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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
陸、腸中 車輪転ず
111/130

二心

 夕焼けに染まる河の、中洲に二羽の鳥が行きかう。

 (つがい)の鳥は生涯、互いだけを守る。

 

『あなた以外の、誰にも触れさせたりしない。一生、あなただけ……』

『……僕も誓う、生涯、君一人を愛する』


 (もり)の中の小さな(ほこら)で交わされた、誓い。

 あの日も、金釵(きんかんざし)は彼女の黒髪を飾っていた。

 どれほど離れても、誓いは永遠だと思っていた。



 ああ、なのに。

 互いに誓いを破り、踏みにじって。


 覆水は返らず、裏切りは、取り返しがつかない。


 






 夜更け。

 文叔はそっと起き上がり、眠る女を起こさないないよう、するりと(かけぶとん)を出た。帳の外の衣桁(いこう)には、真新しい絹の襦衣。それを素肌に纏い、襜褕(ひとえ)を上に引っ掛け、帯を締める。帯も文叔は見たこともない新しいもの。(くつ)を履いて(しんしつ)を出る。(いま)にはぽつんと灯籠が灯るだけで、窗から月の光が差していた。


 堂をつっきり、木の扉を開けて回廊に出る。中庭の篝火(かがりび)も消えていたが、月が煌々と照らしていた。


 戸口の見張りの兵二人が座り込んで、互いにもたれあって眠りこんでいた。その様子に肩をすくめ、文叔は回廊を一人で歩いて自室に戻る。朝まで過ごすのが礼儀なのだろうが、そんな気分にはなれなかった。


 文叔は月を見上げて、一人呟く。


「裏切者の、明日はどっちかな……」






 が、自室に戻ってくると、部屋にはぽつんと灯が灯り、中で鄧仲華(とうちゅうか)が待っていた。


「仲華? こんな時間にどうした?」

「話があって、あんたを待ってた」


 文叔は気まずさを誤魔化すように、早足で鄧仲華の座る(しょう)に近づき、隣に腰を下ろす。風が灯台の灯影(ほかげ)が揺らす


「話って?」

「劉聖公から呼び出しが来たんだろう?」


 皇帝、ではなく劉聖公と呼んだが、文叔は鄧仲華を咎めなかった。


「……決起するの?」


 仲華の問いに、文叔は首を振る。


「いずれ袂を分かつが、今はまだ」

「なら、呼び出しを無視するわけにいかないでしょ」


 文叔は仲華が注いだ(どぶろく)を飲み干すと、形のよい唇を歪めた。


「今はまだ自立は無理だ。王郎は斬ったが、残党もいる。それに……」


 言いさした文叔におっかぶせるように、鄧仲華が冷たく言い放った。


「陰麗華のことなら、あんたにはもう、心配する権利も資格もないよ。離縁状は送ったんだろう?」


 文叔が息を飲む。


「それは……でも……もしひどい目に遭わされていたら……」

「あんたが陰麗華を置いて河北に渡って、何か月だよ。とっくの昔にひどい目に遭わされているかもしれない。でも、あんたにはどうしょうもできないって、もう何度も言ったし、向こうだってわかってるさ」


 文叔が震える両手で膝を握り締める。


「でも……何とか救う方法は……」

「ないね。もしかしたら、最初から離縁しておくしかなかったのかもしれないけど、子供がいる状態では無理だった。彼女に関しては、縁を切る以外にあんたのできることは、もうない」


 すげなく言われ、文叔は無言で俯き、鄧仲華はため息に紛らわすように呟く。


「……僕も同罪だ。あんた一人が責任を感じる必要はない。いや、もうあんたのものじゃないんだ。諦めろよ……」

「……仲華」


 鄧仲華は顔を上げ、話を変えるように、文叔をまっすぐに見た。


「もうその話はやめ。僕たちは自分たちの面倒しか、見ることはできない。……それより、幽州牧(ゆうしゅうぼく)上谷(じょうこく)太守、漁陽(りょうよう)太守を交代させると聞いた。この前の南䜌(なんれん)でもはっきりしたけど、幽州の精兵は我々の命綱だ。これを奪われたら挽回は不可能だ」


 さすが、鄧仲華はもう一つの命令も掴んでいた。文叔は耿伯昭(こうはくしょう)の言葉を思いだし、小声で言った。


「……伯昭を派遣して、幽州の兵を発する」

「上谷太守のお坊ちゃん? 上谷郡の兵は動くかもしれないけど、漁陽郡が動くかな?」


 鄧仲華の茶色い瞳が、ほの暗い堂内の明かりに煌めいた。文叔も眉を顰める。


「漁陽太守の人となりがわからない。使者には誰をやるべきだと思う?」


 鄧仲華はしばらく首を傾げ、言った。


「漁陽の(ヒゲ)男は、向こうに気に入ってもらえれば、裏切らないと思う」

「漁陽から来た髭男……ああ、呉子顔(ごしがん)将軍?」


 鄧仲華はうなずく。


「戦争も強いし、自分の判断で動ける。漁陽に人脈もある。彼以上の人間はいないと思う」

「……でも、信用できるか?」


 幽州の兵を徴発するとはつまり、兵をやめて長安に来い、という劉聖公の命令に真っ向から背き、自立を目指すことだ。新たな幽州牧を場合によっては斬ることになる。――劉聖公ではなく、明確に文叔個人に味方する人間でなければならない。

 鄧仲華が言う。


「あの人、顔で全部決めるらしいよ。文叔なら大丈夫じゃないかな」

「顔?」


 鄧仲華が少しばかり困ったように、眉を顰める。


「なんかさー、僕の顔が気に入ったらしくて、最初は男色(ホモ)なのかと警戒したんだけど、そっちの趣味はないんだって。ただ単に、顔の綺麗な人間が好きなんだってさ」


 文叔がやはり眉を顰め、じっと鄧仲華を見つめる。


「いや、それで男色じゃないなんて、信じられるか?」

「実際、襲われたこともないもん。……あと、基本、キレイ好きらしくて」

「あの顔で?」


 顔の半ばを髭が覆い、頬には大きな(キズ)まであって、とにかく凶悪そうな顔つきなのに、キレイ好き?

 怪訝そうな表情の文叔に、鄧仲華が眉尻を下げ、言う。


「文叔の顔が気に入ってくれたら、かなり頼りにはなるよ。戦争はめちゃくちゃ強いから。ただ――」

「ただ……なんだ?」


 鄧仲華が言い淀んだ続きを、言いにくそうに口にした。


「顔にしか興味なくて顔で全部決めるから、顔が美しくない人間にはとことん、興味がない。そういう人」


 文叔は顎に手を当てて考える。

 ……呉子顔に、賭けるか。

 

 この深夜の話し合いで、文叔の劉聖公に対する裏切りは決まった。




 更始帝・劉聖公が派遣してきた謝子張(しゃしちょう)は、僕射(ぼくや)から尚書令に昇進し、邯鄲の支配権を当然のように要求してきた。文叔としては邯鄲を明け渡すつもりなどさらさらなかったが、表向きはにこやかな態度を崩さず、軍事面の引継ぎがまだだから、と、ひとまず邯鄲の街を区切り、半分を提供した。


 文叔は耿伯昭(こうはくしょう)と呉子顔を大将軍とし、幽州十郡の兵の徴発を命じた。すでに更始帝は新たな幽州牧として苗曾(びょうそう)を、上谷太守として韋順(いじゅん)、漁陽太守として蔡充(さいじゅう)を派遣していた。にもかかわらず、元の太守たちの留任を認めた上での新たな徴発である。


 その命令を聞いた謝子張(しゃしちょう)は、驚いて蕭王府に怒鳴りこんできた。


「どういうことだ! 貴公には長安への招集令が発せられ、兵権も停止すると命令が――」

「いえ、たいしたことはないのです。上谷郡では五校(ごこう)の賊が発生して、救援を要請されたのですよ。新しい太守では、すぐに対応できないでしょうからね。まあ一種の引継ぎですよ。北で賊が暴れてしまっては、皇帝陛下から責任を追及されかねません」


 ことさらにニコニコとした表情を作って言えば、戦争に疎い謝子張は押し黙る。


 ――ばーか。そんなわけあるか。


 文官上がりの謝子張は配下の将軍たちの押さえが効かず、城内で兵士が略奪や暴行を働いたとの苦情が山のように寄せられていた。しばらく邯鄲に()()して静観するつもりだったが、早々に(ぎょう)あたりに追い出した方がいいかもしれない。文叔はふと、妙案を思いつく。


「そういえば、奥方はお元気ですか? こちらの生活には慣れましたか?」


 文叔が尋ねれば、謝子張は眉を顰めた。


「いや……その、邯鄲も長安に比べれば田舎で退屈だと……」

「そりゃーお若い女性はそうかもしれませんね。……ああ、そうそう!」


 文叔は立ち上がると、背後の棚から小さな壺を持ってきた。


「飴ですよ。妻の郭氏の実家から贈ってきましてね、私は甘いモノはそれほど……ですが奥方はお好きでしょう」


 飴は麦芽糖の類で、つまりは水あめである。夏の終わりにモヤシを準備し、冬に入ってから作るので、夏の今は品薄で、市場にも出回っていない。


「少しですがお持ちください。ほんの気持ちです。また退屈しのぎにでも、我が家にでも遊びにいらしてください。幸い、妻とも年が近いようですし」


 ニコニコと作り笑顔で言えば、謝子張はおとなしく飴を受け取る。


 ――父親ほども年の離れた夫に、あの派手な女が満足しているとは思えない。うまくこの飴に食いついてくれれば――。


「あなたは本当に吏事に習熟しておられて、尊敬する。真の官吏とはあなたのことだな!」


 歯の浮くようなセリフで謝子張を褒め称え、満更でもなさそうな顔で謝子張が帰っていく後ろ姿に、文叔はぺっと唾を吐いた。


 ふと、鏡のように磨き上げた黒檀の卓に映る自身の顔を覗き込み、フンと鼻を鳴らす。


「この顔のおかげで、呉子顔が心腹してくれたみたいだし、謝子張の女房の一人や二人、ハメてやるさ……」


 そう呟いて、文叔は自分の顔をつるりと掌で撫でた。







 更始二年(西暦二十四年)夏。

 劉文叔が邯鄲を落とし、偽の劉子輿(りゅうしよ)こと、王郎を斬ったとはいえ、天下の情勢は混沌の度を増していた。

 長安の皇帝・劉聖公の周囲は堕落し、政治は混乱を極めた。景帝の弟以来の(りょう)王の血筋を伝える劉永が、梁王を称して睢陽(すいよう)に割拠し、公孫述(こうそんじゅつ)巴蜀(はしょく)に王を称した。李憲は淮南(わいなん)に王として自立し、秦豊が黎丘(れいきゅう)に立って楚黎(それい)王と号し、張歩が山東の琅邪(ろうや)に、董憲が東海郡に、延岑(えんじん)が漢中に、田戎(でんじゅう)夷陵(いりょう)に兵を起こし、小規模な軍事政権はいくつも立ち上がっていた。さらに銅馬(どうば)青犢(せいとく)、五校、檀郷(だんきょう)尤来(ゆうらい)ら、「賊」と称される武装集団が河北を流れ歩き、時には数百万人に近い流民を配下に入れ、略奪を繰り返していた。

 文叔が真に河北の覇者となるためには、これらの武装集団の掃討がどうしても必要であった。


 


 文叔が睨んだ通り、謝子張の妻・史昭君は、父親よりも年上の夫が不満であった。

 初めは夫とともに蕭王府を訪れ、文叔と郭聖通夫婦の歓待を受けたが、文叔がさりげなく色目を使ってやると、驚くほどあっさりと陥落し、文叔が贈った秘密の(てがみ)にもノリノリで返事が返ってきた。

 文叔自身は史昭君に興味もない。二人の仲を謝子張が疑って、邯鄲から退去するかしてくれればいい、くらいのつもりだったが、謝子張への憎しみと郭聖通へ当てつける気分もあって、文叔は彼女と関係を持った。

 ――昔から、好きでもない女とも抵抗なく寝てきた。陰麗華に嫌われたくないから、遊びはやめていただけだ。


 それに、史昭君は本来は長安の、劉聖公の後宮にいて、謝子張に下賜された女である。どんな手段を用いても、文叔は陰麗華につながる情報が欲しかった。


 蕭王府はかつての諸侯王、趙王の邸宅で、邯鄲城内のかなりの部分を占める広大な敷地を持っている。もともと後宮を抱えていた宮殿であるから、史昭君と二人で逢うのも、それほど難しくはない。

 庭園の池の畔の(あずまや)は滴るような緑に囲まれて、外からは様子が見えない。侍女や宦官をも遠ざけて二人っきりになれば、史昭君は恥じらいもなく、体を文叔にすりつけ、しなだれかかってきた。


「ねえ、会いたかったの! この前からあなたのことが忘れられなくて……! もうあんなお爺さんの相手は嫌よ、このままあたくしをどこかに攫ってちょうだい!」


 きつく焚き染められた香は、郭聖通のものと香が違う。文叔が蕩けるような笑顔を見せて史昭君の肩を抱き寄せる、その視線の先にはちょうど、胸高に履いた(スカート)で、極限まで強調された白い胸の谷間が覗く。華奢でなだらかな肩と豊かな胸は、陰麗華の代替品としては悪くないと思う。――郭聖通は背が高く痩せ型で、はっきり言えば胸は貧弱だった。


「無茶を言うね。君の夫は私の……まあ、言うならば上司でお目付け役なのに。イケナイ人だね?」

「だってぇ……! もうお年寄りだからって我慢してたけど、あなたの方が何倍も素敵だったんだもの。もう我慢できないの……ね?」


 史昭君は瞳を潤ませ、頬を紅潮させて、うっとりと文叔を見上げ、柔らかな胸を文叔の体に押し付けてくる。


「あなたは少し、皇帝陛下に似てるわね? あなたを少し不良っぽくした雰囲気で……」

「まあ、そりゃあ、親族だしね。割とみんな、同じような濃い顔なんだよ」

「でも、あなたの方が男前だわ」


 史昭君が朱く塗った長い爪で文叔の唇に触れる。文叔も女の細い顎に長い指で触れて、顎の下から細い頸筋を辿って、白い胸の半球を指で突つく。女がホウっとため息をついて首を反らした。


「皇帝の寵愛をもらおうと思わなかったの? 君みたいな美しい人が」 

「だって……皇帝の周囲には何人も女がいて――たいてい、南陽の田舎からついてきた女たちよ。噂だけど、人妻もいるって話だったわ」

「人妻……誰の奥さんとか、聞いた?」


 文叔が黒い瞳で覗き込むと、女は首を振る。


「聞いたような気もするけど、名前までは覚えられないわよ」

「そうか……皇帝の好みはどんな? 君みたいな色が白くておっぱいの大きい娘? それとも瞳が黒目がちで睫毛が長い美少女?」

「うふふふふふ……くすぐったいわ、文叔ったら……」

「正妻は趙夫人だったはずだけど……」

「ええ、確かそんな名前。もう諦めたのか、すごーく冷めた目で見ていたけど、韓夫人とかいう女がおっかなくって! 前夜にお側に侍った女のところに怒鳴りこんだりとか!」

「そんな嫉妬深いのがいるの! たいへんだな、聖公兄さんも」

「ねえ、そろそろ……」


 女の朱く濡れた唇から漏れる息が熱を帯びてくる。文叔は醒めた目で女の痴態を見下ろしながら、器用に裙の中に手を忍び込ませる。


「君ほど美しい人なら、聖公だって夢中にさせられたのに。……ほかに、どんな女がいたか、もっと教えて?」

「うーん……あとは――それより、ねえ……もっと――」


 文叔の脳裏に、あの金釵がチラつく。

 こうやって陰麗華も、劉聖公に媚びるのだろうか? いや、そんなことはあり得ない、彼女はきっと最後まで抵抗するに違いない。あるいはもしや命を絶って? ならば金釵を劉聖公が手に入れることもないはず――。


 ほんの少しでいい。陰麗華の消息を知りたい。そう思う一方で、他の男に媚びて甘い声を上げる彼女のことなど、想像しただけで気が狂いそうになる。でも、もし生きて、劉聖公のもとにいるのなら――。


 快楽をねだる女は、長安の皇帝周辺の噂話や与太話、年老いた夫のみっともない閨での秘め事まで、文叔の望むままに口にし、謝子張が軍事面の弱さを引け目に思い、戦での功績を熱望していることを知ったが、肝心の陰麗華の消息については、何も得られなかった。





 文叔の狙い通り、謝子張は妻の不貞を疑い、妻を引きずるようにして、数万の兵を率いて鄴の城に居を移した。年齢差のある妻に負い目もある謝子張は、文叔をあからさまに糾弾することもできず、二人の間には微妙な緊張感が漂っていた。

 ちょうど、幽州では耿伯昭と呉子顔が兵の徴発に同意しない苗曾、韋順、蔡充らを斬り、幽州の精兵を収めて南下してきた。幽州の精兵を獲得した文叔は、本格的に河北全体の制圧に取り掛かる。河北に散らばる銅馬、青犢といった「賊」を討伐するそのついでに、目障りな謝子張を片付けることにした。




 秋、文叔は清河(せいか)郡の清陽(せいよう)に出向いて、呉子顔の率いてきた幽州の精兵と合流した。


 館陶(かんとう)で銅馬の賊を大破したが、今度は別の高湖、重連の賊が東南からやってきて、銅馬の残党を取り込んで勢力を拡大するのを、文叔は蒲陽(ほよう)で迎え撃ち、破った。が、次いで赤眉(せきび)の一部と大肜(だいゆう)の賊、青犢の賊と銅馬の残党が、合わせて数十万人、河南郡の射犬で合流していると聞き、文叔は南方への進軍を決める。そして、一応は友軍である謝子張に、一見、花を持たせるかのような話を持ち掛けた。


「青犢の賊を討伐し、そのまま南方の射犬(しゃけん)まで追撃する。山の南にいる尤来(ゆうらい)の賊が、我々の攻撃に追われるかたちで北上するはずなので、謝尚書殿自ら、南の隆慮山(りゅうりょさん)に出撃なされば、残党など貴公の威力の前には簡単に壊滅させられるでしょう」


 労せずして軍功を挙げるまたとない機会だと文叔に言われて、戦争に疎く功績に飢えている謝子張は、鄴には留守居役を残し、自ら出撃した。 

 文叔は密かに別の使者を史昭君にも送る。


〈君の夫を始末する算段がついた。留守居役がこちら側に寝返るよう、説得してくれ〉


 文叔に会えない日々と、嫉妬深い年上夫にうんざりしていた史昭君は、まったく疑うことなくこれを信じた。

 文叔は邯鄲から南下し、河南郡の射犬で青犢の賊と交戦し、難なく賊を撃破した。河南郡の山際にいた尤来の賊は、敗戦に追われて太行(たいこう)山脈に沿って北上し、予想通り隆慮山に向かう。戦に不慣れな謝子張は苦戦し、結局、尤来の賊に破れ、数千人の死者を出した。


 文叔は謝子張の留守を狙い、幽州の精兵を率いた大将軍呉子顔と、岑君然(しんくんぜん)刺姦(しかん)大将軍に命じて、鄴を急襲させる。呉子顔は留守居役の魏郡太守陳康(ちんこう)に使者を送り、内通を呼びかける。陳康は誘いに乗り、もう一人の留守居役、劉慶(りゅうけい)と謝子張の妻を拘束し、門を開いて呉子顔らを鄴の城内に引き入れた。


「文叔はあたくしのために兵を挙げたのよ! あたくしに何かあったら、彼が許さないわよ!」


 謝子張の妻・史昭君の言葉に、呉子顔が(ひげ)(ヅラ)を歪める。呉子顔の目には、史昭君は特に美女とも見えず、信用する気にならない。が、岑君然が言う。


「だったら、協力してもらおう。俺たちは兵を隠しておくから、何事もなかったように、謝尚書を迎えてくれ」

「ええ、いいわ。その代わり、夫を殺したら、あの人のところに連れて行ってね」

「うまくいったらな」


 隆慮山から命からがら逃げてきた謝子張は、まさか鄴が制圧されているとは思いもせず、数百騎で何の警戒もせずに鄴に入城する。官舎まで戻ったところで妻の昭君の出迎えを受け、だが留守居役がいないことに首を傾げた。


「今、戻ったぞ。だが、軍は大きな損害を受けた、すぐに立て直さなければ――」


 隠れていた呉子顔配下の兵士たちが湧いて出て、瞬く間に謝子張を拘束し、その場で殺害した。敗戦に疲れ切っていた謝子張には、抵抗する余力すらなかった。


「昭君、お前は――」

「ああ、せいせいした、アンタみたいな夫はもう、飽き飽きしてたのよ! これでやっと文叔と――」


 昭君が言い終わらぬうちに、呉子顔の剣が一閃し、血しぶきとともに昭君の首が飛んだ。


「尚書令謝躬夫妻は、蕭王への反逆をもって刑に処した。裁きに服するものは、降伏すれば命は取らん!」


 刺姦大将軍岑君然が重々しく宣言し、謝子張の配下はすべて、武器を捨てて降った。





  

 鄴の制圧の報告を受け、文叔はいったん、邯鄲に戻る。

 さすがにその夜は郭聖通のもとに顔を出せば、郭聖通は綺麗に化粧を施し、髪も人妻らしく高髷に結い上げて、落ち着いた色味の衣装をまとって文叔を出迎えた。


「……謝尚書の奥様も命を奪われましたとか」

「抵抗したので呉子顔が斬ったと報告は受けている」


 河北の(えき)酒を薦めながら郭聖通に問われ、文叔が素っ気なく答えれば、郭聖通は睫毛を伏せた。


「……もともと、そのためでございましたのね」

「何が?」

「いえ……いろいろと、噂がこちらにも届いておりましたので、ばあやが気を回しまして」

「ああ、謝尚書の女房の件か。……実を言えば、早く邯鄲から出て行ってもらいたかったのだ。邯鄲の市街で騒動を起こしたくなかったからね」


 文叔が盃を干しながら言えば、郭聖通は申し訳なさそうに詫びた。


「……殿方の事情もあるのだから、嫉妬するのも浅ましいと思いながらも……」

「嫉妬?……あなたが、あの女に?」


 文叔が大きな黒い瞳を見開いて郭聖通を見つめれば、郭聖通が恥ずかしそうに顔を伏せる。


「だって、あんなあからさまに……文句を言うのもはしたないとはわかっておりましたが……」


 文叔は思わず、鼻で嗤った。


「バカバカしい。あなたが嫉妬するなど」


 最初からお前のことなど愛していない。――その言葉を、文叔は河北の強い酒とともに飲み下した。



謝子張殺害についての文叔の動きを地図にすると、こんな感じです。

挿絵(By みてみん)

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