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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十三章 水の一方に在り
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母との再会

 舂陵(しょうりょう)の劉家を出て、皇帝の一行は北上して新野(しんや)県に入る。陰麗華の故郷であると同時に、鄧偉卿、鄧仲華、あるいは劉文叔の従兄・来君叔(来歙(らいきゅう))の出身地。南陽郡最大の都市・宛の南方に位置する。

 

 皇帝の一行は完成したばかりの鄧偉卿(とういけい)の家に泊まり、陰次伯(いんじはく)鄧仲華(とうちゅうか)らはそれぞれの家に戻った。陰家は鄧家の隣であり、鄧仲家の家は鄧氏坡(とうしは)と呼ばれる坡地(ためいけ)を挟んだ向かい側。ほんのすぐ近くばかりだ。 


 割り当てられた房の、まだ木の香りも清々しい新築の香を嗅いで陰麗華が寛いでいると、新野から先、帰途の護衛を務める者が挨拶に来た。

 

「陰貴人様! お久しぶりです!」


 颯爽(さっそう)と現れた武装も凛々しい女将軍の姿に、陰麗華は目を瞠る。


鄧曄(とうよう)将軍? 長安からお戻りに?」

「ええ、あたしと于匡(うきょう)は、馮公孫(ふうこうそん)将軍の道案内役でしたからね。これから先は長安より西との戦いになるし、道案内ももう必要ないだろうと陛下が仰って、南陽行幸を機にお及び戻しになったのさ」


 鄧曄はもともと、宛と長安を結ぶ街道上の要衝(ようしょう)武関(ぶかん)周辺を根城にする鏢局(ひょうきょく)・〈山狼〉の(カシラ)である。征西将軍として関中を転戦する馮公孫は潁川(えいせん)の出身で、関中の複雑な地形に慣れない。故に、地形を熟知する二人が補佐につけられていた。戦局がさらに西へと動いたため、二人は呼び戻され武関を経由して南陽に戻り、新野で軍隊を整えながら皇帝一行の到着を待っていたのである。

 鄧曄は相変わらずのサバサバした態度で、そして、いたずらっぽい表情で陰麗華に耳打ちした。


「以後は後宮内の宝を守ってほしいと仰って」


 陰麗華があっ、と思う。陰麗華の後宮での安全を守るために、文叔は女将軍の鄧曄を呼び戻したのだ。


「ここから先はあたしと、于匡とで陰貴人様をお護りいたします」


 鄧曄の視線を追えば、堂外の廂で武装した于匡が膝をついていた。 


 



 五年前、鄧家は官憲によって完膚なきまでに破壊された。木の香も新しい新築の家に、でも陰麗華の心は晴れない。

 家は作り直せばいい。でも、鄧偉卿の妻・劉君元も、彼女の三人の娘たちも戻らない。


 ――昔を取り戻そうとすればするほど、取り返せないものの存在に胸が痛む。今の繁栄はすべて、死者の犠牲の上にある。


 帰りたいと切望していた故郷なのに、消えない傷痕を自覚させられる。もう、昔には戻れないのだと――

 

 机にもたれて感傷に耽る陰麗華の耳に、院子(なかにわ)に降りていた小夏の声が聞こえてきた。


「お嬢様! 張寧さんですよ! 子供たちも一緒です!」


 懐かしい名に、陰麗華は思わず(ひさし)の方へ出た。(きざはし)の下に一歳ほどの子を抱いた女と、七、八歳の少年二人が立っていた。


「ご無沙汰しておりますです、お嬢様!」


 新野の家から勘当されて、宛から洛陽周辺を彷徨っていた苦しい時期、ずっと陰麗華を支えてくれた流民の家族。陰麗華が雒陽の後宮に入ってからは、会う機会がなかった。


「元気そうね! 会いたいと思っていたの!」 

「おかげ様で。亭主ともども今回の行幸に旦那様のお世話係として加えてもらったっちゃよ」


 張寧の夫・左武は陰次伯の配下であり、張寧の言う「旦那様」とは陰麗華の兄・陰次伯である。


「ただ、ウチらは陰家の大奥様には遠慮があるけん、旦那様がお嬢様の方にと……」


 陰次伯と陰君陵は隣の陰家に戻ったけれど、陰家をクビにされて追い出された張寧らの親子は、バツが悪いので陰麗華の方にやってきたという。

 張寧が抱いているのが、雒陽に来るときに妊娠中だった子だろう。陰麗華はその子を抱かせてもらい、上の二人の子も懐かしく眺める。陰麗華が雒陽の後宮に入って、丸二年ぶりだ。


「三人目は女の子だったのね、可愛いこと!」

 

 陰麗華は小夏に命じて甘い(たい)などを取りに行かせて、そしてふと、張寧の様子を見て気づく。


「張寧、あなた……」

「ええ、四人目だっちゃ。ちょうど、来年の三月ごろに生まれるけん、んだば、旦那様が乳母にちょうどいいって」

「……乳母……」


 懐妊のことは、陰次伯には密かに知らせてあった。陰麗華の兄・陰次伯は、生まれてくる子にとっては母方の最も年長の()()――元舅(げんきゅう)となる。


 中国古代社会において、母方の親族の影響力は強く、特に元舅のそれは父親にも匹敵する。前漢時代、外戚として皇帝を輔政し、権力を握った者の多くは母親の兄、つまり元舅なのである。

 ――皇帝に即位している以上、当たり前だがすでに父親は物故している。父のいない皇帝に対し、元舅が保護者として影響力を行使するのは、親族重視社会であれば当たり前のこと。前漢において、外戚は皇帝と一体化して、皇帝を守るための砦であり、盾なのである。言うなれば陰次伯は、元舅として陰麗華の子の文字通り後ろ盾であり、万一、彼が皇帝位に即ついた場合、外戚として絶大な権限を握ることになる。陰麗華や陰次伯に野心があろうがなかろうが、これは周囲から見た、客観的な事実であった。

 陰麗華の懐妊により、陰氏兄弟はなお一層の自制と慎重さが求められることになる。不用意な行動は陰家の破滅ばかりか、南陽と河北の二つの閥のバランスの上に成り立つ、文叔政権の屋台骨を揺るがすことになりかねない。


『外朝のことは気にせずともよい。私も君陵も上手くやる』


 陰次伯からは、子供については一切触れない、そんな返信があった。一方で、陰麗華の出産を見越して、早くも乳母の選定に入っていたのだ。


「あなたが付いてくれるなら、とても心強いわ。でも、後宮に入ってしまったら、子供たちは――」


 陰麗華が尋ねれば、張寧は顔の前でブンブンと手を振る。


「上の二人はもう、だいぶ大きくなったけん、いつまでも母親(おっかあ)を追いかけても困るっちゃよ。一度入ったら最後、二度と出らんねえ場所でもあるまいし、お嬢様も大げさだっちゃ。それより、旦那様は今度の行幸で、新野の大奥様を雒陽(らくよう)の家に来てもらうよう、説得するおつもりだっちゃ」

「……お母さまを……」


 陰麗華は、すぐ隣家でもある懐かしい実家を思い、そしてため息をつく。


 近いけれど、遠い。

 母であるが故に、拒絶された過去の痛みが蘇るようだった。


 貴人とはいえ、側室でしかない自分を、母が許してくれるのか。





 陰家の兄弟にとっても数年ぶりの帰郷であるから、陰次伯も陰君陵も忙しいのか、宴会の直前まで連絡がなかった。果たして母が来るのか否か――。


 気をもんでいた陰麗華のところに、外向きの仕事を済ませた文叔がやってきて休んでいると、鄧家の主である鄧偉卿が息子の鄧汎を伴なってやってきた。


「文叔……じゃなくて、陛下、それから陰貴人、少しよろしいかな」


 つい、昔通りに呼びかけてしまった鄧偉卿が慌てて言い直し、牀に寛いでいた文叔が顔の前で手を振る。


義兄(にい)さん、ここでは昔通りに呼んでくれ、陛下なんて言われたら、気が滅入るよ」

「それなら、お言葉に甘えて――」


 そうして鄧偉卿が改めて言った。


「文叔、麗華嬢、聞いてもらいたいことがあって――」

 

 よく見ると、鄧汎(とうはん)の後には于匡と于曄の兄妹、そして鄧曄将軍までいた。


「どうぞ、小父様、お座りになって」


 陰麗華が牀を勧め手を叩いて小夏を呼ぶ。


「小夏、皆さまに(あまざけ)を……」

「はい、ただいま!」


 すぐに出てきた小夏は、于曄を見て複雑な表情をする。――于曄も関係する話らしいことに、陰麗華も気づいていた。

 一同が座につき、小夏が椀に入った醪酒を配り終えたところで、鄧偉卿が言った。


「実は……再婚しようと思うのだ」

「……義兄さんが?」


 文叔が身を乗り出し、陰麗華と顔を見合わせる。小長安で妻の劉君元を失って、もう五年。鄧偉卿もまだ四十前だし、残っている子供は鄧汎一人。再婚を考えるのは不思議ではない。

 文叔が言った。


「それはいいことだと思う。鄧汎には呉房侯として、元姉さんの祭祀を任せることにしてしまったから、房子侯としての義兄さん自身の後継ぎも必要だし」

「それでなんだが……」


 鄧偉卿が少しだけためらってから、背後を振り返って言った。


「于曄を、娶りたいと思っている」

「えええ?」


 陰麗華も文叔も驚きで目を瞠り、控えていた小夏に至っては大声で叫んでいた。


「曄さんを?! でもっ……!」


 于曄が困ったように俯いたようすから、陰麗華は悟る。……以前から密かに言い交していたとか、そういうことはなく、最近になって突然、鄧偉卿の方から申し込まれた話のようだ。

 陰麗華もまた困惑し、無意識に文叔と顔を見合わせる。鄧偉卿と于曄の縁談など、想像もしなかったからだ。

 

 現在、于曄の兄・于匡は輔漢将軍として文叔の側近の一人だ。かつて、漢軍が王莽を誅殺する際に、長安へと先導した立役者でもある。寵臣の妹で、かつ寵姫の侍女である于曄と、妻を亡くしたやもめ男の鄧偉卿の結婚は、それほど不自然には見えないかもしれない。


 ただ、もともと于曄は南陽新野の、陰家の(はしため)である。――閨に侍る妾である御婢(ぎょひ)ならばともかく。それくらいの身分の懸隔(けんかく)があった。


 しかも、実は于曄は、新都侯時代の王莽が下婢に産ませた私生児である。都・常安に引き取られ、睦脩任(ぼくしゅうじん)(任、は王莽時代における公主の称号)に封じられたが、長安陥落後の混乱の中、行方知れずとなったことにし、過去は封印して陰麗華の側仕えとして一生を送るつもりであった。王莽の子である以上、迂闊な男のもとに縁付けるなど、絶対にできない。


 ……鄧偉卿は于曄の事情を分かったうえで、娶ろうと言うのであろうか?


「その……小父様、曄はいささか込み入った生まれでございまして――」


 陰麗華が尋ねれば、鄧偉卿は頷いた。


「ああ、それも最近、于匡から聞いた。正直、驚いたが――しかし俺は、やはり妻にするなら故郷の人間がいいし、于曄ならばその為人(ひととなり)も知っている。息子も于曄ならば構わないと言ってくれた」


 鄧汎は目を伏せる。


「曄には、死んだ妹たちも懐いていたから……」


 五年前、小長安で官軍に敗で、鄧偉卿は妻・劉君元と三人の娘を失った。だが官軍の頂点には当時の皇帝・王莽がいたわけで、于曄はつまり、鄧偉卿の仇の娘でもある。


 陰麗華の懸念を察知したのか、鄧偉卿が静かな声で言う。


「人は親を選べない。奴婢として二十年以上捨て置き、突然、身勝手に連れ戻す。……あのまま、長安で死ぬようなことがなくて、本当によかった。同情というのとも違うが、あの過酷な環境を生き抜いた曄ならば、小長安から昆陽の戦いを乗り越えた俺を支えてくれると思うのだ」


 淡々と語る鄧偉卿の言葉に、文叔と陰麗華は無言で視線を交す。叛乱を起こして五年。鄧偉卿も于曄兄妹も、歴史の渦に翻弄されつづけてきたのだ。

 文叔が言った。

 

「いいんじゃないか。于曄は陰麗華の側仕えで、兄は于匡将軍、兄嫁は鄧曄将軍。鄧曄将軍の鄧氏と、新野の鄧氏は別家だけど、于家との縁組を通じてつながるのは、南陽の戦略としても悪くない」

「え、そんな理由で?」


 思わず突っ込む小夏に、文叔が苦笑いする。


「そういうもっともらしい理由が必要なこともあるんだよ、男にはさ」

「俺たち兄妹が、もともと陰家の奴婢だったのを、憶えている者もいるかもしれない。そういう人間には、現在の状況からの、婚姻の利益を説明するのは必要なことだよ、小夏」


 横から于匡が言い、そんなものなのかと、小夏が首を傾げる。陰麗華は不安になって尋ねた。


「于曄本人はどうなんです? 彼女の気持ちは?」


 ずっと黙って控えていた于曄がびくりと身を起こす。


「わ、わたしは――」


 于曄は周囲を見回してから、言った。


「その……身分違いですし、何よりわたしはもう、三十になろうかと言う年齢で――今さら結婚だなんて、考えたことも……」

「俺ももう四十だからちょうどいい」

「でも……」


 この時代、早い者は十代の半ばで結婚するから、于曄ははっきり嫁ぎ遅れの年齢に差し掛かっていた。さらに奴婢出身で、後妻とはいえ列侯夫人は恐れ多い、と言う。


「黄姉さんなんか、四十過ぎているけど、再婚する気満々だけどな」

 

 首を傾げる文叔に対し、于曄が反論する。


「あの方は劉家のお嬢様ですし、何より公主様じゃないですか! 生まれが違いますよ!」


 それから于曄が陰麗華を見て言った。


「それにわたしは……一生、お嬢様にお仕えするつもりでいましたのに。ですから結婚なんて――」

「あーそのことなんだが」


 コホンと咳払いして鄧偉卿が言った。


「結婚しても仕事は続けて構わないから」

「ええ? そんなことできるんですか?!」

 

 思わず、陰麗華主従が声を合わせて尋ねていた。


「完全に今まで通りとはいかないかもしれないが、どうせ雒陽に住むわけだし。俺と結婚すれば房子侯夫人となる。列侯夫人の身分なら、後宮への出入りも可能だ」


 漢代の列侯爵と言うのは、それを持つだけで奉朝請といって朝政に参加する資格を得る、非常な特権階級である。列侯の夫人ともなれば、趙夫人と同様の身分になるわけで、陰麗華の周囲に侍るのに問題はない、というのが、鄧偉卿の意見だった。


「麗華はどう思うの?」


 文叔に聞かれ、陰麗華も言った。


「……わたしは、その……曄はもともと美人で、もっと早くにお嫁に行ってもいいと思っていたし、幸せになってほしい。相手が小父様というのは、想像もしていませんでしたが……」

「お嬢様……」


 戸惑う于曄に鄧偉卿が言う。


「こんなおっさんが相手で、さらに初婚でもないし、大きなコブまでいる。だが、もし人生を共にしてもいいと思ってくれるなら、俺のところに嫁にきてもらいたい」


 すっぱり言い切った鄧偉卿に、ずっと黙っていた鄧曄将軍が言った。


「さすが! これぞ真の(オトコ)だね! ここまではっきり申し込まれたんだ、于曄も真剣に考えて返事をすべきだよ! あたしは応援するよ! 義妹には幸せになってほしいからね」

「……わ、わたしのような者でよろしいのでしたら……」


 蚊の鳴くような声で恥ずかしそうに「お受けします」と言った于曄に、陰麗華もホッと胸をなでおろし、その場の空気が緩む。

 身近な二人が結婚し、新しい家族が生まれる。

 結婚が、幸せをもたらすとは限らないことを、陰麗華が自身が嫌と言うほど味わった。でも、結婚しなければ得られない幸せも、たしかにある。





「じゃあ、話がまとまったことで、そろそろ――」

「そうだな、近隣の者も集まってきているようだし」


 ちょうどそこに、隣家でもある南陽最大の富豪・陰家の到着が報じられた。


「……鄧夫人が来たらしい。まず、俺が行って挨拶をしてこよう」


 鄧偉卿が立ちあがり、「ついでに于曄との件を報告したいから」と于曄と于匡の兄妹を伴って出て行った。


「だ、大丈夫かしら……」

 

 ふいに不安になって、陰麗華が両手を胸に当てる。ただでさえ、娘の陰麗華と文叔の結婚には反対だった母だ。イトコである鄧偉卿の再婚相手が自家の奴婢だなんて、礼の規範に煩い生真面目な母がどう思うか、想像もできない。

 

 結局、母とは宴の前に会うことはできなかった。鄧偉卿が再婚相手を紹介したため、その場にいた人間を巻き込んで騒ぎが起きて、母子をひっそり対面させることができなくなった。――その場で最も動揺したのが、陰次伯であったらしい。


「次伯は、もしかしたら于曄のことが好きだったかもしれないね」


 こそっと文叔に耳打ちされて、陰麗華がえええ?っと振り返る。


「まさかそんな……」

「だって年齢も近いし、子供のころから側にいただろう。――主家の若様と奴婢とで、身分が違い過ぎたし、近すぎて、気持ちに気づかなかったかもしれないけれど」


 兄と自身の侍女の関係についてなど、考えたこともない陰麗華は、首を傾げるしかない。


「その娘が、隣家の、それも親族の男の妻になるんだから、複雑かもしれないね。――身分違いと思っていたけれど、一歩踏み込む勇気があれば、もしかしたら――」


 しかし、その話を聞いていた鄧曄将軍の意見は少し違った。彼女は鄧氏とは言っても南陽ではなく、弘農(こうのう)郡の(せき)県の出で、別族になる。


「あたしに言わせれば、南陽の旦那方は割と頭が固い。身分違いの結婚に踏みきったりしないだろうよ。鄧偉卿の旦那は再婚で、息子はもういる。次伯の旦那は、初婚だし、陰家まるごと支えなきゃいけないんだから」


 さらに言えば、鄧偉卿の亡き妻は皇帝の姉・劉君元。亡き妻を凌ぐほどの、身分の高い妻を娶るのも憚られる。成り上がりの寵臣である于匡の妹、というのはかえってちょうどいい。

 逆に、陰家は陰麗華の懐妊によって、難しいかじ取りを迫られることになる。陰家を支えられるような、しっかりした家の娘が望ましい。


「おそらく、南陽のどこか大家から、お嫁さんをもらうことになると思うね」


 郭聖通と文叔との結婚を後押しした、河北の豪族。陰麗華との婚姻は、河北勢力に対抗して、南陽の豪族とのバランスを取る意味もある。陰家は南陽豪族との絆を深め、そのネットワークで陰麗華を守らなければならない。

 

「……お兄様はそれでいいのかしら……」


 ポツリと呟く陰麗華に、文叔が笑った。


「賈君文が言っていたよ、南陽の女が一番だってね。……男は結局は故郷の女を求めるものさ。そこが要するに還る場所だから」


  



 鄧家の真新しい堂内だけでなく、外の中庭まで溢れた人々の中に、文叔と陰麗華が顔を出す。舂陵(しょうりょう)での宴会は劉氏の身内のものだったが、これは鄧氏を挙げての大宴会となっている。同族の鄧仲華の家の者ももちろんいるし、同じ新野の来君叔や、棘陽(きょくよう)の趙家(趙夫人の実家である)、宛からは李次元の実家の李氏、朱仲先の実家の朱家と、新野周辺の大家から詰め掛けた。


 ――そして、南陽でも最大の富豪である新野の陰家。皇帝・劉文叔の妻・陰麗華の実家。

 

 正装した陰次伯と陰君陵、そして弟の陰就と陰訢に支えられるようにして、陰麗華の母・鄧夫人が堂に入ってきた。

 

 黒髪を二つに分け捩じってうなじのところで(こうがい)でまとめた地味な髪型に、紅い襟に黒い曲裾深衣(きょくきょしんい)。白い刺繍の帯に、紅い飾り紐で垂らした瑪瑙(めのう)佩玉(はいぎょく)だけが身を飾る、質素な姿。

 四十を過ぎてもなお十分に美しい鄧夫人の様子に、さすが皇帝の寵愛を独占する寵姫・陰貴人の母親だと、皆が納得する。


 ゆっくりと皇帝の前に進み出、膝を折ろうとした鄧夫人に対し、素早く立ち上がって牀を降りた文叔が膝をつかんばかりにその細い身体を支える。


義母(はは)上、長らくご無沙汰をしております」


 へりくだる皇帝の言葉に、一同ハッとする。


「そのような過ぎた礼は不要です。……わが娘は一妾姫でしかございません」

「いえ、()の母は我が母も同じです」

 

 はっきり言い切った皇帝に、だが鄧夫人は緩く首を振る。


「……秩序を乱すべきではありません。そこを弁えてくださらないと、娘の不幸せになります」

「――さぞ、不甲斐ない婿と思っておられることでしょう」

 

 その言葉に鄧夫人が思わず笑い、文叔に支えられて陰麗華と同じ牀に腰を下ろす。

 

「至尊の位に即かれた方が、言うに事欠いて不甲斐ないとは」


 そして陰麗華を見て、言った。


「……わたくしはやめておけと言ったのですよ。渦の中心に近ければ近いほど、巻き込まれて苦労すると、分かり切っていたのに」

「……お母さま……」


 思わず涙を零した陰麗華を、鄧夫人がそっと抱きしめる。


「天命の渦は南陽も天下も、全てを飲み込んでしまう。――この、陰家もまた」


 それから文叔を見て鄧夫人が尋ねる。


「次伯に聞きました。わたくしも南陽を離れ、雒陽に移るべきと。ただ、田舎の一婦にすぎぬわたくしに、後宮の暮らしはあまりにきらきらしく思われます。時折、娘のもとを訪ねる程度でも?」

「もちろんです、義母(はは)上の望まれるようになさってください」


 文叔の答えに、鄧夫人が言った。


「……まさか、故郷を離れることがあろうとは、思ってもみませんでしたよ」




 陰麗華の母・鄧夫人は雒陽に移り、そのまま故郷に戻ることはなかった――。


 

 


 

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