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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
第十三章 水の一方に在り
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後宮の闇

 妊娠を(おおやけ)にすれば、間違いなく騒ぎになる。

 皇帝の寵愛を独占する清涼殿様こと陰貴人が妊娠すれば、きっと後宮中の注目を浴びてしまう。長秋宮の干渉から逃げ回るのも、限度があるだろう。


 ――自由に考えられる時間は、今しかない。


 陰麗華は于曄に尋ねる。


「曄は前に、未央宮にいた時、漢の后妃様たちの恐ろしい話を聞いたと言っていたわ。……その時は恐ろしくて、詳しく聞けなかったのだけど」


 于曄が陰麗華のために、温めた醪酒(あまざけ)をお湯で割ったものを塗り椀によそいながら、首を傾げた。


「ええ……いろいろと、恐ろしいお話をお聞きしました」

「やはりその……後宮で嫉妬に狂って赤ちゃんを殺してしまうとか、そんなことが本当にあったの?」


 赤子を殺すなんて恐ろしいと陰麗華は思うが、嫉妬に狂って妊婦を池に落とす女が、雒陽(らくよう)の南宮でも実際に出た。唐宮人の血走った目を思い出すと、陰麗華はいまだに身震いが起きる。


「いろんな噂はございますが、成帝陛下の御代(みよ)にあった出来事は、わたしも聞いた時は本当に()()()が走りました」

「成帝……というと……わたしが生まれるよりもうんと前……」

「成帝の母君が、例の王莽の伯母の、王皇太后です。新になって、新室文母太后陛下と呼ばれておりましたけど」

 

 後の王莽簒奪の基礎を築いた、外戚王氏。その横暴を止められなかった成帝は、人生に厭いて、夜な夜な長安の街に微行(おしのび)を繰り替えし、そしてついに、卑しい生まれの踊り子に心を奪われた。


「ああ! その話は聞いたことがあるわ。……たしか、趙飛燕(ちょうひえん)!」


 陰麗華が椀を両手で包み、覗き込むようにして言えば、于曄が大きくうなずいた。


「ええ、そうです。とうとう、その踊り子の趙飛燕を皇后にし、妹の趙合徳(ちょうごうとく)昭儀(しょうぎ)――もっとも高位の妃嬪の位につけ、姉妹で寵愛を独占したのです」


 陰麗華が眉を顰める。

 昨年、文叔も夜な夜な微行(おしのび)に出歩き、郭聖通が神経を尖らせていたのは、趙姉妹の故事の再現を恐れていたせいだと、陰麗華は今さら気づく。文叔は山で狩猟に駆け回って、野生の猪やら鹿やらを追いかけるだけで、女っ気の欠片もなかったけれど、成帝のように盛り場で踊り子を見初めていたら、大変なことになっていた。――郭聖通が陰麗華に対し、イライラしていたのも当然だ。彼女にしてみれば、陰麗華はずいぶんと暢気な女に見えていただろう。


「趙姉妹には一向に、子が生まれない。また成帝陛下も移り気な方で、それ以外にも何人もの女たちが……」


 陰麗華は眩暈(めまい)を感じてこめかみを押さえる。――すごく、嫌だわ、そんな男。だが、于曄は陰麗華の様子に構わず、話をつづけた。


「成帝陛下にもずっと御子が産まれず、後継ぎのことが大きな問題になっていたそうでございます。そんな時、どうも二人の女が身ごもった」


 官婢(かんぴ)曹偉能(そういのう)と、離宮を賜わっていた許美人。


「許美人の方は廃位された最初の皇后・許皇后の親族なので、許氏を取り立てられない事情があったようです。特に当時、寵愛を独占していた昭儀の趙合徳がひどく許氏を恨み、成帝陛下に強く迫って赤子を殺させたとか」

「……!」


 陰麗華が思わず片手を胸にあて、目を閉じた。


「……後継ぎがいなくて困っているのに、他の女に言われて折角生まれた子供を殺すなんて、その成帝という方もちょっと……」

「そういう性格の方ですから、外戚王氏の横暴を止められなかったわけで……」


 于曄が言い、さらに続ける。


「もっと悲惨なのは官婢の曹氏で……こちらは皇帝陛下の寵愛を受けたことが公になっておりませんで、宦官らが保護して子を産ませたそうなのですが、趙合徳に嗅ぎつけられ、毒薬を賜わったそうにございます。しかも、出産に関わった官婢たちも自殺を命じられ、すべては闇に葬られてしまった」


 ようやく得られたかもしれない後継ぎの皇子の命は、無惨にも摘み取られてしまった。


「当時、長安の街では、こんな童謡(わらべうた)が流行ったそうにございます」



 燕 飛来し、皇孫を(ついば)

 皇孫 死して、 燕 (くそ)を啄む



 燕、とは卑しい踊り子だった皇后・趙飛燕の比喩。趙姉妹が後宮に巣食い、皇孫を食い殺す――。


「……恐ろしいこと……」

 

 そこまで言って、陰麗華はふと気が付く。


「その、闇に葬られたはずの事件がなぜ、噂やら童謡になっているの? 当時噂になっているのなら、それこそ他の――たとえば皇太后などの耳にも入るのでは?」


 陰麗華の問いに、于曄が頷いた。


「まず、皇太后陛下は未央宮ではなく、隣の長楽宮にお住まいだったそうで、かなり距離がございます。あと、今の陛下は真面目で、後宮にも滅多に足を向けませんが、放蕩天子で女出入りが激しい成帝陛下の後宮でございましたなら、誰が妊娠してもおかしくはないかと思います。ただ、この件はずっと隠蔽され、明るみになったのは成帝陛下の死後、哀帝陛下の御代になってからだそうです」

 

 訴えがあって役人が捜査を行い、当時の証言を集めてようやく、趙氏の罪が明らかになったという。


「哀帝陛下は成帝陛下の甥御さま。……つまり、その時の赤子が殺されていたおかげで皇帝に即位できたわけですから……」

「それはそれで複雑ね……」


 陰麗華は目を伏せる。


 皇后や高位妃嬪に子がなく、下位の嬪御が子を孕む。――他に子がなければ、その子が次代の皇帝になる。『母は子を以て(とうと)し』。皇帝の母が皇太后として、権力を握るのが漢のしきたりだ。


「……後宮で子を産むというのは、恐ろしいことね……」


 陰麗華が呟く。だが于曄は苦笑いして言った。


「子のない嬪御の行く末の方が悲惨でございますよ。あるいは、後継争いに敗れても、母子もろ共に殺害された例もございますよ」

「……そうね、わたしが恐れているのはそれだけど……」


 陰麗華は思いめぐらす。


『母は子を以て貴し』――これは漢代の不文律ではあるが、もともと、『子は母を以て貴し』の裏返しである。


 子供は高貴な母より生まれた者、正妻の子が優先される。 

 今、正妻である郭聖通にはすでに男児が二人もいる。ここで陰麗華が男児を産んでも、許宮人の子の次の、四男である。


「……そんなに、心配することもないのかしら……?」

「それは甘いというものね」


 不意に声が飛んで、陰麗華がハッと顔をあげると、趙夫人が(いま)に入ってきたところだった。


 慌てて立ち上がろうとする陰麗華を制し、趙夫人はずかずか入ってきて、薦められもしないのに、陰麗華の隣に座った。


「南陽への行幸の準備で、いろいろバタバタしちゃって――もちろん、うちの息子たちも連れていくから、あれこれ、大荷物よ」


 于曄が慌てて周囲を整え、小夏が甘酒の壺を捧げて入ってくる。その後ろからは、狗の柳がのんびりと歩いて、陰麗華の牀の下にどでんと伸びて座り、大あくびをする。


「成帝の御代の話は、あたくしも聞いたことがあるわ。――例の、邯鄲(かんたん)で兵を挙げた卜者(うらないし)の王郎は、成帝のご落胤の劉子輿(りゅうしよ)を名乗っていたわ。殺されないように密かに後宮を出て育てられたって。そういうのがあり得ないわけじゃない、そんな宮廷だったのよ」

「……まさか本物だったなんてことは……」


 陰麗華が呟けば、趙夫人が口元を袖で覆って笑った。


「あり得ないわよ、そんなの。証拠がなければホンモノにはなり得ない。証拠があるなら、もっと早く、せめて哀帝陛下が崩御した後にでも名乗り出るべきだったわね。――どのみち、ろくな人生じゃないわよ、そんなご落胤に生まれたって」


 その言葉に陰麗華が深いため息をつく。すると隣の趙夫人が耳元に顔を寄せて言った。


「本当にね、皇帝の息子なんかに生まれたって、ろくなことはないの。……うちの息子たちもね」


 陰麗華はハッとして趙夫人の顔を見た。趙夫人がいつもの堂々とした微笑みで、陰麗華を見返している。


「わかっているわよ、でもね、ここがあなたの思案のしどころなの」

「え……ええ、わかります……」

「まず、大事なのはね、長生きよ」

「はい?」


 陰麗華が首を傾げる。


「人間、とにかく先に死んだ方が負けなの。だから麗華ちゃん、あなたも長生きしないとね」

「はあ――」

「例えば――例の、最も恐ろしい皇太后と言われた呂后(りょごう)だけど……」


 趙夫人に言われ、陰麗華は人差し指を顎に当てて考える。


「ああ、高祖皇帝様の正妻の」

「そうそう。最後、寵愛は(せき)夫人に移って、危うく皇太子の座も、戚夫人の子の趙王(ちょうおう)如意(じょい)に奪われそうになって。息子の恵帝が即位して、自分が皇太后になったらもう、やりたい放題。趙王如意はアッサリ毒殺したけど、戚夫人なんて、手足を切り落として目を潰し、耳もつんぼにして、『人彘(豚人間)』って呼んで便所に転がしておいたらしいわよ?」

「えええ?」


 陰麗華が両手を胸に当てて真っ青になる。


「その話はわたしも聞いたことありまーす!」


 醪酒を温めながら小夏が言い、于曄も頷く。


「……だから陰麗華ちゃんも、気をつけないと」

「いえ、そんなのは気をつけようがありません!」

「でも、今の麗華ちゃんの状況に一番近いのは、戚夫人じゃないかしらねぇ……」

「やめてください、そんな脅すようなの……」


 陰麗華が両頬を両手で包んで俯く。


「そうね、そもそもあなたは、自分から身を引く形で皇后を辞退し、貴人の位に甘んじているのよね?」


 指摘されて、陰麗華がハッと顔を上げる。

 ――すっかり忘れていたが、もとはそうだった。


「まず、そのことをもう一度、長秋宮様には思い出していただくべきよね」

「それは――むしろ、長秋宮様を不安にさせてしまうのでは……」

「そう、不安よ。不安がいけないのよ」


 趙夫人は醪酒の椀を取り上げ、ゆっくりを一口飲んでから、それを(おぜん)に戻す。


「人は不安に駆られると、他者への攻撃性を向き出しにする。邪魔者を排除しようと躍起になる」


 趙夫人が陰麗華をまっすぐに見て、余裕のある笑みを浮かべて尋ねる。


「……陰麗華ちゃんはもし……もしよ? もし男の子が生まれたら、どうしたい? やっぱり皇帝にしたい?」

「まさか! とんでもない!」


 陰麗華が慌てて顔の前で手をブンブン振る。

 何しろ、陰麗華は文叔の忙しさを間近に見ている。ストレスの溜まり具合も半端ないとわかる。狩猟に逃げたのも、きっとそのせいだ。


 皇帝になって、何もいいことなどなかった。

 息子には、そんな窮屈な人生を歩んでほしくない。

 

 それになにより――


「わたしや、生まれてくる子がもし男の子であった時、周囲の悪意や憎しみにさらされたくはないの。――今さら、何を言うのと言われるかもしれないけれど」


 趙夫人はそんな陰麗華をじっと見つめ、ため息をついた。


「麗華ちゃんの気持ちとしては、そうでしょうね。でも、周囲はそんな風には見ないわよ?」

「ならば、どうしたらいいのでしょう?」


 わたしはただ、争いたくない。

 甘いと言われるかもしれないけれど、子供の帝位を目指し、周囲を押しのけていく力なんてない。


 ただ、守りたい。――生まれてくる子供を後宮の闇から。


 それには、どうしたら――





 建武三年(西暦二十七年)十月。皇帝・劉文叔は故郷、南陽郡の舂陵(しょうりょう)への行幸を行った。


 地皇三年(西暦二十二年)、奇しくも同じ十月に、文叔は兄・劉伯升や李次元、鄧偉卿(とういけい)らとともに、王莽政権への反旗を翻した。官憲に事前に動きを察知され、(えん)では李氏の一族数十人が処刑された。翌十一月の小長安の戦いでは、文叔の姉やその娘たち三人を含め、多くの劉氏一族が、官軍の手にかかって命を落とした。


 それから丸五年――。

 反乱の起点となった南陽郡は、戦乱に踏み荒らされ、度重なる略奪も受けた。叛乱の首謀者であった劉氏への反感すらわだかまり、鄧偉卿の甥、鄧奉が南陽の自立を目論んで兵を挙げ、南陽はさらに荒廃した。この四月にようやく南陽を平定し、鄧奉を誅殺し、文叔は挙兵以来初めて、故郷舂陵(しょうりょう)へ行幸する。


 懐かしい、故郷の風景。

 緑の畑の間に坡池(ためいけ)が点在し、(すいろ)が張り巡らされた新興の開拓地。じっとり湿り気のある空気、起伏に富んだ地形。


「……帰ってきたのね」


 思わず呟く陰麗華に、隣に座る文叔が微笑む。


「そうだね。……意外と近い。もっと早くに来ればよかった」


 近くて遠い故郷に、ようやく戻ってきた。――一士大夫とその妻としてではなく、皇帝と、その貴人として。





 丸五年ぶりに舂陵の旧宅に足を踏み入れ、文叔は感慨深げに周囲を見回した。護衛の兵士や従者が整列する物々しさに、まるきり別の家のようにも思える。


 暦の上では冬に入っているが、澄んだ空気に青空が広がり、午後の日差しは暖かい。


 ――今宵は親族や古くからの知り合いを呼んで、旧宅で宴を開くことにしている。邸内はばたばたと、準備に駆け回っていた。文叔は控えていた陰君陵に言った。


「皆は休んでくれ。……私は時間まで、そのあたりをぶらぶらしたい」

「しかし、陛下――」

「大丈夫だ、昔の家だ。お前たちより、私の方が詳しい」


 文叔はそう言うと、まだ車の中にいる陰麗華に声をかけた。


「麗華、白水坡に行こう。……二人だけで」


 もちろん周囲は止めたけれど、五年ぶりの帰郷になる皇帝の意向には逆らえなかった。陰君陵と于曄が遠くから見守るという条件で、陰麗華と文叔は二人、手を繋いで歩いて白水坡へと向かう。


 ――劉家の南側、わずか二里(約八〇〇メートル)。


 堤の上から見下ろせば、白水はゆったりと蛇行し、中洲には枯草が茂り、水鳥の巣が作られていた。岸辺には柳の長い枝が風に揺れ、対岸は相変わらず、無人の草むらが広がっている。やや翳った午後の陽光を反射して、水面にはさざ波が煌めき、青い空を鷺が悠然と飛ぶ。


「……変わらないな、ここは昔のままだ」

「ええ、十年前と同じ――」


 文叔が陰麗華を振り向いて言う。


「あれからもう、十二年? 十三年?」

「十三年です。わたしがまだ、十歳でした」


 陰麗華が言えば、文叔も笑った。


「僕もまだ二十歳で……まさか、こんなことになろうなんて、想像もしなかったよ」


 文叔が背後の邸をチラリと振り返り、陰麗華の手を取る。


「あの時の(こうし)、憶えてる?」

「ええ、もちろん」

「あれから叛乱の時までは生きてたんだけどね。途中で連れて歩くのは無理になって、湖陽あたりで農家に売ったんだ。――今、どうしているかな」


 文叔はゆっくりと堤を降りながら言う。


「……元姉さんも、伯升兄さんも、仲兄さんも……母さんも死んだ。親戚もたくさん」

「ええ……そうね」

「僕が、殺した人間もたくさん」

「ええ……」


 膝まで伸びた枯草を払いながら、水際まで降りて、文叔は懐かしそうに目を細めた。


「ああ、桟橋(さんばし)は辛うじて残ってるな。あの、中洲の横の杭によく網を張った。あの時――兄さんの婚礼の時も、あそこで大きな鯉魚(りぎょ)を捕まえた」


 文叔が水の中を指差す。


「岸の柳の木あたりが、いい釣りの場所になる。日陰になるし、ちょっと深くなっていてね。大物がかかるんだよ。あの日、あそこで偉卿兄さんと、次伯と、あと――」


 鄧少君の名を口にするのを躊躇(ためら)う文叔の気持ちを(おもんばか)り、陰麗華が言った。


「ええ、彼も――でも、彼はすぐに飽きて昼寝していたわ。あの堤から伯姫と二人で見て、すぐにわかった。あなたは釣竿を置いて、迎えに来てくれた」


 劉伯升の婚礼を控えた、うららかな春の一日。

 未来に何が起こるかも知らず、ふざけて、はしゃいだ思い出。

 すべてが、夢のようだった。


「……夢なら、よかったのに」


 陰麗華がポツリと言った。


「全部が夢なら――目が覚めたら、叛乱も戦争も全部夢で――あの時のまま平和な時が流れている世界に戻れたら。そうしたら――」


 文叔は叛乱を起こさず、何事もなく陰麗華を妻に迎え、白水の畔の家でごく普通の士大夫として生きていく。

 もしかしたら、官吏になって出世したかもしれないし、豪族として開墾と蓄財にいそしみ、鉅万の富を稼いでいたか。――商売の才能のある文叔だから、商いの方がきっと向いていただろう。

  

 文叔の姉・劉君元やその娘たちも、小長安で非業に(たお)れた劉氏一族も、劉聖公に殺された劉伯升も、昆陽で文叔の軍に敗れた百万の兵も、そして、鄧少君も、今頃は死なずに生きていたかもしれない。


 ――だって、すべてが変わったのは、ほんの五年前のことなのだ。自然は何も変わらないのに、ただ、人の世だけが――

 



「陛下」


 陰麗華が文叔に呼びかける。……この機会を逃せば、伝えられない。


「……麗華、二人っきりの時は文叔と――」

「このご報告は陰麗華個人ではなく、陰貴人として申し上げねばならないことです」


 文叔は少しだけ息を飲み、体ごと向きを変えて陰麗華に正対した。――陸宣が気づき、于曄も気づいている。文叔が、気づいていないはずはない。それでも、陰麗華自らが告げるまでは、気づかぬふりをしてくれたのだろう。


 陰麗華は文叔を見上げ、両手をまだ膨らまない腹に当てて、言った。


「……身ごもりました。陸宣が申しますには、間違いないと」


 文叔の、黒い大きな瞳がみるみる丸くなり、大きな形のよい唇が綻び、破顔一笑した。


「そうか! よかった!」

 

 文叔は両手を陰麗華に差し出し、白い手を包み込みように取る。


「そろそろだろうと思ったけれど、やはり嬉しい。男女どちらでもいい、とにかく無事に生まれるよう、天にも、地にも祈ろう」


 文叔がこってりと蕩けるように微笑み、陰麗華を抱き寄せた。


「……陛下。それで、お願いがございます」


 文叔の腕の中から、陰麗華が迷いのない瞳で文叔を見上げる。


「約束して欲しいのです。たとえ生まれた子が男児であっても、これを後継ぎにはしないと。皇太子は、長秋宮様の産んだ皇子殿下だと」




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