾を振りながらやってきて、ハッハと舌を出して陰麗華に甘えるので、陰麗華はその滑らかな短毛の毛皮を撫でてやる。狗の体温に少しだけ、冷えた心が温もりをもらったようだ。


「体調がよろしくないようですね」


 護衛としてついてきた女将軍の鄧曄(とうよう)が、心配そうに声をかける。


「……雒陽の、市街の様子は変わったことはなくて?」

「今のところは」


 陰麗華が姿勢を正し、鄧曄に尋ねる。


「……お母さまは、やはり殿中に上がるのは嫌だと仰っているの?」

「ええ、鄧夫人は後宮は性に合わないと……」


 南陽から雒陽に居を移した陰麗華の母・鄧夫人だが、よほどの用事がない限り南宮には寄り付かず、雒陽市中の屋敷で質素に暮らしている。今回、城内の騒乱で害が及ぶのを恐れ、南宮に避難するように言っても、首を縦に振らなかった。


「弟君を後宮に伴うわけにいかないという、理由もあるようです」


 陰麗華のすぐ下の弟・陰君陵は皇帝の側近官として車駕に従い、行軍の途中にある。そのほかの弟・就と訢を、母は敢えて出仕させずに身近に置いている。――陰家はすでに異母兄の陰次伯と弟の陰君陵の二人が、皇帝の近臣として宮中で重きをなしている。一方の皇后・郭聖通はやはり黄門侍郎を拝した弟一人だけ。陰氏兄弟がこれ以上、宮中に出入りするのはよろしくないという、母の気配り故であると、陰麗華も気づいている。


 ――ここまで気を使っているのに。


 陰麗華は睫毛を伏せる。 


「……鄧曄将軍、趙夫人と、寧平長公主さまをお招きしたいの」

「趙夫人と、寧平長公主さま……大司空の李次元さまの内室ですね」


 皇帝の親族である趙夫人も、そして文叔の妹である劉伯姫も、この非常事態に南宮内の盧舎(宿舎)に詰めていた。すぐに二人が呼び寄せられ、千秋万歳殿の堂に席が設けられる。


「麗華!……体の具合がよくないと聞いたけど……」


 慌ててやってきた劉伯姫が、陰麗華の隣の席に腰を下ろし、手を取った。


「麗華ちゃんも気苦労が絶えないわね。……陛下も妊娠させすぎなのよ。よくもまあ、あちらと交互にぽこぽこと……」


 趙夫人は手土産の梅の蜂蜜漬けの壺を掖庭令の陸宣にわたし、さっさと斜め前の牀に独座する。


「で、どうしたの。また長秋宮に虐められたの?」

「虐められたというか……」


 陰麗華がため息交じりに言う。


「何かその、星の動きがどうのとか……。天が、後宮の乱れを怒っていて、そのせいで反乱が起きたとかなんとか……意味がわからないので反論もできなくて……」

「ああ、その話。次元がぶつぶつ言っていたわ。生半可な聞きかじりで適当なことを言う奴がいるって」


 劉伯姫も頷く。


「それはいったいどういう……」


 陰麗華の問いに、伯姫が少しばかり眉を寄せる。


「わたしだって、天文学の難しい話はわからないわ。でも、天体で皇后を示す星が障害を受けているって」

「皇后を示す星……」


 陰麗華が胸の前で両手を握りしめるいつもの癖を見て、趙夫人がハーッと深いため息をついた。


「そんなのはどうとでも解釈できるじゃないの」

「それより、その星と反乱の関係は?」


 陰麗華が身を乗り出す。――陰麗華の存在が皇后を脅かしている。それは現にその通りで、どうしようもないことだ。だが、後宮というコップの中の嵐と、潁川の賊の関係がわからなかった。


「そんなものはないわよ。麗華が反乱を命じたわけでもあるまいし」


 伯姫がにべもなく言う。


「趙夫人が言うように、こんなものはどうとでも解釈できるのよ。気に入らないものを追い落とすための常套手段に過ぎないわ」

「後宮における皇后以外の寵姫の存在は、常に批判を浴びてきたから、しょうがないと言えばしょうがないことよ。陛下はよくやっていると思うわ」


 趙夫人が陰麗華を慰めるように言い、陰麗華もそれは認め、頷いた。


「かつて――成帝の御代だけど、趙姉妹の擅寵が問題になったのは有名な話よね」


 趙夫人の言葉に、伯姫も陰麗華も記憶をたどる。


「……踊り子出身の皇后・趙飛燕ね」

「ええ、そう。妹の趙昭儀と二人で、十年にわたって後宮で寵愛を(ほしいま)まにし、でも子は産まれず、他の女の産んだ子をすべて殺してしまった」


 陰麗華が無意識に、まだほとんど膨らまない腹を両腕で庇う。趙夫人が二人の方に顔を寄せ、声を落とす。


「でもね……趙姉妹に出会う以前は、成帝は皇太子時代からの正妻だった、許皇后に夢中だったのよ」

「そうなの?」


 伯姫が目を瞠り、趙夫人が事情通らしく大きく頷いた。


「そうよ。子供だって二人も産まれて。でも、二人とも生まれてすぐに死んでしまった。――そんな状況で、高官の一部からは許皇后が寵愛を独占するから跡継ぎが生まれないんだ、なんて批判が飛び出したのよ」

「なんでそんな!」


 陰麗華がさすがに驚いて息を飲んだ。

 皇后に子ができない。それが今度は皇后が寵愛を独占するからだと批判される――


「要するに、政治の駒でしかないのよ。成帝は子のできないのを皇后のせいにして女遊びを始め、そうして後宮に踊り子を引き込んだ――」


 終わりのない政争と、後宮の争いと。つくづく、自らの立場の危うさに眩暈を覚える。どうしたって破滅は免れないのではないか。薄氷を()むような歩みを進めても、どうせいつかは――


「文叔兄さんが、麗華を一番愛しているのは傍から見ても明らかだけど、皇后を蔑ろにしているとまでは言えないわ。あちらだって毎年のように子を生んでいるじゃないの。いったい、何の不満があるというの」


 もともと正式な妻であった陰麗華が、妾の地位に甘んじている事実を知る劉伯姫は、郭皇后に不信感を剥き出しにする。それでなくとも、同じ南陽出身の、幼い頃からの友人である陰麗華に肩入れして当然だ。

 

「今、この状態ではどうということもできないわ。陛下が無事に西から戻って、潁川の賊を討伐するのを待つよりほかは」


 趙夫人が諦めたように言い、小夏が運んできた(あまざけ)をグイッと飲み干した。



 

 さまざまな思惑が飛び交う緊迫した雒陽城。潁川の賊と河東の賊が呼応し、明日にも雒陽の城壁に迫るのではと、城内が騒然となる中、九月の頭に、皇帝・劉文叔の車駕が雒陽の郊外に姿を現した。

 ようやく戻ってきた夫の姿に、陰麗華はたとえようもないほどの安堵を覚える。――それほど、一人残される雒陽の後宮は、針の筵だった。賊に怯える城内の恐怖と怨嗟が、すべて自分の身に降ってくるかのような錯覚さえ覚えていた。


 驚異的なスピードで隴西より駆け抜けてきた文叔は、即座に李次元他の高官に指示を出し、さらに潁川討伐軍の編成を命じる。その中核は、かつて潁川太守であった執金吾(しつきんご)寇子翼(こうしよく)


「潁川は京師に近く事態は差し迫っている。潁川の賊を平定できるのは(きみ)を置いて他にない。中央官である執金吾から再び地方に出すのは異例のことではあるが、憂国の故とあれば許されるであろう」


 劉文叔の言葉に、老練な文吏上がりの寇子翼が深く頭を下げる。


「潁川の民は狡猾にして剽悍であります。陛下の留守を狙い兵を挙げたのでしょうが、陛下が自ら出陣するとなれば、必ずや恐れ戦いて逃げ惑うでしょう。自ら武器を取り、陛下の前駆けを務めさせていただきます」


 帰還直後に千秋万歳殿の陰麗華のもとを訪れた文叔は、いつもと同じ表情をしていたが、目の下には隈ができていた。


「お疲れでいらっしゃるのでは」

「そりゃまあ、疲れる。僕もあと数年で不惑(四十歳)の大台に乗るからな」


 牀の上、陰麗華の隣に腰を下ろせば、ギシッと牀が軋む。


「子供たちは元気にしていたか?」

「ええ。……幸いにも、まだ不安を感じられる年齢でもございませんので」

「すまなかった……郭子横の諫言を聞いておけばと、どれほど悔やんだか。……君にも余計な心労をかけた。君や子麗たちに万一のことがあったらと思うと、それだけで命が縮む思いだった」

 

 陰麗華の肩を抱き寄せて、そっと肩口に息をつく。


「やはり離れていくのは辛いが、潁川討伐は速度が肝だから……」

「わかっております……その代わり、お早いお戻りを」


 陰麗華がつい、文叔の褶衣(うわぎ)の胸元をぎゅっと掴む。至近距離で見上げれば、戦場帰りらしく、髭はいつもよりも乱れ、剃り残しもあった。


「ああ。やっぱり君の側にいないと体力の回復具合がよくない。君の声を聞いただけで力が甦る気がする」


 こってりと甘い笑顔で言われれば、陰麗華の頬も緩む。

 常勝の帝王に誰よりも愛される自分を、人はきっと羨むだろう。――その裏側の熾烈な日々に思い至ることもなく。


 文叔は陰麗華を抱き寄せると、命の宿る腹を大きな手で撫でる。


「愛している。君だけだ」

 

 普通の夫婦ならば許される愛の言葉が、皇帝には許されない。でも――それを拒むこともできないまま、陰麗華は目を閉じた。





 建武八年九月庚申、自ら潁川の賊を討伐に向かった文叔は、あっさり賊を平定して十八日後の戊寅には雒陽に戻った。


 だが、その文叔の耳に、例の天官の話をした者がいたらしい。


「建武六年の九月に、月が太微(*1)の西の領域を干犯し、さらに十一月には月が軒轅(けんえん)(しし座・やまねこ座)を干犯いたしました。また今年四月には、月が房宿(さそり座)の第二星を干犯し、光が見えなくなりました。月が房宿を干犯するのは天子に憂いをもたらす象、軒轅は皇后の象徴、後宮にて皇后が圧迫される兆しです」


 長々とした天体の説明に、文叔がいささかうんざりしたように言った。


「……で?」

「陛下におかれましては、後宮の秩序を重んじられ、正しき道にお戻り遊ばさるようにとの、天の戒めが、潁川の賊となって表れたのでは――」


 ガンッ!

 と文叔が拳を牀に叩きつけ、奏上していた史官がビクリと身を震わせる。


「潁川の賊は不平分子の反乱だ。それと朕の後宮に何のかかわりがある! 以後、天体を理由に後宮に口を出した者は斬る!」


 苛立ちのままに立ち上がり、文叔はその日の議事を切り上げる。中朝へと向かう文叔の背後についてきた李次元に、文叔が早口で命じた。


(かい)の離宮に行く。潁川の賊が平定されたが、河東はまだ騒がしいようだ。――今回は陰貴人と子供たちも伴う。私の留守中に、雒陽に不穏な噂をばら撒いた者たちをあぶり出せ」

「……大方、予想はついておりますが、証拠まではあがりますまい」


 李次元が小走りになりながら頭を下げる。


「これほど皇后に気をつかって、なんの不満があるというのか!」


 文叔が思わず漏らした不平に、李次元が答える。


「古来、帝王の寵姫には擅寵(せんちょう)の謗りがつきものです。天子の寵愛が望外の恩典である故に、それを羨み、謗る者は絶えません」

「別に正妻以外の女がいる男だって、天下に山ほどいる。ほぼ同等な扱いを心がけているのに!」

「ほぼ同等……だからじゃないですかね?」


 李次元の言葉に、文叔が思わず足を止めた。


「どういうことだ」

「二嫡無きは古来よりのさだめ。まるで正妻が二人いるかのような扱いでは、正妻が不満を抱いても致し方ありません。世論は皇后に同情的です。……結果的に、陰貴人への批判は根強い。雒陽が危機にさらされた時、その恐れと歪みが陰貴人や陰家に向かうだけのことです」


 文叔は凛々しい眉を顰め、だがそれ以上は何も言わなかった。

 雒陽での滞在は一月にも満たなかったが、その間、文叔は一度も長秋宮を訪問しなかった。そして十月の丙午、文叔は河東の賊の残党の掃討と、以後の軍議のために陰貴人らを率いて黄河の対岸、懐の離宮に行幸する。


 文叔らの帰還は十九日後の十一月乙丑。

 (こと)の多かった建武八年も残すところ一月と少し。

 宮中や雒陽市中にくすぶる擅寵への謗りが、さらに大きな悲劇を生むことを神ならぬ文叔はまだ知らなかった。

*1

太微 天球を三区画に分けた一区画。北斗七星より南、北極を中心とした区画である紫微垣を取り囲むように位置する。


◆忘れてしまったかもしれない、あの人は

呉子顔:呉漢

耿伯昭:耿弇(こうえん)

岑君然:岑彭

蓋巨卿:蓋延

寇子翼:寇恂(こうじゅん)

李次元:李通

郭子横:前回参照。


陰次伯:陰麗華の兄。陰識。

陰君陵:陰麗華の弟。陰興。


趙夫人:劉聖公(劉玄、更始帝)の奥さん。親戚。

劉伯姫:劉文叔の妹。寧平長公主。李次元の奥さん。



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