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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
陸、腸中 車輪転ず
109/130

苦い夜

「そろそろ……」

 

 宴会の途中で、そっと近づいてきた耿伯山(こうはくざん)に耳打ちされ、文叔は盃を置く。

 上座の方では、ベロベロに酔っぱらった真定王(しんていおう)劉揚(りゅうよう)が大声で管を巻いてる。


「聖通はなあ~太后になるんじゃあ! そう、天が定めておる。それゆえ寡人(ワシ)はな……」


 文叔はその様子をちらりと眺めてから、目立たないように立ち上がり、(しょう)から降りる。(くつ)を履き、そっと静かに耿伯山の先導に従って座を離れる。花嫁は先に室に戻っていた。


 媒酌人(ばいしゃくにん)を務めた劉伯先(りゅうはくせん)が文叔の中座に気づき、立ち上がって文叔に向かい拱手する。文叔の知らないところで、耿伯山と劉伯先を中心に婚礼の準備は着々と進められていたのだ。気づかない文叔も間抜けだが、鉅鹿(きょろく)方面の攻略に専心していた文叔が、真定あたりの裏事情まで目を配るなんて不可能だ。してやられたことに内心、不快ではあったが、それを表面には出さず、無言で拱手を返し、耿伯山に続いて堂を出た。丹塗りの柱の並ぶ回廊には、銅製の灯籠が吊り下げられて並んでいる。


「……どこまでついてくるつもりだ?」


 ブスっとした口調で文叔が尋ねても、耿伯山は意にも介さずに笑う。


(それがし)は立ち合い人ですよ。ちゃんと花嫁の部屋まで送り届けます」


 文叔が舌打ちする。


「今さら逃げたりはしない。でも、今夜はそんな気分になれない。騙されて胸糞が悪い」

「……ここまでしなければ、あなたは納得しなかった。これで、どうにもならなかったと、あなただって言い訳できる」


 耿伯山の言葉に、文叔が思わず目を見開いてその顔を見つめた。


「伯山、おぬし……」


 耿伯山は文叔の視線をふっと外し、顔をそむけた。うりざね顔に灯籠のあかりが影を作る。


「……聖通は不幸な娘です。生まれてすぐに相者(うらないし)が余計なことを言ったおかげで、王の世子(よつぎ)の許婚となり、世子が死ねば聖通が不祥の女と罵られて……聖通の吉兆目当ての縁談も、相手が事故死して、それも聖通のせいにされた。ただの偶然が重なっただけなのに。縁談も途絶えて嫁ぎ遅れの年齢まできてしまったが、容貌も教養も、人柄だって悪くはないのですよ。……やや、自尊心が高いですが、それもまた可愛いところもあるです」


 耿伯山が言えば、しかし文叔はフンッと鼻を鳴らす。


「だったら、おぬしがもらっておけばよかったのに」

「ことはそう、簡単ではありませんよ。河北には河北の(しがらみ)がある。うかつに聖通を娶れば、天下への野心があると疑われかねません」

「私も野心なんてない!」


 慌てて言い募る文叔に向かい、耿伯山が首を振った。


「そんなの、今さら通るわけないでしょう。あなたは河北の平定を命じられて河を渡ってきた。軍隊を率い、皇帝の節を振りたてて。更始政権を背負い、邯鄲の偽の劉子輿に対抗する旗頭なんです。女房がどうこう言っていられるご身分だと?」


 はっきり言われて黙りこくった文叔に、耿伯山がなおも言う。


「でも、あなたのお気持ちを忖度(ソンタク)して、〈断れなかった〉、という形に持ちこんで()()()()()のですよ」

「……なんだって?」


 文叔はただ、目を見開いて耿伯山の顔を見つめる。


「あなたにだって、理性ではわかっているはずだ。聖通と結婚するしかないって。それ以外に選択肢はないと。……あの、鄧仲華だって、理性ではわかっていて、でも感情で反対しているだけだ。広阿に彼を残してきた時点で、もう選んでいたのでしょう。――ただ、心がついていかず、あくまで抵抗するフリをしていた。……だから、背中を押して差し上げたのです」


 文叔の目を射すくめる、耿伯山の切れ長の瞳。文叔は反論もできず、息を飲む。


「……さ、着きました。河北の覇者となる、第一歩です」


 華やかに篝火のともされた回廊で立ち止まり、耿伯山が文叔を促す。凝った彫刻の施された木扉がキイと開き、侍女が頭を下げる。


「確かに、花婿を(しんしつ)にお連れしました」


 耿伯山が重々しく宣言し、侍女が文叔をいざなう。耿伯山の顔をちらりと見てから、文叔はあきらめたように、赤い布の装飾が施された、花嫁の待つ房室に足を踏み入れる。文叔の背後で、木扉が閉まる音がした。




 

 花嫁の待つ房室は赤い布の花飾りで埋めつくされ、金色の灯籠にいくつも明かりが灯って、昼間のように明るかった。華麗な漆塗の装飾の施された家具。金襴緞子の席(座布団)の縁飾りは五色の糸が垂れている。婚礼の夜だから気張ったというよりは、もともと豪華な部屋なのだろう。


 侍女が透かし彫りの衝立(ついたて)の向こうに文叔を案内しようとするのをとどめ、近くの(しょう)に腰を下ろし、水を所望する。侍女が頭を下げて水を汲みに行く間、文叔は目を閉じ、両手を握り締めた。


 自分が着せられている、赤い袍が忌々しかった。


 ――陰麗華との婚礼には、こんなものも用意できず、文叔は少しだけ他行着(よそいき)の、黒い直裾袍に、陰麗華が刺繍した帯を締めたのだ。陰麗華もまた、自分で刺繍したという、花模様の曲裾深衣で――。


 今宵、花嫁がまとっていた赤い衣装。陰麗華だって富豪の娘なんだから、あれくらい準備できたはず。居並ぶ賓客に、豪華なご馳走、音楽、歌。誰よりも華やかで美しい花嫁になるはずだった陰麗華なのに、急拵えの婚礼を挙げるしかなかった。それでも幸せだと、彼女は言ってくれた。何もなくとも二人は結ばれて、永遠の夫婦であると誓ったはずだった。


 一与之斉、終身不改。故夫死不嫁、男子親迎。


 せめて親迎の礼だけはと、陰麗華を馬車に乗せて宛の街を巡った、あの日。ただそれだけの慎ましい愛の誓いだった。――それすら、文叔は破った。


 どれほどの言い訳を繰り返しても、これは重婚で、陰麗華への裏切りだ。


 ――早めに、南陽へも(てがみ)を送るべきかと思います。


 婚礼の前、赤い衣装を着せかけながら、馮公孫が耳元で言った言葉が甦る。


 ――たとえ夫側の不実であっても、妻側からの離縁は認められない決まりです。ただ一言でも、夫の側から離縁の言質がなければ、妻は自由になれません。


 頴川(えいせん)で郡吏をしていた馮公孫は、法の規定に詳しかった。


 ――一言?


 文叔が思わず尋ねれば、馮公孫はやや下がり気味の眉をさらに下げ、言った。


 ――「棄」でも、「絶」でも。その一言でいいのです。


 普通、一方的な離縁など、両家の親族を巻き込んだ揉め事になるが、今は戦乱で、非常時だった。朱仲先が叛乱に先立って妻を離縁したように、妻やその家族に累が及ぶのを避けるための、一方的な離縁も珍しくはない。


 文叔は馮公孫には何も、答えられなかった。

 侍女が差し出す椀の水を受け取り、一気に呷る。そうして立ち上がり、衝立の奥の房に入った。


 房は高い位置に(まど)が空いて、奥に帳台が置かれ、帳のさらに向こうに人影が動く。


「……劉将軍。いえ、旦那さま」


 帳の奥から声を掛けられ、文叔は思わず眉をひそめた。


「すまないが、少し飲みすぎたようだ。それに、明日は早朝から鉅鹿(きょろく)に戻らねばならない」


 文叔は房の中を見回すが、あいにく、他に寝転がれるような牀もない。(タイル)敷きの床で寝ようかと思案する文叔に、郭聖通が白い手で帳を持ち上げ、誘った。


「こちらに……」

「いや、いい」


 すげない拒絶の言葉から、文叔の心情を悟ったのか、郭聖通が言う。


「せめてこちらで(やす)んでいただかねば、明日の朝、わたくしの立つ瀬がございません」

「……あなたに触れるつもりはない」

「怒っていらっしゃるのですね……」


 郭聖通の声が湿る。


「私は何度も言った。南陽に残した妻を愛してると」

「でも、あなたは――」

「こんな状況になれば、普通の男は割り切るものかもしれない。でも、私は少し、普通じゃない」


 普通じゃない、という文叔の言葉の意味をとらえかねているのか、郭聖通が沈黙する。


「私の母は、私を愛さなかった。生まれたときから私に不思議なことが多すぎて、私を恐れ、(うと)んだ。家に災いをもたらす凶星だと」

「それはあなたが、天命を受けておられるから――」

「天命だろうがなんだろうが、母にとって私は気味の悪い不吉な息子でしかなかった」


 文叔は吐き捨てる。


「――妻は、私の夢で、希望だった。暖かい家庭なんて私は知らないが、彼女のためにそれを築きたかった。彼女を奪われるくらいならと私は叛乱を起こし、故郷(ふるさと)の南陽は戦火に焼かれた。すべては、彼女を手に入れるためだった」


 文叔は、帳の奥からじっと、自分を見つめている白い顔をみつめ、はっきりと宣言した。


「彼女を愛してるんだ。こんな形で婚礼を挙げて、あなたにも申し訳ないとは思っている。が、この婚姻は河北豪族の支持を得るための政略にすぎない。――あなたも、それは承知していると思うが」

「……わたくしは太后になる、という宿命を負っておりますの。わたくしの子が皇帝になるのであれば、それはあなたの御子以外、考えられません」


 文叔はため息をついて、首を振った。


「悪いがそんな気分になれないな。……それに、私の子が天子になると決まったわけではあるまい?」


 文叔は広い臥牀の端に腰を下ろすと、郭聖通に背中を向け、ごろんと横たわる。


「……明日の朝は早くに発つ。ではお休み」


 郭聖通が戸惑い気味に文叔の肩に触れるが、文叔はそれを無視し、狸寝入りを決め込んだ。

 帳の中は闇と、気まずい沈黙が支配する。しばらく座って文叔の背中を見つめていた郭聖通も、あきらめたように小さなため息をつき、ごそごそと臥牀に横たわった。





 翌早朝、簡単な挨拶だけを郭家の面々と交わすと、文叔は一行を率いて広阿(こうあ)へと引き返すことにした。郭聖通の弟で郭家の当主である郭長卿はまだ十五歳で、昆陽の英雄である義兄の文叔に対する憧れを隠そうともせず、礼儀正しくしゃちほこばって見送ってくれた。――何も知らない少年を騙している罪悪感を振り切るように文叔は郭家の門を出、真定の城を後にした。途中、文叔は思いついて朱仲先(しゅちゅうせん)に告げた。


「……義兄(にい)さんには、報告しておかなければならない」


 鄧偉卿のいる元氏県は邯鄲(かんたん)に向かう街道沿いにある。往路は宋子県を経由する形で東回りのルートを取ったが、まっすぐ南に降りるルートを選び、元氏県に一泊する。突然の訪問でも、鄧偉卿は喜んで、文叔を出迎えてくれた。

 

「義兄さんに、言わなければならないことが――」


 兜だけを脇に抱え、武装も解かずに近づいた文叔に対し、鄧偉卿は一瞬、眉を上げたが、すぐに首を振った。


「だいたいの事情は聞いている。――すまなかった」


 いきなり謝罪されて、文叔が目を見開く。


「義兄さんが、なぜ、あやまる」


 鄧偉卿は周囲を見回し、河北の人間が近くにいないことを確認してから、言った。


「俺はお前たちの媒酌人だった。本来なら俺が、異義を唱えなければならなかった。だが――」


 息を飲んだ文叔の目をまっすぐに見つめて、鄧偉卿が小声で続けた。


「俺の目にも、選択の余地はないと思えた。だから黙っていた。今、洛陽から南はかなり混乱している。劉聖公が長安へ移動した後、南陽の(えん)を任されたのは劉子琴(りゅうしきん)だが、あの男には宛は維持できないだろう。新野あたりも相当に荒れているようだ。――少君からの便りも、今のところない」


 鄧偉卿の甥、鄧少君は、宛と新野の間にある育陽に本拠を置いて、周辺の治安維持を受け持っているが、その連絡が絶えているという。


「黄河の北岸から元氏まで、太行山脈沿いの街道は邯鄲(かんたん)側に押さえられている。洛陽からの連絡は東回りの信都経由になる」


 現在、元氏県にいる鄧偉卿にやってくる情報は、洛陽の李季文や朱長舒が洛陽留守居役の権限で、信都経由で送っている定期連絡だけ。鄧少君が叔父に対して私的な便りを送れる状況ではない。


「じゃあ、陰麗華は――」


 文叔のかすれ声の問いに、鄧偉卿がかすかに首を振る。


「李次元は劉聖公とともに長安に移ったと聞いているが、陰次伯の消息は不明だ。あの次伯が妹を見捨てるはずはないから、次伯は陰麗華のそばにいるはずだ。少君がうまく助け出せたのなら、いずれ連絡はあるはずだが、邯鄲回りの道が使えない今はどうにもならない」

「……次伯の下にいた男が、鄧仲華とともに邯鄲までは来た。でもそこから北は――」

「河南の人間が、案内もなく河北を旅するのは、平和な時でも難しい。まして、この混乱の中ではな」


 鄧偉卿が文叔の肩をたたく。


「陰家への(てがみ)は俺が預かってもいい。直接言いにくいことなら、俺がうまく説明して――」

「いや、いい」


 文叔は首を振る。


「義兄さんに、そこまではさせられない。どんな理由があろうと、媒酌人と陰麗華を裏切ったのは、僕だ。(てがみ)はいずれ、僕自身の手で書く」

「そうか。……もし、少君や陰次伯からの連絡があったら、どうすればいい?」


 鄧偉卿の言葉に、文叔は目を伏せる。


「……義兄さんが今、知っていることだけを、伝えておいてくれたらいい。何を言っても言い訳にしかならない。せめて言い訳は、僕自身の言葉でしたい」

「そうか。……だが、なるべく早くにきちんとした方がいい。正式な離縁には、夫側からの離縁状が必要だ。陰麗華が、()()()()に踏み出せるように」


 そう言われて、文叔は無意識にぐっと唇を噛んだ。


 郭聖通とは、真定王も列席した正式な婚礼を挙げてしまっている。二人の婚姻は、河北に広く喧伝されるはずだ。


 もう、戻ることはできない。

 すでに裏切りはなされている。遠からず、南陽の陰家の耳にも入るだろう。


 願わくば、少しでもその日が遅ければいいと思う。

 今、南陽との連絡が途絶えているのを理由に、離縁状を送るのをできる限り先延ばしにしたい。


 文叔が離縁状を送らない限り、少なくとも法的に、陰麗華とは夫婦でいられる。

 あるいは陰麗華が無事に新野に帰り着き、文叔と郭聖通との結婚に異義を申し立ててくれれば――。


 文叔自身や常山太守の鄧偉卿ですら反対できなかった婚礼を、陰家側がどうこうできるわけなどあり得ないのに。

 文叔はどうしても、陰麗華への未練を断ち切ることができないでいた。





 広阿の陣に帰りついた文叔を、鄧仲華が不機嫌そうな顔で出迎えた。


「仲華、その……これはだな……」


 しどろもどろに言い訳しようとする文叔を、仲華は色素の薄い茶色い瞳で一瞥すると、細い肩をすくめた。


「わかっているよ。断れない筋だってことぐらい、僕にも。でも――」


 仲華は文叔をまっすぐに見て、言った。


「陰麗華に離縁状は書いたの?」

「……いや、まだ。その……」

「早く書かないと、重婚じゃないか。最低だな、あんた」

「わかっているけど、離縁状なんて書いたことないからさ……」


 文叔が目を伏せる。


「とにかく早く離縁だけはしないと、陰麗華が次の人生に踏み出せないじゃないか」

「次の、人生……」


 文叔がポツリと呟く。


 一たび之と(ひと)しくなれば、終身改めず。故に夫死すとも嫁がず、男子は親迎す。


 孔子の教えは妻の再婚は勧めないが、この時期はまだ、そこまで人々の暮らしまで縛るものではなく、女性の再婚は珍しいことでもなかった。


「……でも、陰麗華の子は――」

「ほかの女と結婚しておいて、何言ってるの。もう今さら、あんたに彼女の人生を縛る権利なんてないんだよ。まだ若いんだから、いずれ、誰かもっといい男と結婚するさ」


 鄧仲華に冷たく言い捨てられ、文叔は顔を歪める。 


 誰か。

 もっといい男。

 自分以外の、他の――。


 ギリギリと、体の奥の内臓を絞り込まれるような気がして、文叔は思わず奥歯をかみしめた。


「だから一刻も早く、離縁状を――」

「わかってる!」


 ちょうど、鉅鹿を包囲するする軍議の時刻だと呼ばれ、文叔はその話題をそこまでにした。





 更始二年(西暦二十四年)三月、文叔は河北の拠点都市のひとつである、鉅鹿を包囲した。鉅鹿の城を守るのは、邯鄲の自称・劉子輿の配下、王饒(おうじょう)将軍で、なかなかに守りが固く、城は落ちない。邯鄲の劉子輿――実は卜者の王郎だというのは、そのころには半ば公然とささやかれていた――は、倪宏(げいこう)と劉奉という二人の将軍に数万人をつけて鉅鹿救援に派遣した。


 文叔は兵を率い、南䜌(なんれん)にこれを迎え撃つことにしたが――。


 初め、邯鄲側の攻撃が優勢で、文叔軍は押され気味であった。倪宏軍の主力が文叔の本陣を狙い、輜重(しちょう)を奪われ、すぐ横にいた朱仲先が文叔を庇って、流れ矢を左腕に受ける。


「仲先!」

 

 友人の負傷に、珍しく文叔が冷静さを失いかけたとき、景孫卿将軍が率いる上谷郡の一軍が、騎馬隊で縦横無尽に突撃攻撃を行い、倪宏軍を大破、そのまま敗走する敵を追撃して敵の首級数千を挙げ、道すがら、敵の死屍累々が横たわるという大勝利を収めた。


 北の騎馬民族、匈奴と境を接する上谷郡、漁陽郡の兵は鍛えられた騎馬の「突騎」が有名であったが、ここまでの威力があるとは、文叔は思っていなかった。


「上谷、漁陽の突騎は天下一の精兵と聞いてはいたが、実物を目にすると口にするのも恐ろしいものだな」 


 自ら朱仲先の傷口に化膿止めの薬草を塗りつけ、白布でぎりぎりと巻きながら言えば、横で薬湯を煎じていた鄧仲華も口を尖らす。


「というか、あの爺さん、誰が年寄りの冷や水とか言ったのさ」


 すると、ゴリゴリと薬草を坩堝ですりつぶしながら、耿伯昭も同調する。


「知らねぇよ、爺さん元気で留守がいいって言うじゃん」

「何か違う! 君の教養は匈奴仕込みなのか、いろいろと中途半端だよ!」

「うっせぇ、この坊ちゃんが!」

「田舎の坊ちゃんなのはお互いさまだ!」


 矢傷に薬草が浸みるのか、朱仲先が顔を顰め、叫ぶ。


「ああもう、ガキどもはくだらねぇ言い争いをするなっての! 傷に響く!」


 文叔は包帯を巻き終えると、朱仲先に襦衣を着せてやり、言った。


「まあ、とにかく勝ったんだからよかった。援軍を撃破したことで、鉅鹿は孤立無援になったし」


 鉅鹿を守る王繞将軍は無駄に根性のある男で、まだ鉅鹿は落ちそうもない。


「どうすんだよ、鉅鹿」


 朱仲先の問いに、文叔は肩をすくめる。


「耿伯山がさ、邯鄲が落ちれば鉅鹿も降伏するしかないし、現状、城から撃って出る兵力もないから、放置でいいって。……というわけで先に邯鄲を落とす。()()()()だよ」

「……そう()()にいくかな? 邯鄲だけに」

「ああもう、親父ギャグうっざ!」


 鄧仲華が文句を言いながら大振りの椀に煎じ薬を注いで、それを受け取って朱仲先が鼻先で匂いを嗅ぎ、顔をしかめる。

 

「大丈夫かこれ、人類の飲み物とは思えん」

「つまんないダジャレを言う親父は人類以下の生き物だから、それで十分だよ」

「なんだとお?!」


 くだらない言い争いをする仲間たちを横目に、文叔は軽くため息をつく。

 郭聖通との結婚が河北に知れ渡った結果、文叔のもとには帰順を求める豪族たちが、続々と詰め掛けている。情勢が、一気に文叔側に傾いた感があった。


(現金な……)


 とにかく、偽の劉子輿を倒さないことには、話が始まらない。文叔は自分に言い訳を重ねるしかなかった。




 南䜌の勝利の後、鉅鹿は放置して南下し、四月、文叔軍は邯鄲を包囲する。


 ここまで至って、長安の皇帝・劉聖公はようやく、邯鄲討伐のための援軍を差し向けてきた。尚書僕射(しょうしょぼくや)謝子張(しゃしちょう)という男に挨拶され、文叔は複雑な気分であった。


(そんなことより、陰麗華は、いったい――)


 陰麗華が劉聖公の周囲でどう扱われているかわからない現状、文叔から彼女の無事を尋ねるわけにもいかない。


 改めて邯鄲の偽・劉子輿、王郎討伐の命令を片膝をついて受けながら、文叔は唇を噛んだ。

 

 


 

劉伯先:劉植

李季文:李軼(りいつ)

李次元:李通

朱長舒:朱鮪(しゅい)。字は山東金郷県の〈朱鮪墓〉(旧石室)の墓誌の記載より。これが本当にこの朱鮪の墓なのかは謎。清・厳可均『全後漢文』では字を「伯然」とする。ただし、引用する『東観漢記』の文字に異同があって判然としない。朱鮪の字が実のところどうであっても物語には関係しないので、ここでは朱長舒を採用した。

謝子張:謝躬(しゃきゅう)。南陽の人。尚書僕射は尚書の次官。

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