偽りの婚礼
桃之夭夭 灼灼其華
之子于帰 宜其室家
――『詩経』国風・周南・桃夭
真定に向かう道すがら、真定王の甥にあたる耿伯山が、文叔に馬を寄せてきた。
「真定の郭家には先触れを出しました」
しれっと言われて、文叔は耿伯山の男前だがややのっぺりした顔を、思わず見つめた。
「郭家に? 真定王ではなく?」
「真定王と邯鄲の間で取り決めた婚姻の話であっても、実際の準備は郭家が行うのですよ。郭家を味方につけない限り、明公の思惑通りにはいかないと思いますが」
郭聖通と邯鄲の自称・劉子輿との婚姻は政略的なものだが、普通に郭氏から嫁を出す形をとる。水際で止めたかったら、真定の郭家に飛び込むのが一番、確実だ。
だが文叔はどうにも、いやな予感がしてならなかった。
郭聖通の色の白いうりざね顔。けして醜いわけではなく、むしろ美しい方だとは思うが、底の知れない部分があって、背筋がぞわぞわする。
初対面だというのに、あの女は、文叔が自分の運命の相手だと、頭から信じ込んでいた。文叔に妻がいると聞いて、信じられないと驚愕していた。いったい何をもって、そんな風に思えるのか。
運命。讖文、天神の導き。
人の世を動かす大いなる存在を、〈天命〉と呼ぶのだとしたら。――あの夏の日の昆陽を襲った、滝のような雷雨。あの冬の夜の猛吹雪の中、普段は凍らない、凍りついた河。木の杖で文叔に道を指し示した、路傍の白衣の老人。――だが、その道の先に待つのは栄光か、破滅か。
文叔のこれまでの人生を彩り、頭上に禍々しく輝いてきた凶星。人がそれを〈天命〉と呼んだとしても、それは文叔の望んだことではない。――文叔が望んだものはただ一つ、陰麗華のみ。
もし、〈天命〉がそれを奪おうとしているのなら――――。
真定の藁県、漆里にある広大で瀟洒な郭家の舎。使用人が目まぐるしく動き回り、庭には筵を敷いて、壺や反物、穀物の袋などが積み上げられている。婚礼を控えて、準備におおわらわであった。
耿伯山からの先触れもあって、郭家の老僕は突然現れた武装した男たちに驚くこともなく、主人の待つ堂へと導く。堂では真定王劉揚の妹、郭主(主は諸侯王の王女のこと)が出迎えた。
「まあまあ、ようございました! お待ちしていたんでございますよ! 本当にもうね、わが兄上様とはいえ、無茶なことを突然、おっしゃられていったいどうすべきかと――」
絹の手巾を振り絞るようにして、郭主がバッチリ化粧をした顔で、文叔に大げさに訴えてくる。いったいどんな先触れを出したんだ、と文叔が耿伯山をちらりと見れば、耿伯山が肩をすくめて見せた。
「いくらなんでも、伯父上もあまりです。ホンモノの劉子輿ならともかく、正体は王郎という、どこの馬の骨ともわからぬ、卜者だと言いますからね。聖通を嫁がせるなど、とんでもない話です」
耿伯山の言葉に、郭主がわが意を得たとばかりに、ぶんぶんと大きくうなずく。
「本当にそうよ!あの子は本来ならば、次の真定王の后になるはずだったのに!」
文叔がハッとして、郭主の顔を見た。
「真定王の后……つまり、郭聖通どのの、死なれた許婚とは……」
「兄上の世子でしたのよ! それが立て続けに……あの子のせいでもないのに、不祥の子だなんて言われて! かわいそうな子!」
郭主が悔しそうに手巾を振りながら言うのを聞いて、文叔は納得した。同姓婚は禁忌だが、イトコ婚は異姓であればむしろ推奨される。郭聖通の死んだ許婚が真定王の王世子なのは十分にあり得ることだし、王世子の元許嫁であれば、河北の有力者たちが娶るのを軒並み尻込みするのも理解できた。
王郎がホンモノの劉子輿であったならば――。
諸侯王のプライドと中央の皇家への忠誠心にあふれた河北の人間なら、二つ返事で嫁いだに違いない。
沈黙している文叔に対し、郭主は何を思ったのか、あれこれ嬉しそうに話しかけてきた。
「初めに伺ったときは、南陽の舂陵侯なんて聞いたこともございませんで、どうしましょうと思いましたけれど、あたくしの実家の真定王家と同様、景帝陛下の後裔なんでございますのね!いわば同族でございますもの! あの怪しげな王郎なんかよりも、うんと由緒もしっかりして、何よりもこんな美丈夫でいらっしゃって! さすが、あの子が見初めただけありますわ! あの子は昔から、なんでも目利きでございましてね! そりゃもう――」
「叔母上」
怒涛のように続く郭主の言葉を耿伯山が遮ってくれて、文叔はようやく一息つく。
「とにかく一度、我々は奥で休息を」
「伯山」
文叔が耿伯山を制し、改めて郭主に尋ねる。
「郭聖通どのは、邯鄲の劉子輿に嫁ぐことは望んでおられないのですね」
「もちろんですわ、あんな贋者に。それに、聖通の心にはずっと、劉将軍おひとりだけでしたのよ」
郭主が化粧の濃い顔に、意味深な微笑みを浮かべる。郭聖通が母親に対し、文叔とのありもしない仲を仄めかしたのだと、一瞬、眉を顰めたが、邯鄲への嫁入りを断る方便だとしたら、とがめだてるわけにもいかなかった。
「でも明日にも邯鄲に出発せよと、わが兄上様に命じられて、途方に暮れておりましたのよ。ほんと、間に合ってくださって、よかった」
文叔は中庭の様子をちらりと見て、眉を顰める。長櫃がいくつも積み上げられ、婚礼用の赤い飾りがつけられている。本当に出発間際だったのだ。
「聖通どのと話すことはできますか。いえ、もちろん、二人っきりなどということは――」
「いいえ! ご遠慮なさらず! 聖通も先ほどからずっと、劉将軍のご到着をお待ちしておりましたのよ!」
オホホホホと袖を口元にあてて笑う郭主に、文叔は背中に冷や汗をかく。
「ならば、劉将軍は聖通のもとに。某は郭家の側で接待役として働きますゆえ」
耿伯山にわざとらしく送り出され、文叔はため息をかみ殺して、先導する侍女について郭聖通の待つ庭の亭に向かった。
河北の遅い春が、ようやく真定に及んで、郭家の広大な庭の梅の枝が薄赤く染まっている。ポツポツと数輪、蕾がほころびかけていた。端の反り返った、緑色の瓦屋根に、丹塗りの赤い柱の亭から、かすかな筑の音が聞こえてくる。
真定王に連なる大家の令嬢として、郭聖通は当然のように音曲にも通じているのだろう。脈絡もなく、陰麗華を思い出す。
南陽一の素封家ではあっても、陰家はあくまで、斉民としての分を弁えていた。陰麗華も楽器などは習っていなかったと思う。……ほんの時々、縫物をしながら聞き覚えた南陽の民謡を口ずさんでいた。あの、細くて危なっかしい旋律が今は恋しい。
――諸侯王家の親族だからって、スカしやがって。
郭聖通が奏でる筑の音を耳障りに感じて、文叔はわざと足音を立てて亭への階段を上る。ちょうど一曲終わったのか、ビイイインと弦の余韻を残して、文叔に気づいた郭聖通が筑から手を放し、微笑んで頭を下げた。
「お粗末さまでございました」
「いや……曲の良しあしはよくわからないので……」
郭聖通は文叔に榻をすすめ、筑を侍女に渡す。
「やっぱり、戻ってきてくださった」
「母君になんと説明なさったのです」
文叔が斗篷をさばいて座り、若干、とがめるように詰め寄れば、郭聖通は文叔をまっすぐに見つめた。切れ長の黒い瞳に、影が差す。
「劉将軍と結婚のお約束ができている、と」
「またそんなウソを! 私には妻がいるし、あなたと結婚するつもりはないと言ったはずだ」
「でも、邯鄲との結婚を断るために、わたくしとの結婚を了承したフリはすると、承諾してくださった」
文叔は眉を顰め、黙り込む。
「わたくしと結婚すれば、真定の十万の兵が手に入ります」
「……それは耿伯山にも言われたが、断った。私には妻がいる」
「今、ここにはいないのに」
その言葉に、文叔は思わず激高する。
「身重の彼女を戦場で連れ歩けと?!」
「あなたは天命を受けた真天子として、天下を治める定めを負っているのですわ。だから、わたくしのもとに遣わされた」
「天命云々はともかく、あなたに何の関係がある!」
郭聖通は自身の白い掌を文叔に示し、言った。
「わたくし、生まれたときから、掌に文字がございますの。――太后、と」
そう言われて、文叔がつい、郭聖通の掌を覗き込む。傷一つない、真っ白で美しい掌。近づくとほんのり焚きこんだ香の匂いがしたが、文叔は何の匂いかわからなかった。
「太后? この、掌のシワが?」
「古い、戦国の燕国の文字ですわ。……秦の始皇帝に滅ぼされる以前に使われた」
文叔も、秦の統一以前の古い文字の存在は知識として知っていたが、読めなかった。
「……それがどうしたと言うのです?」
訝しげに尋ねる文叔に、郭聖通が自分の白い手を見つめながら言う。
「わたくしは太后になると、運命づけられているのです。太后とは、漢の皇帝の母か、諸侯王の母以外にはありえません」
「……だから、真定王の世子の許嫁に? あなたの産む息子が王になるはずだから」
郭聖通は長い睫毛を一瞬伏せ、すぐに文叔を見た。
「王莽に天下が移り、諸侯王家は廃止されました。それに今は戦乱の世。予言してまで待たれるのは、新しい天子以外にございません。真定王の王世子が死んだのも、わたくしの夫には相応しくなかったからですわ」
文叔は目を見開く。
「つまりあなたが産むべきは、真定王ではなく、天子だと?」
文叔の問いに郭聖通は何も答えなかったが、それは肯定を意味していた。
「……バカバカしい」
思わず呟いた文叔をとがめるように、郭聖通は言った。
「少なくとも、邯鄲の男はわたくしの噂を聞き、結婚を申し込んできたのでしょう。わたくしと結婚すれば、この手書を大々的に宣伝するに違いありません。わたくしは太后になるべき女で、わたくしの子は天子になる。つまり、わたくしの夫こそ、真天子となるはずだと。それを信じる者も少なくありません」
郭聖通はまっすぐ、文叔をすがるように見た。
「わたくし、天命を受けた真天子はあなただと信じております。わたくしを娶り、わたくしに子を与えてくださるのは、あなたしかいないと。あの吹雪の中、凍った河を渡って、わたくしの邸にあなたはいらっしゃった。……白い衣の天神のお導きのままに」
文叔はあまりの剣幕に息をのみ、ゆっくりと首を振る。
掌の文字「太后」が意味する、天子の母となるという予言。その予言の実現のために、許婚は死に、そして遠く南陽から劉文叔がやってきたと? 天子となるべき〈天命〉を受けている文叔は、当然、郭聖通の夫となるはずだ、と。
――〈天命〉? 〈天命〉だからって、僕が郭聖通と結婚すると?
「ちょっと待ってくれ、あの日に河が凍ったのはただの偶然だ。それに……」
文叔は郭聖通の白い手から目をそらし、吐き捨てるように言った。
「私は妻を愛している。たとえそれが天神の命であっても、彼女を捨てることなどできない」
「天命を拒むのですか?」
郭聖通の迷いのない黒い瞳が、まっすぐに文叔を射抜いてくる。
「拒むも何も……」
「真天子が自らの使命を自覚して起たなければ、どうしてこの天下が治まるでしょうか」
「別に私は天子になるつもりもなく、できれば一刻も早く南陽に帰りたい。天下を治めるような面倒な仕事は、もっとやる気のある人間がすれば――」
「あなたは選ばれたのですよ! それとも、天下を劉子輿のニセモノに委ねるのですか? 劉氏ですらない詐欺師の手に」
「それは――」
邯鄲の天子は成帝のご落胤を名乗っているが、王郎という卜者だ。だが、依然として邯鄲の勢力は強い。――傍系の傍系とはいえ、正真正銘の劉氏である、文叔よりも。
もしここで真定王が邯鄲と手を結べば、文叔はおそらく挽回不可能にまで追い込まれる。
文叔の迷いを、郭聖通は見透かしたように言った。
「天神の導きを拒み、わたくしとの結婚を拒めば、それは伯父真定王と河北豪族を敵に回すことになります。河北の平定もままならず、偽の天子に天下を譲り渡す。そんな愚かな道をお選びになるのですか」
「愚かと言われようが、私にはすでに妻がいる。重婚は孔子の道に背くし、私は妻を愛していて、離縁するつもりなどない!」
文叔はそれだけ早口で言い切ると、斗篷を翻すようにして立ち上がり、踵を返して亭を後にした。
「劉将軍!」
背後から、慌てたような郭聖通の呼びかけを聞きながら、文叔は庭を大股に歩き去った。
「文叔! お前もとうとう、腹を括ったか!」
割り当てられた客室で武装を解いていると、すでにさっぱりした綿入れの袷に着替えた朱仲先が、ずかずかと入ってきた。
「腹? 何のことだ?!」
ぽかんとした表情の文叔に、朱仲先がギョロっとした目をさらに剥いた。
「今夜はお前と郭氏の婚礼の宴会で、真定王もこちらに到着したと、耿伯山が――」
「なんだって!」
ぎょっとして下着の襦衣だけを着た姿で、耿伯山を呼び出そうと戸口に向かったが、その腕を朱仲先が掴んで引き留めた。
「待てよ、文叔。お前が承知したんじゃないのか?!」
「承知するわけないだろう!」
「でも、彼女と二人で話していたし……」
「はっきり断って釘を刺していただけだ!」
腕を掴まれたまま文叔が暴れていると、何事かと馮公孫と傅子衛そして耿伯昭まで部屋を覗き込んできた。
「やめろ、放せ! 伯山に言って止めないと!」
「みんな、文叔を抑えてくれ! ついでに衣装を着替えさせるぞ! 手伝え!」
朱仲先が戸口に向かって呼びかけると、三人はバラバラと入ってきた。馮公孫は漆塗りの衣装箱まで抱えている。
屈強な男四人がかりで押さえつけられてしまっては、もう身動きなど不可能だ。
「放せってば! 僕は結婚なんてしない! 陰麗華のもとに帰るんだー!」
襦衣をはぎ取られ、下に着た陰麗華の縫った絮衣にも手がかかり、文叔が叫ぶ。
「それに触るなって! それは陰麗華のだ! 触るなー!」
「落ち着け、文叔! 何日着続けてるんだ! いい加減、臭うぞ!」
朱仲先が顔を顰め、絮衣をはぎ取って顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
「洗えよ、臭い!……というか、ボロボロじゃないか」
朱仲先が掲げた絮衣はところどころほつれ、腋の下は縫い目もほどけ、汗染みが浮いている。
「それ一枚しか残ってないんだ! 返せよ!」
文叔が必死に取り返して、両手で胸の前に抱きしめる。
「呼陀河に落ちたときに、他のは全部なくしてしまった。これだけしか残ってないんだ! 陰麗華の……」
そう言ってクンカクンカ匂いを嗅ぐ文叔の後ろ頭を、朱仲先が容赦なくどつく。
「やめろ、気色悪い。それは陰麗華のじゃなくてお前の匂いだ。汗臭いだけだ! せめて洗え!」
馮公孫が気を利かせ、文叔をなだめるように言う。
「某が責任をもってお預かりし、洗濯しますから。だから今日はこれをお召しになってください」
馮公孫が差し出す、綺麗に折り目のついた新品の絹の襦衣を、文叔は胡散臭そうに見て、しぶしぶ、着古したボロボロの絮衣を手渡す。あきらめて大人しく絹の襦衣に袖を通している文叔を見て、傅子衛が静かに言った。
「皇帝陛下は無事に、長安の長楽宮に入ったとの連絡が、常山太守の鄧偉卿どのの元にはついていたそうです」
「偉卿義兄さんから連絡が?」
文叔がハッとして振り返れば、傅子衛が頷いた。
「ええ、糧食の輜重とともに。……南陽からは特段の知らせはない、と。ただ、その使者も我々とは入れ違いになって、一旬(十日)以上、河北をウロウロしていたようでして、河南からの旅程を考えても、最新の情報とは言い難いですが」
文叔は唇を噛み、うつむいた。
劉聖公が洛陽を発ったのは、二月の頭だという。とっくに長安に着いて、焼けた未央宮ではなく、隣の長楽宮に入って好き放題している。洛陽宮を挙げての引っ越しで、陰麗華がどうなったのか。その情報がまるで入ってこない。――文叔の方から聞き合わせることなど、できるわけがなかった。
「……順調なら、二月には子供も生まれているはずなんだ……」
絞り出すように文叔が呟けば、朱仲先が言った。
「案ずるより産むが易しと言うさ。……それに、女なんて意外と、逞しく生きているもんだ。俺の元・女房みたいに」
ギリ、と文叔が奥歯をかみしめる音が響く。
「……とにかく、ここは堪えてください。真定王との縁が強固に結ばれるか否かは、真定の十万の兵よりもはるかに価値があるのです」
傅子衛が、静かな低い声で言った。
「……だが、私が結婚していることは、知っている者は知っている。世間を欺くわけには――」
「奥方は生死不明です」
ピシャリと傅子衛が言い、馮公孫が帯を結んでいた手を止め、上に着る赤く染められた直裾袍を広げていた耿伯昭も息を飲んだ。
「戦乱で、夫婦が散り散りになってしまうことは、よくあることです。今、ここで明公を支えている我々と、遠く黄河の南で生きているかどうかすらわからない奥方と。どちらを選ぶのですか」
はっきり断言され、文叔には返す言葉はなかった。
「我々南陽から仕えている者も、河北で明公に従った者も、家族を犠牲にしてここにいるのです。明公が、妻を理由に自分の意思を通すことが許されるとお思いですか?」
傅子衛に静かに諭され、馮公孫も言った。
「奥方には落ち度もなく、某も気の毒であるとは思います。でも、この縁談をお断りになるのは愚策中の愚策。諦めてお受けなされませ。――どれほど愛し合った夫婦であっても、戦乱の中で引き裂かれることも古来多い。奥方もまだお若く、たいへん、お美しい方でした。故郷で新しい幸せを見つけるのも、難しくはないはず。あるべき未来を受け入れることもまた、天の道です」
南陽からついてきた部下たち、そして河北で新たに仕えた者たち。
今の文叔を支えているのは間違いなく彼らであって、遠く河南にいる陰麗華ではない。
陰麗華に執着しすぎれば、当たり前だが、部下の支持を失う。部下を失えば、文叔の明日はなかった。
いつの間にか準備されていた、花婿の赤い衣装。
――売り飛ばされた奴隷の、楮衣(赤い衣)のようだと、文叔は思った。
郭家の舎には赤いぼんぼりがいくつも吊るされ、赤い布で作られた花飾りが溢れる。
昔、兄の伯升の婚礼の日の、我が家の飾りよりも豪華なそれに、文叔は夢でも見ているのかと思った。
あの婚礼の時に、初めて陰麗華に出会った。
彼女と、こんな華燭の典を挙げることをずっと夢見ていたのに。
陰麗華との婚礼は急ごしらえで何の飾りもなかった。客もほとんどいなくて――。
壮麗な堂にいならぶ真定のお歴々を見て、文叔は眉を顰める。
この結婚は大々的に披露目なければ意味がない。真定王は秘蔵の姪を劉文叔に嫁がせる。それを河北に知らしめ、劉文叔こそが河北の覇者たるべきだと宣言する。
ふと、隣に座る女に目をやれば、赤い面布で隠された顔を少しだけ傾ける。金銀糸の刺繍がぼんぼりの火に煌めいた。
一たび之と斉しくなれば、終身改めず。
陰麗華との誓いが、赤い光の中に消えていく。にぎやかな宴が続く。
酔った真定王劉揚が、自ら筑を手にして曲を奏で始める。哀愁を帯びた素朴な旋律が流れ、一座の者たちがそれぞれに、婚礼の祝歌を口ずさむ。
桃の夭夭たる
灼灼たる其の華
之の子 于き帰がば
其の室家に宜ろしからん
偽りの婚礼は、夜が更けるまで続いた。




