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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
漆、枯魚 河を過ぎりて泣く
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龍の鱗、鳳凰の翼

 更始三年(西暦二十五年)の前半、順水では大敗したものの文叔の軍団は盤石で、着々と河北の平定を続けていく。正妻、郭氏との間には跡取りとなる長男の(きょう)も生まれ、傍目には上り調子であった。一方、長安の更始帝は、関中に侵攻してきた赤眉(せきび)との攻防戦も劣勢に追い込まれ、早くも斜陽に差し掛かっていた。各地の群雄は、「更始帝の後」をにらんで煽動を始める。


 天下第二の都市、洛陽を守っていた朱長舒(しゅちょうじょ)は、文叔配下の孟津将軍、馮公孫と通交していた舞陰王の李季文(りきぶん)の裏切りに激怒してこれを殺し、洛陽を支配下に置いた。

 朱長舒はもともと、劉伯升・文叔兄弟が嫌いだった。伯升はあっさりと讒言で始末することができたのに、弟の文叔は半ば島流しのように送られた河北で自らの地歩を築き、勢力を蓄えて強大化しつつあった。昆陽の殊勲を見ても明らかな戦巧者でもある。李季文を裏切りに誘い、そして裏切りの証拠である書簡をわざと公開して、洛陽の仲間割れを狙い、朱長舒は見事、その術中に嵌まったわけだ。


 ――そうだ、俺はやつのこの、姑息さが嫌いなのだ。


 朱長舒はギリギリと奥歯をかみしめる。今、奴は大軍を率いて河北のはるか北、幽州にある。黄河のすぐ北、河内は豊かな穀倉地帯。奴が不在の今ならば、河内を手にし、河北への足掛かりを得ることができる――。


 そう思い定め、討難将軍の蘇茂と副将軍の賈彊に三万の兵を与え、孟津ではなく東側の(きょう)から黄河を渡って、河内の(おん)県を攻撃させた。――温は(かい)の離宮にも近い、黄河北岸の重要拠点の一つである。


 河内郡を守るのは太守にして行大将軍事の寇子翼(こうしよく)。危機を知らせる(げき)(至急便)がやってくると、即座に所属の県から兵を招集し、温への出兵を命じた。

 寇子翼はもともと上谷(じょうこく)郡の功曹(こうそう)――現地採用の下級役人、要は事務方である。漢代の吏事は文民統制シビリアン・コントロールというよりは、文官だろうが儒者だろうが、地方長官であれば実戦指揮を取らされる無茶な体制ではあるが、軍吏と呼ばれる武官は存在する。その武官たちはみな、寇子翼を止めた。


「洛陽からの軍は大軍です。我らだけでは対処できません。兵数が揃うのを待ってからにすべきです」


 が、生粋の事務官、寇子翼はこの意見を一蹴する。


「温を失って、河内郡が保てると思うのか?!」


 手元にいる兵だけで温に急行し、黄河を渡ってきた洛陽側の軍と夜明けに衝突した。何しろ敵側は三万を超えている。このままでは多勢に無勢で温陥落もやむなしと思われた。

 

 そこに、馮公孫が孟津より兵を率いて駆けつける。寇子翼は兵士たちに叫ばせた。


「劉公の軍が救援に来たぞ! 昆陽の百万を破った劉公の軍だ!」


 文叔が救援に駆けつけてきたと聞いた討難将軍の蘇茂は話が違う、と慌てる。そもそも劉文叔が幽州にいって不在だから、この隙に河内を掠め取る、という作戦なのだ。劉文叔がやってきたら到底、かなわない。浮足立った洛陽側は寇子翼と馮公孫の軍に大敗し、尻尾を巻いて逃げ出し、河を渡って洛陽へと戻ろうとする。孟津将軍として水軍をも押さえていた馮公孫は、すばやい対応で追撃し、そのまま洛陽に肉薄した。

 黄河に落ちて死んだ兵が数千、万に及ぶ捕虜を得て、馮公孫と寇子翼は悠々と河北に戻った。




 文叔は洛陽側の動きを知り、慌てて救援のために南下した。その途中、朱長舒の軍が河内を破ったという知らせも耳にした。

 今、後背の幽州に不安を抱えたまま、洛陽との決戦に踏み込むのはまずいが、河内を奪われたままはもっとまずい――。


 馮公孫と寇子翼の損害がどの程度か、それによって今後の方針も変わる。グルグルと考えている文叔のもとに、寇子翼の放った(げき)が文叔の陣に届けられる。


 檄とは、こん棒のように大きな多面体の簡牘で、そこに直接、文字を書き込み、騎馬の使者が目立つように掲げ、時には内容を大声で呼ばわりながら走る、至急便である。目立つので決起を促すときに使用され、後には「檄を飛ばす」が奮起を促す慣用句にもなった。つまり、秘密の文書には使用しない。――密書ではなく、檄で送ってきたということは。


「もしかして勝ったの?!」


 思わず立ち上がって尋ねる文叔に、使者は誇らしげに二尺(約60センチ)ほどもある檄を差し出す。 


「はい! 馮公孫将軍と寇子翼将軍の軍とで洛陽側の軍を大破し、逃げる敵を追いかけて洛陽に迫り――」

「えええええ! そんな勝手な!」


 待ってくれよ、まだ洛陽と全面対決するつもりは、と焦る文叔に、使者が言った。


「はい、洛陽に迫り、手前で引き返して悠々と帰還しました! もう、黄河は我々の手中にあり、いつでも渡ることが可能です!」

「そうか! さすが寇子翼将軍だ! 私の目に狂いはなかったな!」


 文叔はホッとして檄を受け取り、多面体に書かれた文を読み、頷いた。


「二人には褒賞が必要だな。私はこのまま少し、南方に向かうから、どこかで逢えるといいな」

「光栄なことです!」


 こうして文叔は、洛陽からの攻撃を撃退した馮公孫と寇子翼とを、労うことにした。



 


 初夏の風が吹き抜ける平原に白い天幕をいくつも張り、漢の赤い旌旗がいくつも風にはためく。青い空に白い雲が流れるのを見上げて、文叔は久しぶりにほっとした気分になっていた。


 陰麗華を失い、嫌なことばかり。どこにいても空は青く、雲は白い。河北の大地で、文叔は何とか生きている。


 今頃、陰麗華はどうしているのかな。やはりこの、青い空を眺めているのだろうか。

 南陽の空は曇っていて、空気はもっと湿っているだろう。きっと彼女の隣には、あの男が――。

 

 功労者を褒賞して、河北の酒が回る。

 酒は美味い。勝って飲む酒はなおさらに。なのにこの酒は苦い。

 見かけと違い、何もかもが思う通りにはならないのに、すべてを得ているような顔をしなければならないから。


 そんなことを思いながら、西の太行山脈の青い山並みを眺めていると、一人の将軍が進み出た。


「大王に一献、捧げたく存じます!」


 文叔はその男に覚えがあった。


「君はたしか謝尚書の――」

「は! 以前、謝尚書の下についており、将軍に新たに帰順した、馬武と申します」 

「ああ、射犬(しゃけん)までわざわざやってきて、帰順を表明してくれた」


 文叔は鷹揚に頷き、その馬子張将軍から杯を受ける。一息に飲み、杯を掲げて飲み干したことを示すと、馬子張がなおも言う。


「大王にお願いがございます」

「何?」


 文叔が促せば、馬子張将軍はかしこまり、だが朗々とした声で言い始めた。


「今、天下には主無き状態です。天命を受けるにふさわしい聖人である大王(あなたさま)が、王莽の敗亡を受けて立ちあがりました。孔子が宰相となり、孫子が将軍となりましょうとも、その聖人には勝てません。今は絶好の機会と存じます。この好機を逃したら、こぼれた水は戻らないのと同じ。後悔しても及びません。大王は謙譲の美徳に囚われるあまり、このままでは漢の先祖になんと申し開きなさるおつもりか。どうか、今すぐ薊に戻って皇帝の御位につき、長安の賊の討伐を議論するべきであります!」

「……は?」


 予想もしない皇帝即位の要請に、文叔は呆然とする。


「ちょっと、いきなり何を言ってるの……今日は公孫と子翼の戦勝祝いで――」

「ここにいる諸将、みな、同じ思いでございます!」

 

 見回せば、周囲の将軍たち全員が杯を置いて立ち上がり、その場で片膝をついて頭を下げる。


「我らの天命の主として、ぜひ、皇帝にご即位を!」

「ご即位を!」

「皇帝に!」

「尊位につくべきであります!」


 皆に口々に言われ、文叔は大きな目を見開く。その中にはちゃっかり朱仲先まで交じっていて、文叔は「あの野郎」と心の中で毒づいた。


「諸君、僕――じゃなくて、私はそのような不遜なことはできない。天命はきっと、もっと相応しい徳のある人物のもとに降りるだろう。私ではないよ」

「いえ、ご謙遜を! 大王以上にふさわしい方などおられません!」


 もう一度立ち上がって馬子張が言い、文叔は思わず叫んだ。


「勝手なこと言うな、ぶっ殺すぞ!」

「文叔!」


 朱仲先が慌てて口をはさみ、友人をなだめる。


「落ち着けよ、実際、この後のことを考えれば――」

「勘弁してくれよ、皇帝になるってのがどういうことか、わかって言ってるのか?」


 文叔が朱仲先に言い、周囲の将軍たちをも見回す。


「天命のことを軽々しく論ずるべきじゃない。今は馮公孫と寇子翼の戦勝を祝う日だ。今後、その話をする者は斬る! 以上!」


 文叔は宣言すると杯を置いて立ち上がり、朱仲先に言う。


「――(けい)に帰る」

「文叔……!」


 宴会を途中で切り上げた文叔を、朱仲先が慌てて追いかける。


「文叔、いい加減に腹を決めたらどうだ」

「皇帝になってなんかいいことあるのか?」

「そりゃー……」


 言い淀む朱仲先に、文叔は立ち止まり、言った。


「たしかに、兄貴は皇帝位を聖公に譲ったせいで、最後は殺された。でも、それは対抗勢力があったせいだし、兄貴が皇帝になってたところで、上手くいったとは限らない」


 劉伯升が皇帝位を譲り、結果殺されて、文叔は河北に派遣された。だが、劉伯升が皇帝になっていたとしても、天下があっさり治まるとは思えなかった。


「劉聖公は、僕にとっては他山の石だな。――皇帝になって、奴は何をした? 後宮に女を集め、夜な夜な宴会を開いていたばかり」

「それは聖公の人間性の問題だろう」

「僕がそうならないと、ずいぶんな自信だな?」

「お前はそんな性格じゃないだろう。――まあその、多少はいい加減なところもあるが、根は真面目だ」

「……権力を握れば、おかしな奴がたくさん寄ってくる。兄貴の下にも、使えない奴らが山ほどいた」


 劉伯升がもう少し有能だったら、(えん)を落とすのに半年もかかっていない。文叔が昆陽で大戦果を挙げるまでもなく、天下の大勢はもう、決まっていたかもしれない。


「皇帝になれば、そういうヤバイ奴らが僕のところにもわんさか押しかけてくる。それに――」


 文叔は小さな声で言った。


「それこそもう、天に対して後戻りできなくなる」

「文叔?」


 朱仲先が文叔の顔を見つめる。文叔は頭上の青空を見上げ、蒼天を指さす。


「皇帝になるということは、天命を受けるということだ。……この世界の責任を、天に対してすべて背負うということだろう? 僕は兄さんも、そして聖公も、その他もろもろの、皇帝になりたがる奴らの気持ちがわからない。天が墜ちるほどの重責を一人で背負う、そんな気分にどうしてなれる?」

「文叔――」


 その場に立ち尽くす朱仲先を残し、文叔は斗篷(マント)をさばき、歩き去った。





 その年の四月、成都の公孫述が自ら天子と称した、との知らせが河北にも流れてきた。

 関中での赤眉と更始帝政権の争いも、泥沼の様相を呈している。鄧仲華はこの際、無事でいてくれればなんでもいい――。


 文叔は幽州征伐の区切りがついたため、(けい)から邯鄲(かんたん)に戻る途中、戦没者の埋葬を命じ、中山国に入った。

 そこでも、諸将は文叔の前に居並び、皇帝への即位を要請した。


「漢が王莽に簒奪されましてより、漢の皇統は途絶え、民衆は塗炭(とたん)の苦しみにあえいでおります。大王(あなた)が兄君とともに、天下に先駆けて義兵を挙げ、しかし更始帝が即位しましたが、漢の正統を継承する力量はなく、世は乱れて民の苦しみはまだ続いております。大王が昆陽で勝利して王莽は自滅し、邯鄲を陥落させ今、幽州の賊も制圧されました。天下の三分の二を擁しているのは、外ならぬ大王ですぞ。帝王の位は長く空位でおくべきでなく、天命は謙遜して遠慮すべきではない。どうか皇帝の位につき、天下の計略を行い、民をお救いください」


 文叔はため息をつく。


 公孫述の即位の噂を聞き、諸将も浮足立っている。

 これから先、あちらこちらで雨後の竹の子のように、皇帝だの天子だのがポコポコ生まれるに違いない。


「勘弁してくれ、私にそんな器はない」


 文叔は諸将の要請を、再び拒否した。


 


 

 そのまま邯鄲に向かう途中の南平棘(なんへいきょく)という街で、やはりもう一度、諸将は文叔に皇帝即位を求める。


 文叔は首を振り、言った。


「今、我々の周囲は敵ばかり。こんな状態で皇帝になろうだなんて――。みんな出て行ってくれないか」


 だが、諸将は納得しない。


「なぜ、我々の気持ちを理解してもらえないのです! あなたが皇帝にならずに、誰がなると?」

 

 ガヤガヤと皆がなおも即位を求め、収拾のつかない様子に文叔が呆れ、眉を顰めていると、耿伯山(こうはくざん)が進み出て、言った。


「我らが主は謙虚なお人柄だ。そのような説明では、即位をお聞き届けいただけないだろう。ここの説得は(それがし)に任せてくれまいか」


 誰が説得しても同じだと思ったが、やかましい奴らを下がらせられるなら、それも致し方ないと、文叔が同意し、諸将を下がらせ、その場にはただ、朱仲先だけが残る。耿伯山は文叔の前でいう。

 

「大王――いえ、太学時代の同期生の(よし)みで、一士大夫である劉文叔どのに対して、ご意見を申し上げたい」

「わかった。そちらに座ってくれ」


 文叔が自分の座る(しょう)の隣を指さすと、耿伯山は「ならば失礼して――」と座る。


「これで対等だ。忌憚(きたん)のない意見を聞かせてくれ」

「文叔どのが、皇帝になりたくないのは、なぜです?」


 そう聞かれて、文叔は言った。


「特に()()()()もなさそうだから。劉聖公みたいに女に狂って宴会するのが人生の楽しみって人間なら、まあ、皇帝になってみてもいいかもしれないが、私はそういう趣味はないのでね。毎日毎晩、女をとっかえひっかえして宴会三昧なんて、正気の人間のすることじゃないね」


 耿伯山はうりざね顔を少しだけ綻ばせる。


「我々が、あなたを皇帝にと思うのは、あなたがマトモな性格の人だからですよ。いつだって、我々が求めるのは昏君ではなく、明君です」

「明君なんて苦労ばかりだろう。……あの悪名高き始皇帝だって、毎日、寝る間も惜しんで書類の束を決済して――その挙句に死後、暴君だの暗君だのと、ろくでもない評判ばかり。私はそんな人生はごめんだ」


 文叔がため息交じりに言い、耿伯山も笑った。


「全部自分でやろうとするからですよ。なんのために宰相がいると?」

「自分で言うのもなんだが、私の方が有能だからね。――私は始皇帝の気持ちがわかるな。自分で全部やった方が早いし、信頼できる。私を皇帝にすると、始皇帝にみたいになるかもしれないぞ?」


 文叔の脅すような言葉に、朱仲先も苦笑する。


「世に名君と謳われる皇帝は、意外にも法家ですよ。宣帝陛下がそうですけどね。――その話はいいのです。あなたは名君になる素質はある。ご自分でもわかっておられる」

「平和な時代なら名君になったかもしれないが、今この状態から、まず天下統一を成し遂げる自信がないな。この状態で皇帝に即位すれば、もう、後に引けない」

「どのみち、後には引けませんよ? 今さら、権力を譲り渡すことができるとでも?」


 耿伯山がじっと、文叔を見つめる。文叔はその目をまっすぐに見返して、言った。


「ここから後、何年かかるかわからない天下統一戦争を、私が率いろと?」

「あなたが始めた戦争です。あなた以外のだれが、終わらせられると言うのですか」

 

 文叔が沈黙し、安座した膝を両手で握り締める。


 耿伯山はそんな文叔を見てから、朱仲先に注がれた酒を一口含み、喉を潤す。


「もう一つ、理想論ではなく、現実的なことを申し上げましょう。諸将があなたの皇帝即位を願う理由は何だと思います?」

「わからんな」

「我々士大夫が、親族を犠牲にし、先祖伝来の土地を捨て、あなたとともにいばらの道を行くと決めたのは、あなたという龍の鱗につかまり、鳳凰の翼を掴んで、そこをよじ登って出世したいと思っているからですよ」


 文叔と、朱仲先が息を飲む。


「……つまり、私を皇帝にすることで、自分の栄達を成し遂げるためだと?」

「それ以外に何があると?」


 それは身も蓋もないことだが、納得はいく。おそらくその通りなのだろう。


「なるほど、だから皆、あんなにも熱心なのか……」

「これ以上、断り続けたら、どうなると思います?」


 耿伯山がじっと、文叔を見つめる。


「すでに河北は平定した。長安の乱れは甚だしい。……今、天命はあなたに下っていると思えるのに、あなたが頑として皇帝になろうとしない。命をかけてあなたに尽くしてきた、我々士大夫は、あなたに絶望するでしょうね」

「……大げさな……」

「大げさではありません。あなたがこれ以上即位を拒否すれば、あなたを見限る者も出てまいるでしょう。いったん、衆望を失えば、再び得ることはほぼ、不可能です」


 文叔は黒い瞳を見開く。


「今、即位しなければ私は衆望を失うと?」

「時間は止めることはできず、衆望は自ら集めることもできません。――どうか、お考え下さい」


 耿伯山の言葉に、文叔は深い深いため息をつく。


「でも――」

「何をまだ、迷っているのです」

「私は――」


 文叔の脳裏に、あの日、陰麗華と見た、白水の夕暮れが甦る。


 ――僕は皇帝になりたいわけじゃない。僕が欲しいのは――


「文叔、伯山の言うとおりだ。皇帝になるのをこれ以上拒否すれば、河北の豪族連中も離れていくぞ?」

「でも――やる気がしない」

「やる気ってなあ。……皇帝だぞ、皇帝。天下で一番偉いんだぞ? すごいぞお、皇帝は。美味いもんも食えるし、美味い酒も飲み放題! ふかふかの布団で寝れるし……」

「……別に普通の飯でいいし、酒も普通でいいよ……」


 面倒くさそうに首を回しながら言う文叔に、耿伯山が呆れ気味に言った。


「欲がないですね」

「……王莽も劉聖公も、いったい何が楽しくて皇帝になったのかな」


 心底理解できない、という表情の文叔に、朱仲先が言う。


「そりゃー女じゃねぇのか。皇帝になれば後宮に美女を集めて酒池肉林!」

「女……ねぇ……」


 気乗りしない文叔を、朱仲先が必死に説得しようとする。


「お前別に女嫌いなわけじゃないだろ? 皇帝の後宮ともなれば、天下の選りすぐりの美女が集まってくるんだぞ? どんな美女でも思いのまま!」

「いや、僕は別に天下一の美女が欲しいわけじゃ――」


 と言いかけて、文叔がハッとして朱仲先を見た。


「……どんな美女でも? 思いのまま? 後宮に入れていいの? ほんとに?」

「あったり前じゃないか、何しろ皇帝――」

「ちょっと待ってください、それはもしや――」


 朱仲先が気安く応じようとしたのを、鋭敏な耿伯山が悪い予感を感じ取り、口を挟もうとするが、文叔は目をランランと輝かせて言った。


「別れた女房でも?!」


 朱仲先が絶句して、ギョロっとした目をさらに見開く。文叔はその目をまっすぐに見据えて、さらに言い切った。


「別れた女房でも、皇帝になれば取り戻せるのか?――たとえ彼女が、別の男の妻になっていても?」





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