赤龍上天
其祝文曰、「皇天上帝、后土神祇、眷顧降命、屬秀黎元、為人父母、秀不敢當。羣下百辟、不謀同辭、咸曰、『王莽篡位、秀發憤興兵、破王尋・王邑於昆陽、誅王郎・銅馬於河北、平定天下、海内蒙恩。上當天地之心、下為元元所歸。』讖記曰、『劉秀發兵捕不道、卯金修德為天子。』秀猶固辭、至于再、至于三。羣下僉曰、『皇天大命、不可稽留。』敢不敬承。」
――『後漢書』光武帝紀
別れた女房を後宮に入れてもいいなら、皇帝になる――。
あまりの発言に、朱仲先はギョロ目を剥いて、ハクハクと息を吸った。まるで水が足りない池の鯉みたいだな、と文叔が思うそばから、朱仲先が怒鳴った。
「いい加減にしろ! いくらなんでも――」
「……本当に、彼女さえ手に入るなら、皇帝になりますか?」
きわめて冷静に耿伯山が言い、朱仲先は声を飲み込む。文叔は耿伯山をまっすぐに見て、応える。
「私は以前から、彼女さえ手に入るなら何でもするつもりだった。状況に流されて郭聖通を妻に迎えたが、本当に愛しているのは彼女だけだから」
耿伯山もその視線を正面から受け止めた。
「……跡取りは、すでに生まれている。それは変わることはなく?」
「おい、伯山、おぬし――郭聖通どのはおぬしの従妹ではないか!」
朱仲先がさすがに、文叔の現在の妻のことを言い出せば、伯山は肩をすくめた。
「最初に、無理を言ったのは我々です。それに皇帝になるならばなおさら、複数の女を後宮に蓄えるのは当たり前のことです。王莽や劉聖公のように、際限なく女を後宮に集めるよりは、かつての女房の方がマシです。少なくとも、舂陵劉氏に釣り合う家なのでしょうからね」
「新野の陰家は、管仲の後裔だと言っていて、南陽でも最大の富豪だ。新野の鄧家とは姻戚になる。――真定王の家系には及ばないが、真定の郭氏に劣ることはない」
文叔の素気ない言葉に、耿伯山はうなずく。
「そういうことならば、致し方はありませんな。即位後、郭聖通を皇后に立て、陰氏を後宮の一夫人に迎えるならば……」
しかし文叔は首を振った。
「皇帝になるだけでたいへんなのに、さらに皇后まで立てる余裕なんてない。王莽は昆陽で負けた後、新たに皇后を立てて総スカンを食っている。皇后を立てるのは、洛陽を落としてからだ」
「後継ぎは彊だと、約束していただけますかな?」
「約束も何も、今のところ、彊しか息子はいない」
文叔は耿伯山に告げた。
「……伯山の言うことは理解した。皇帝即位について、前向きに検討する」
耿伯山は牀を降り、磚敷きの床の上に膝をつき、頭を下げた。
「この耿純、意見をお聞き届けいただき、感謝の言葉もございません」
「堅苦しいのはなしだ。……たとえ皇帝になっても、私的な場では今まで通りにしてくれ。そうでなければ、皇帝にはならない……もちろん、仲先も」
二人は顔を見合わせ、頷く。
「わかっている。俺はずっと友人のつもりだ。……お前の気まぐれで、突然首を切られたりしないならば」
「そういうことをしないお人だと思うから、皇帝になっていただきたいのですよ。我々の未来のためにも」
耿伯山はそう言うと、諸将には自分が上手く説明するからと言って下がっていった。
「文叔、お前、正気か?」
「正気の人間は皇帝になったりしない」
「いや、そっちじゃなくて――」
「僕はもともと陰麗華病だ。陰麗華を手に入れるためなら、なんだってする」
迷いの片鱗も見せずに断言され、朱仲先は諦めたようにため息をつく。文叔が憮然とした表情で言う。
「郭聖通を離縁はできないのが不満だな。……子供も生まれてしまっては」
「……その、例えばだ! 陰麗華がもう、少君とデキててだな、身ごもってたりしたら――」
「少君はヘタレだから、手は出してないと思う」
「だけどだ! 男女の間は何があるかわからんぞ! 俺だって――」
そう言いさして、朱仲先が気まずそうに顔をそむけた。
「普通の士大夫なら、一度、人に譲った女房を取り返すなんて無理だな」
文叔の言葉に、朱仲先が大きな目でギロリとにらむ。
「普通はそうだ。常識で考えろ。他の女に子供まで産ませておいて、どの面下げて……」
「だから皇帝になるんじゃないか。陰次伯や鄧少君だって、武力をチラつかせれば……」
「文叔!」
前々からこの男は、陰麗華のことになると頭がおかしいと思っていたが、ここまでとは思わなかった。朱仲先は頭を抱えた。
せめてここに鄧仲華がいてくれれば、文叔を的確に叱り飛ばしてくれそうなのに!
「文叔、皇帝になるのと、陰麗華とは別の話だ。落ち着け! 皇帝になって迎えにこられても、迷惑だ!もう、解放してやれ」
「嫌だ」
一言のもとに拒否すると、文叔は牀から立ち上がり、膝を払う。
「陰麗華を迎えに行ってはいけないと言うなら、皇帝にもならないし、軍団も捨てて南陽に帰る。そうして陰麗華をさらってどこかに逃げる」
「文叔!」
「もう決めたことだ。それが無理だと言うなら、皇帝にはならないだけ」
文叔は立てかけてあった佩刀を手にすると、ツカツカと歩き去る。取り残された朱仲先が、薄暗い堂の中で、ため息をついた。
文叔はさらに南下し、鄗という城に駐留し、そこに孟津将軍の馮公孫を呼び出した。
耿伯山にはああ、言ったが、実はまだ、完全に覚悟ができているわけではない。ここ数日、文叔は眠れぬ夜を過ごしていた。
即位するとは、天命を受けていると表明することだ。文叔の人生には確かにさまざまな不思議があったけれど、はっきり、自分に天命が降りたと思える出来事はなかった。降りてもいない天命を受けたと誤解し、皇帝位に即けば、天の怒りを買うかもしれない。――王莽や、そして今、長安で窮地に立たされている、劉聖公のように。
『お前が凶星なんだよ! お前が全部、災厄を持ってくる!』
不意に、亡き母の声が脳裏に響く。
舂陵の、あの家。白水から北に二里。あれは挙兵する、最後の夜。篝火に照らされた庭で、母に詰られた。母も、次兄の仲も、長兄の伯升も、今はもう、亡い。あの家は今頃――。
文叔は家の裏手、白水坡に立っていた。暗闇に、白い河だけが光輝き、煌めきながら流れていく。頭上には満天の星――。
風が川べりの草を揺らし、川の畔に並ぶ柳の葉が吹き上げられ大きく揺れる。
白水の畔に、白い深衣を着た、女が立っていた。黒髪を風になびかせ、川の向こうを眺めている。
『麗華――!』
振り返った女の白い顔が、悲しげに歪む。
『麗華、こんなところで何を――』
文叔が土手を駆け下り、陰麗華のそばに走っていくが――。
そこには陰麗華の姿はなく、はっとして周囲を見回せば、彼女は河の中洲に立っていた。
白い大きな鳥が二羽、舞い降りて巣を作る。
『麗華、待って、僕もそこに――』
だが陰麗華は悲しげに首を振ると、舞い降りてきた一羽の白い鳥を腕に止まらせ、その首を撫でる。白い鳥が大きな羽を広げ羽ばたくと、羽から銀色の光の粒子が飛び散り、天へと昇っていく。
このままでは、陰麗華は白い鳥に攫われてしまうのではないか。そんな恐怖に囚われて、文叔は中洲に渡る道を探す。いつの間にか川幅はうんと広くなり、陰麗華の姿は遠い。
バカな。白水は泳いだところでたいしたことないくらいの河だぞ?
遠ざかる一方の陰麗華に文叔が焦り、叫ぶ。
『麗華――!』
その時、何もない河のはるか対岸、暗闇に赤い光が灯る。
赤い光。あれは――そうだ、あれは、あの夜に見た、謎の光――。
地平近くに灯った赤い光は、みるみる大きな火の玉へと膨れ上がり、そこから一筋の赤い光となって、漆黒の闇を切り裂いて上天に昇っていく。
そして――。
上空から赤い火の玉のような眩い光がまっすぐに文叔めがけて降りてきた。
あっという間もなく、その赤い光は文叔に近づき、文叔の真上で長い体をうねらせ、咆哮した。
『……龍!?』
キラキラと煌めく赤い鱗。五本の鉤爪は鋭く、周囲を炎が取り巻いている。大きな口を開け、天に向かって吠える。
そうして文叔を巻き込むように取りまけば、文叔は必至にその赤い鱗に縋りつき、攀じ登った。
うねる龍は文叔を乗せ、大きく向きを変える。そして河の中洲に取り残された陰麗華を見つけて、文叔は手を伸ばす。
『麗華! 掴まって! 麗華――』
だが、陰麗華は長大な龍に怯え、首を振り、逃れようとする。
『だめだ、そっちに行ったら――!』
文叔はいつの間にか龍を制御して陰麗華のそばをすり抜けるように飛行し、逃げ惑う陰麗華の細い腕を掴み、力任せに引っ張り上げる。
『いや、怖い――!』
『大丈夫だ! 僕が守る! 絶対に!』
文叔は陰麗華を無理に龍の背に乗せると、後ろから抱きかかえ、そのまま二人、天へと昇っていく。赤い龍が身をくねらせ、地上はどんどんと遠ざかっていく。
見下ろせば、間近に輝くのは星の河。巨大な白い月の光に照らされ、眩く煌めく天漢を飛び越える。
大きな白鳥が光の粉をまき散らしながら、二人のそばを飛ぶ。真っ白な月の横切り、赤い龍は二人を乗せて飛んでいく。
『どこに行くの?』
『わからないよ――』
『あの山は?』
『ああ、あれは――』
はるか向こう、雲を突き抜けるように聳えるのは、崑崙山。天地を支える世界の中心にして、大地を貫く黄河の源――。その山の向こうに広がるのは、黄昏に染まる、荒凉とした赤茶けた虚無。
文叔は思わず、背後を振り返る。自分たちが背負うのは、絢爛たる夜明け。王朝の、輝かしき始まり。
でも、その行きつく先は――。
物事には、すべて、終わりがある。
文叔が命がけで築いたものも、いずれは病み衰え、朽ち果てて消えていく。
輝きは退廃に、繁栄は衰退に。
文叔は理解した。この赤い龍は「時」なのだ。
龍が、身をくねらせ、急上昇に転じる。振り落とされそうになるのを、必死にその鱗を掴み、腕の中の陰麗華を抱きしめる。
『文叔さま、怖い――』
『大丈夫、絶対に離しはしない』
どんどん、どんどん上っていく赤い龍。雲海を抜け、煌めく宇宙を切り裂き、誰もいない場所へと――。
龍に乗る文叔とともにあるのは、陰麗華ただ一人。
二人を乗せた龍は、時空の狭間に吸い込まれていく……。
「文叔! 文叔ってば! おい!」
揺り起こされてハッと目を覚ますと、そこは臨時の宿舎に決めた、堂の一室。牀の床几にもたれ、うたた寝をしていたらしい。
「仲先か!」
「馮公孫が来たぞ、お前、わざわざ孟津から呼び出したじゃないか」
「あ、ああ! そうだよ、もう、着いたのか!」
文叔が慌てて姿勢を正すと、馮公孫が軍装のまま、牀の前に膝をついていた。
「座ってくれ! 鎧も脱いでからでよかったのに! あー酒! 酒をくれないか! それから干し肉も!」
文叔が大声で呼びかければ、下婢が席を持ってやってきて、文叔の斜め前の牀に置き、馮公孫はそちらに腰を下ろした。反対側の牀には朱仲先。
「お疲れではないのですか、蕭王閣下」
「孟津から駆け続けで来た君に言われてしまうと立つ瀬がない。……最近ちょっと眠れなくてね」
下婢たちが案と醪酒を運んできて、三人で乾杯する。
「いったい、何に悩んでおられるのです?」
馮公孫は自分が孟津から呼び寄せられた理由に、うすうす気づいているようだった。
「いやその――河北にいると情報も限られてしまうし、孟津は四方に開かれているから、いろいろと話も入ってくるかと思って」
「ああ、そのこと」
馮公孫が大きくうなずく。孟津は黄河の渡し場で、古来からの交通の要衝だ。河南だけでなく、関中の噂も入ってくる。
「劉聖公は、もうだめですな。長安では側近の三人の王が謀反を起こし、東西の市を支配下に置き、戦乱が宮中にも及んだとか。赤眉も劉聖公に対抗して、皇帝を立てるという動きがある。鄧将軍も着々と戦果を挙げています」
「そうか――」
文叔がため息をつく。
「……あなた以外に、漢の社稷を継げる人はいないと思いますが。それが天下万民とためだと存じます」
「だが――」
逡巡する文叔に、朱仲先が言う。
「まだ迷ってんのかよ、お前」
「迷っているのとは、少し違う」
文叔は首をコキコキと回して、言った。
「実はさっき夢を見ていた。――赤い龍に乗って、天に上る夢だ」
その言葉に、朱仲先と馮公孫が目を見開く。
「それは――縁起のよろしい――」
「そうかなあ。赤い龍に乗って、天漢の上を飛んで、月を横切って。遠くに崑崙山が見えた。僕は高いところはあまり得意ではないようだ。目が覚めたら、汗びっしょりで、心臓がバクバクしているよ。それに――」
だが、文叔の内心をよそに、馮公孫は杯を置くと席を降り、床に膝をついて再拝して賀辞を述べた。
「おめでとうございます。それこそ天命があなたの精神に働きかけた徴験でございましょう」
「そうかな、ただの夢だよ」
「いいえ、『易』の乾卦にございます。『飛龍、天に在り』と。また、夢は神との交信とも申します。間違いなく、あなたが天命を受けたという、天からの言葉です。動悸は、あなたが生来慎重な質だからですよ」
馮公孫は言い、その日、諸将は文叔に皇帝の尊号を上り、文叔もそれを了承した。
だが文叔はその夢の意味するところが、けしてめでたいものではないとわかっていた。
文叔が築く王朝は、やがて緩慢な死を迎え、その先には荒れ果てた死が広がる。それが百年後か、または十年後かはわからない。
皇帝となった文叔は常に龍を御するような、綱渡りの日々を送ることになるのだろう。
その孤独な生涯を支えられるのは、陰麗華だけ。
陰麗華を手に入れられなければ、文叔の覇業もまた、潰えるのだ。
折しも、文叔の太学時代の同舎生を名乗る、彊華という男が関中からやってきて『河図赤伏符』を献じた。
「……記憶にないなあ、そんな奴、いた?」
文叔は隣の朱仲先に小声で問いかけるが、朱仲先が慌てて「シー!」っと人差し指を口の前に立てる。
「耿伯山は友人だったようだから――」
「あー、そいういうこと……」
煮え切らない文叔を追い込むために、耿伯山がサクラを用意して一芝居打ったというわけか。
献上された、科斗のような、異様な形態の古代文字で書かれた木簡を見て、文叔は内心、苦笑する。
「私は小学(文字学)の方は詳しくない。これは、なんて書いているのか」
文叔が問いかければ、彊華と名乗ったいかにも怪しい風体の方士が、もう一つの木簡を捧げ、それを文叔の目の前の案に置いた。
「『……劉秀 兵を発して不道を捕え、四夷雲のごとく集い、龍は野に闘う。四七の際、火 主と為る――』……へーこれ、こんな名前の書物だったんだ……」
文叔が呟くと、彊華が得意げに言う。
「はい、高祖皇帝陛下より、あなた様が挙兵するまで、ちょうど二百二十八年、すなわち『四七の際』にございます!」
「……そ、そうなのか……」
文叔が頭の中で計算しようとしていると、即座に耿伯山が進み出て言った。
「なんとめでたい! これこそ受命の符に違いありません! 周が殷の紂王を滅ぼそうと孟津を渡ったとき、白い魚が舟に飛び込んだ故事がございますが、それを凌駕する瑞兆でございましょう!」
「えー、あー、そ、そうかな……」
嘘くせえ……と文叔が内心、ドン引きするのを後目に、今度は例の、最初に皇帝即位を要請した、馬子張が進み出て、大声で叫んだ。
「上に戴くべき天子がなく、天下が乱れたこの時に、ようやく天命が降りたのですぞ! すぐにもご即位あそばされ、天の期待に応えるべきでござろう!」
「そうだ、そうだー!」
「ぜひともご即位を!」
「天の意志でござる!」
群臣は立ち上がり、それぞれが叫んだ。
狭くもない堂内は瞬く間に、即位を求める群臣の声が響き渡り、熱気に覆われる。
文叔はその様子を見て、しばし目を閉じ、それから片手をあげ、群臣に向けて言った。
「わかった。諸将の言う通りにしよう。――この町の南に檀を築き、天神を祀る準備をせよ」
わああああああ!
どおおっとその場がどよめく。どこからともなく「万歳!」の声が上がり、群臣がそれに唱和して、いつまでも続いた。
六月己未。劉秀――劉文叔は皇帝に即位し、そのことを天に告げた。
「皇天上帝、后土神祇、眷顧して命を降し、秀に黎元を属し、人の父母と為らしめんとするも、秀 敢えて当たらずとす。群下百辟、謀らずして辞を同じくし、咸な曰く、『王莽位を簒い、秀 発憤して兵を興し、王尋・王邑を昆陽に破り、王郎・銅馬を河北に誅し、天下を平定し、海内恩を蒙る。上は天地の心に当たり、下は元元の帰する所と為る』と。讖記に曰く、『劉秀 兵を発して不道を捕え、卯金 徳を修めて天子と為る』と。秀 猶お固辞するも、再びに至り、三たびに至る。群下僉な曰く、『皇天の大命は、稽留すべからず』と。敢えて敬承せざらんや」
元号を定めて建武元年とし、天下に大赦令を発した。
西暦二十五年のことである。




