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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
間章七 落葉 重扃に依る
123/130

落葉

「どういう意味ですの?」


 蒼白な顔色で尋ねる郭聖通に、文叔は表情を変えない。


「今後、()()()()()()、皇太子も皇后も交替させない。約束する。ただし、陰貴人や子に()()()()()、その犯人が誰であれ、そなたの責任を追及し、皇后も皇太子も変える」


 文叔の黒い瞳に見据えられ、聖通は息を飲む。


「……もしや、わたくしが何かするとでも、疑っていらっしゃるの?」

「清涼殿の子を望まない人物がいるとすれば、それは長秋宮――そなた以外にない」

「そんな馬鹿な! わたくしはそんな――」

「傍からはそう、見える。――事実、陰貴人を北宮に退去させようとしたではないか」


 文叔の冷たい言葉に、郭聖通は慌てて首を振り、必死に抗弁した。


「それは、唐宮人の憎しみがあの方に向いていたから、それで――」

「本来なら、あの件でそなたを廃してもよかった」

「陛下!」

「だがそなたは彊の母親だ。だから、あの時は責任を問わなかった。しかし、二度はない。そなたは皇后として、後宮の平安を維持する責務がある。次に何かあれば、責任は皇后たるそなたに帰す」


 皇帝に言われて、皇后は息を飲んだ。


「……もしや、清涼殿がわたくしを疑っておりますの? わたくしはそんな……!」

「清涼殿がどうかではなく、傍からはそう、見える」

「わたくしはそんなことは致しません!」

「そなたが直接指示を下さずとも、周囲が暴走しないとは限らない。……そなたにはそれを止める義務がある」


 陰貴人の出産によって、郭聖通や彊の地位が不安になると周囲の者が思い込み、勝手な忖度(そんたく)で余計なことをする可能性は、(ゼロ)ではない。


「だから、すべての責任をそなたに帰すのだ。蜥蜴(とかげ)の尻尾切りは許さぬ。万一、清涼殿及び彼女の子に何か危害を加えられたら、それがそなたの(あずか)り知らぬところで、末端の者が勝手に為したことであったとしても、私はそなたの責任を問う。――皇后として後宮の長となるのだから、当然だろう? ()()()()()()()、そなたも彊も安泰だ」


 しばし、無言で文叔の顔を見つめていた郭聖通は、拱手して膝をつき、頭を下げた。


「……わたくしも子の母でございます。同じ母として、子を害するようなことは絶対にさせません。それは誓います」

「そうか。……ならば、そのように務めてくれ。私からの話は、それだけだ」


 文叔はそう言うと、用は済んだとばかりに立ち上がろうとした。郭聖通がそれを咎める。


「陛下。お待ちくださいませ。それでは取引になりません」


 そう言われて、文叔は眉を顰め、どさっと腰を下ろす。


「何が不満だ?」

「皇后と皇太子を交替させないことは、わたくしにとって当然のことです。なんの、落ち度もなく地位を奪われる謂われはございません。にも拘らず、無関係な者が先走った後始末まで、わたくしに責任を負わせようとなさる」


 郭聖通の正論に、チッと文叔が舌打ちする。


「……不満なのか?」

「ええ。……その取引はわたくしには旨味がございません。そもそも、陰貴人が無事に男児を産むとも限らない。……彊とわたくしを廃したら後継ぎはどうなさるのです」

「幸い、許宮人が産んだ皇子英もいる。どうとでもなるさ」


 文叔が冷酷に告げれば、郭聖通は忘れかけていたもう一人の皇子を思い出す。


「世論が納得いたしませんわ……」

「最終的な決定権は、私にある」


 郭聖通はしばらく考えていたが、文叔を見た。


「後宮のことは、わたくしが責任を持ちますわ。絶対に、清涼殿が危害に遭うことはないように、厳しく綱紀を引き締め、安全を保証いたします。ですから、わたくしにも褒賞をくださいませ」

「褒賞?」


 今度は文叔が聞き返す番だった。


「皇后として後宮を治め、内治を貫徹する。その、褒賞をくださいませ」

「……これ以上、何を望む」


 郭聖通が両膝をつき、拱手して文叔を見上げる。


「子供を」

「子供?」

「……この後、清涼殿がお産みになるなら」


 郭聖通がはっきりと言い切った。


「わたくしにも与えてくださいませ」


 文叔は一瞬虚を突かれたように郭聖通を見つめ、それから、ふうーっ長い息を吐き出した。


「もう、二人もいるじゃないか。十分だろう?」

「子供は何人いてもいいものですわ。生まれたばかりの子は本当に可愛らしい」

「許宮人のところにも、魏宮人のところにもいる」

「自分の子は格別です」

「……欲深いことだ」


 文叔は額に手を当てて考え込む。


「――私は、そなたを愛していない」

「存じておりますわ。でも、だからと言ってお飾りの皇后にされるのはご免です」


 言い切った郭聖通を、文叔は困った表情で見た。


「わからんな。……愛されていないとわかっていて、なぜ――」


 郭聖通はジクジクと痛む胸を押さえながら、首を振った。


「なぜ? わたくしは皇后であり、あなたの()だからです。あなたはわたくしに、皇后として後宮の秩序を維持するようにお命じになった。ならば、実のある妻として遇していただかねば。寵愛もなく、責任だけを押し付けるなんて、いくら何でも虫が良すぎると言うもの」


 正論過ぎて、文叔は郭聖通の要求を飲まざるを得なかった。






 深更、長秋宮の奥、皇后の寝所の鈴が鳴らされた。隣室に控えていた宦官の鄭麓(ていろく)は、皇帝の袍を抱えて音もなく奥の房室に通る。

 

 暗がりに、神仙の意匠の常夜灯が、ぼおっと灯っている。

 すぐに帳をめくって皇帝が出てきて、長襦の衣紋を自分で直している。


「陛……下……?」


 中から声をかける皇后の、息はまだ整っていない。鄭麓は直裾袍を着せ掛け、素早く帯を結ぶ。

 冠を直し、(くつ)を履いて立ち上がる皇帝を、帳の中の皇后が呼び止めた。


「陛下……?」

「用は済んだ。戻る」

「陛下……どうか――」


 郭聖通が帳の中から袖を捕えようと手を出すのをするりと抜け、文叔は背を向けたまま言った。


却非殿(きゃくひでん)()()


 その冷酷さに、帳の中で郭聖通が息を飲んだ。――郭聖通は名目上は皇后だが、文叔が本当に戻るべき場所は、あくまで陰麗華のもとだと宣言したに等しい。 


「見送りには及ばぬ」


 振り返ることもなく言われて、文叔はそのまま部屋を出て行く。

 引き留めることも許されず、郭聖通は一人、臥牀の上に残された。



 降り積もる落ち葉のように、諦めが重なっていく。

 なぜ、愛を取り戻せると思ったのか。――初めから、そんなものはないのに。


 運命の相手がこの人だと信じて疑わなかった。天に定められ、祝福された恋だと逆上(のぼ)せあがっていた。


 天命の在り処に、恋が生じるとは限らないのだと、なぜ気づかなかったのか。

 それでも、このまま生きるしかない。愛のない夫婦でも抱かれ、子を生さなければ。


 天の命ずるまま、「太后」となるために息子を守らなければ――


 郭聖通は予言の文字の書かれた、掌を額に当て、ただ祈った。





 十一月の雒陽、深夜ともなればかなり冷え込む。

 庭には篝火(かがりび)が燃やされ、回廊には吊り灯籠がいくつも灯ってぼんやりと明るい。小宦官が提灯で足元を照らす中、(タイル)の上に散る落ち葉を踏みしめて、文叔は足早に南の却非殿に向かう。


 今は一刻も早く陰麗華に逢いたかった。郭聖通を抱きながらも、脳裏には陰麗華のことばかり。

 

 皇后に対し、「愛はない」と宣言することで、乾いた関係を構築できればいいと思っていた。

 すでに男児が二人もいる。彊がだめでも、輔が帝位に即くだろう。あとは淡々と、地位を守って過ごせばいいはずだ。そんな風に考えていた。


 だが、郭聖通はあくまで、文叔と「夫婦」であることを求めた。


 文叔の立場で、彼女を切り捨てることはできない。赤眉を降伏させ、天下の大半は支配下に置いたとはいえ、まだまだ統一の目途(めど)は立っていない。文叔の軍団の基盤は河北、主力は幽州兵だ。河北諸劉氏を中心とする河北豪族のネットワークを取り込むとき、郭聖通との結婚は不可避だった。


 政略と割り切っての結婚でも、郭聖通をあからさまに冷遇すれば、河北の支持を失うだろう。皇帝としては、郭聖通を切り捨てるべきではない。……今は、まだ。


 だが、一人の男としての文叔は、陰麗華以外の女は必要ないと思っている。――朱仲先に言わせれば狂っているらしいけれど。


 あのまま、叛乱も起こさず南陽で暮らしていたら、文叔はただ、頭の上に押し戴くように、陰麗華一人に愛を捧げただろう。……いい加減な性格だから、もしかしたら隠れて浮気の一つや二つくらいしたかもしれない。でもこんな風に、彼女の目の前に何人もの女を並べ、さらに側室の地位に追い込むようなことは絶対にしなかった。


 ――皇后を尊重し、後宮の秩序を維持する。


 陰麗華自身の口から、他の女の元にも通うように言わせる。それがどれほどの苦痛か、文叔にもわかる。普段は心に蓋をしているが、劉聖公の一件は文叔の心にも影を落としている。誰よりも傷ついている陰麗華を守るために、なかったことにしているだけだ。

  

 もう二度と傷つけたくない愛しい女を、裏切らなければならない。表面では気丈に送り出しても、きっと今頃は一人、泣いているに違いない。――そう、だって陰麗華だって、文叔のことを愛してくれているから――


 ようやく手に入れた愛。幼い頃からずっと飢えて、飢えて、求めても得られなかったもの。

 陰麗華を傷つけることで、愛されているという実感を得ているからこそ、罪悪感がさらに膨らむ。

 

 麗華だけしかいらないのに。なぜ、彼女一人だけでいられないのか。

 今はただ、彼女を抱きしめて、他の女の記憶も名残もすべて、清めて欲しい――

 

 逸る足音と、カサカサと落ち葉を踏みしめる音を耳にして、回廊でうつらうつらしていた警備の衛士が慌てて目を覚まし、ハッとして槍を構え直す。皇帝と気づいて直立不動となる彼らの横を通り過ぎながら、文叔が笑った。


「寝ずの番、ご苦労」


 敵対勢力からの刺客を警戒して、夜間も多くの兵に警備に当たらせている。

 廊下の角を回って却非殿に着くと、なんと、控えの間から朱仲先が出てきてお互いギョッとする。


「うわっ、何奴!……って文叔? じゃなくて陛下! こんな時間に?」

「仲先?! まだ起きていたのか? お前こそこんな時間に!」

「一度寝て、小便に起きたのだ」


 さすがに仲先は普段着で武装はしていない。


「もう帰ってきたのか? 今夜は長秋宮に泊まると思っていたが」


 朱仲先が回りの目を気にしながら、文叔の耳元で尋ねる。


「首尾は? 喧嘩でもして追い出されたか?」

「まさか。落ち着かないから出てきた。枕が変わると眠れない」

「ウソつけ! 戦場でもどこでも、真っ先に寝るくせに」


 文叔が眉間に皺を寄せ、囁く。


「仲先、お前は結婚はしないのか? 後継ぎがいるだろう?」

「は? なんだ藪から棒に。……まあ、おいおい考えるさ」

「そうか……でも、なるべく早くしろよ。子供は、すぐには大きくならないからな」


 赤眉が降伏し、最大勢力となった文叔の軍閥。そろそろ、次代への継承も考え始めるべきだ。

 子供が成人し、政権を継承するには二十年は必要だろう。それまでに天下を統一し、後世への備えを固め――

 

 功臣たちの次の世代も、育成しなければならない。――陰麗華の子を支えるために。


「……欲深いのは私だな……」


 ぽつりと、誰とはなしに呟いた文叔に、朱仲先が聞き返す。


「え? なんだって?」

「いや、何でもない。……じゃな、仲先、お休み」

「あ、……ああ……」


 朱仲先が呆然と文叔の後ろ姿を見送り、それからクシュン、と一つくしゃみをする。回廊の脇の枝から、ひらりと一枚、落ち葉が舞い下りた。






 長秋宮に泊まるはずだった文叔が深夜に戻ってきても、陸宣は慌てる様子もなく出迎えた。半ば予想していたのかもしれない。


「陰貴人様はもう、御寝所に」

「わかっている」

 

 戸口のところで陰君陵や鄭麓とも解散し、文叔は一人、そっと陰麗華の房室に入る。

 音を立てないように気をつけたのに、陰麗華はすぐに侵入者に気づき、紗幕の中から誰何(すいか)した。


「……誰? 小夏?」

「いや、僕だ」

「……文叔さま? どうして……」


 だが陰麗華が慌てて身じろぎする。鼻声であるのに、文叔は胸が熱くなる。――やっぱり泣いていた。


「……今夜はあちらにお泊りになるとばかり……」

「僕の寝る場所は君の隣だけだ」


 紗幕をめくり、臥牀に乗り上げて戸惑う陰麗華を強引に抱きしめる。

 ふわりと漂う、普段とは違う香に、陰麗華が息を飲んだ。――郭聖通が焚きこめていた、沈香の香。


 (かけぶとん)をめくり、冠も外さずに陰麗華の肩口に顔を埋める。腕の中の細い身体がこわばるのがわかる。頬に触れれば、涙で湿って冷たかった。


「やっぱり泣いていた……」

「陛下……だめ……」

「すまない……僕はいつも君を苦しめる」

「その……仕方のないことです。あなたを独占するわけにいきません。それは……わかっているのですが……でも……」


 陰麗華が言葉を濁す、その様子も愛しくて、文叔は抱きしめる腕に力を籠める。


「ずっと君のことだけ考えていた。一刻も早く君のところに戻りたくて――」

「文叔さま……でも、あちらにもお泊りになるべきです。こんなのは、よろしくありません」 

「無理だよ、朝までなんて待てない。麗華、愛してる」


 耳元で囁けば、腕の中の陰麗華がビクリと震え、抵抗の意志を示した。


「文叔さま、待って……いやです……」

 

 あからさまに嫌そうに身を捩る陰麗華の様子に、以前、「他の人に触れた手で触れられるのは気持ち悪い」と言われたことを思い出したが、文叔としてはむしろ陰麗華で上書きしたい気分だった。


 だって愛しているのは陰麗華だけなのに、皇帝だから仕方なく、好きでもない正妻を抱いてきたのだ。汚されたとまでは思わないが、正直、何もかもが中途半端で、まったく満たされていない。生殺しの気分だった。


「麗華、君は僕のことを、好きでもない女とも平気で寝るクズだと思っているようだが、男だってそれなりに傷つくんだよ。――好きな女に癒しを求めたくなる程度には」


 陰麗華の動きが止まり、文叔の顔を見上げる視線を感じる。


「……待って、いや……」

「乱暴なことはしたくない。でも君は貴人として僕の命令に従う義務がある。君は僕に皇帝の役割を果たせと言うからには、君だって貴人の役割を果たせ」

「そんな……」


 絶句する陰麗華の耳元で囁くと、文叔は陰麗華の唇を塞いで、そのまま褥の上に倒れ込む。抵抗を封じ込めるように強引に求めれば、陰麗華も諦め、文叔のなすがままに身を委ねる。郭聖通との行為で点った、歪んだ欲望の焔が燃え尽きるまで陰麗華を蹂躙して、気づけば東の空が白みはじめていた。



 南宮に樹々の落葉が降り積り、やがて本格的な冬が訪れる。

 緊張を孕んだまま、建武三年も尽きていく。


 文叔はただ、春に生まれるはずの、運命の子の誕生を待った。




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