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河はあまりに広く、あなたはあまりに遠い  作者: 無憂
伍、各おの天の一涯に在り
106/130

河北の覇者

 躍り出た若い将軍の顔を見て、文叔が叫ぶ。


「あ、(けい)で案内するとか言いながら、逃げやがった孺子(こぞう)!」


 そう言われて、男――上谷(じょうこく)太守の息子、耿伯昭(こうはくしょう)が必死に言い返す。


「違います! 俺は北に行くって言ってるのに、気づいたら誰もいなくて! 何でみんな、南に逃げてんですか!」

「案内役もいないのに、あのクッソ寒い中、北に向かえるもんか! しかも寝返って邯鄲(かんたん)につきやがって!」

「まさか! 違いますよ! 親父(オヤジ)を説得して州兵を率いて、劉将軍の加勢に来たんです!」

「加勢?……てことは、こっちの味方ってこと? 本当に?」


 疑い深そうに言われ、耿伯昭が顔を歪める。


「まったく……すっかり疑心暗鬼になっちゃって……」

「当然だ! 信都に着くまで本当に死ぬ目に遭ったんだからな! 所詮、河の北側の奴らはアテにならないって気分にもなるさ」

「せめて北に向かってくれれば……」

「お前の親父の任地は匈奴(きょうど)との混住地帯なんだぞ? 寒さに弱い河南の人間が、そんなクソ寒い山地に迷い込んでみろ、確実に凍死だ!」

 

 言い争いながら、王郎の軍を(げき)()ぎ払っていると、ヨタヨタと馬に乗っていた鄧仲華が、気づけば敵に囲まれそうになっていた。


「仲華! そっちはダメだ! 僕から離れるな!」

「わかってるけど、馬が勝手にぃ~!」


 そのいかにも危なっかしい手つきを見て、耿伯昭が舌打ちする。


「あんなお坊ちゃんを戦場に連れてくるから!」

「あいつももう、二十歳を過ぎているんだ、戦争に慣れてもらわないと困る!」


 文叔が戟を脇に抱え、手綱を繰って馬首を返そうとした時、遠くから黒一色の武装に、黒馬に乗った一人の将軍が、黒い斗篷(マント)を翻えして鄧仲華の方に駆けつけるのが見えた。匈奴の産と思しき黒い大きな馬をやすやすと操り、見る間に鄧仲華と彼を包囲しようとした敵との間合いを詰め、長柄の戟で敵の一騎を一振りで弾き落とす。次いで、ぐるんと柄を返してもう一騎。黒い斗篷がはためき、黒い兜の頂点に飾った、赤い炎のような羽飾りが踊る。味方ではあるようだが、見覚えのない将軍だ。


「……! 誰だ?」

「ああ、あれは――」


 耿伯昭が説明しようとする側から、文叔の周囲にもわらわらと敵が現れるので、それらを打ち払いつつ、散り散りに逃げてくる味方の兵士たちに対し、後方に向かうように指示を出す。 


「背後で陣形を立て直す。慌てるな! 朱仲先将軍の指示に従え!」


 結局、黒い戎装の将軍が一人で数人の敵を蹴散らし、鄧仲華の命を救ってくれたのを確認し、文叔がホッと息をつく。――仲華の安全が確保されたなら、文叔には先になすべきことがあった。文叔は耿伯昭の援護で敵を撃退しつつ背後に下がり、何とか散卒を集めて軍を立て直す。その頃には不利を悟った敵軍も引いていく。


 文叔軍の方は先陣の鄧仲華と朱叔元(しゅしゅくげん)が大敗したものの、中堅以下の戦い慣れた将軍たちがよく軍を支え、敗残の兵を集め、敵が奪い残した輜重(しちょう)も回収する。


 朱仲先と賈君文(かくんぶん)に部隊の指揮を任せ、文叔は目的地の広阿(こうあ)の城に着いて、ようやく、耿伯昭らとゆっくり話すことができた。






 広阿の県の官府を接収し、臨時の本陣を置く。

 武装のまま一番広い堂を片付け、南面する上席の(しょう)に文叔が腰を下ろす。その前の(タイル)敷きの床に耿伯昭が膝をつき、深く頭を下げた。文叔は軽く手を振って面を上げさせる。


「耿伯昭、遠いところをわざわざありがとう、というべきかな。(けい)ではぐれた分はこれで埋め合わせてやろう」 


 文叔が悪戯っぽく言えば、膝をついて畏まっていた耿伯昭がやんちゃに唇を突き出す。


「あれは俺だけが悪いわけじゃないと思いますけどね! 俺も気づいた時は肝が冷えましたよ。追いかけようにも、劉将軍がどこに向かっているかわからないし、しょうがないから、一旦、親父のところに戻ることにしたんです」


 文叔らがはぐれた後も、打ち合わせ通り北に向かっていた場合、なおさら慣れない厳寒の山道で、案内無しでは凍死まっしぐらである。どこかで遇えると信じて、耿伯昭は父のいる昌平(しょうへい)に向かったのだ。

 そんな言い訳を早口でまくしたてていると、背後から中年の男が呼びかける。


「坊ちゃん、そろそろ――」


 耿伯昭が慌てて振り向き、咎めた。


「子翼のオッサン、その呼び方よせって!」

「何言っているんですか、坊ちゃんは坊ちゃんでしょ」


 中年男は耿伯昭の横に来て、やはり同様に片膝をついて劉文叔に向かい、丁寧に頭を下げる。切れ長の瞳は鋭く、面長の頬はややこけている。立派な武装はかなりの地位の男と見えるが、戦場よりも、官衙(やくしょ)で木簡を削っているのが似合いそうな雰囲気だ。


「……坊ちゃん、まずは紹介していただかないと、耿府君(ふくん)の書簡を渡すこともできません」

「わあってる! だから、坊ちゃん言うな!」


 耿伯昭が中年男を睨みつけてから、文叔に向き合って言った。


「俺の連れてきたのは、親父の――上谷太守の管轄下にある州兵です。こちらが寇子翼(こうしよく)で、親父の功曹(こうそう)なんです」

寇恂(こうじゅん)と申します。府君の命により、大司馬閣下のもとに馳せ参じました。小吏としての経験が長く、(いくさ)よりも吏事が得意ですが、精一杯務めさせていただきます」


 誠実そうな、そして十分な押し出しのよさで頭を下げる彼に、文叔は好感を持った。

 郡の功曹とは、地方採用の属吏の中でも最高位。たいていは郡内の有力豪族の出身で、なにより有能な人物が抜擢される。――中国では伝統的に、在地の有力者との癒着(ゆちゃく)を防ぐため、地方長官の本籍地回避が徹底される。これはすでに漢代には始まっていて、地方長官は間違いなく余所者(よそもの)で、任地の事情に疎い。その地方長官を支えるのが、現地採用の郡功曹である。漢帝国は徹底した文書行政。官吏は煩雑な漢律の知識を持ち、さらに当地の事情に通じていなければ務まらない。郡の功曹は郡太守と在地勢力との橋渡し役でもある。

 上谷太守が息子だけでなく郡の功曹を派遣してくれた、というのは、それだけ本気で、そして上谷郡の地域ぐるみで、文叔軍に肩入れしようということなのだと、文叔は理解した。


「これは有難い。私たちはどうしても、当地の事情に疎い。地方の吏事に精通した寇君は、さながら現代の蕭何(しょうか)と言うべきか。本当に心強いよ」

「過分なお褒めに、身の置き所もございません。ですが私も、兵站(へいたん)には慣れておりますので、幾分かはお役に立てると存じます」


 文叔の言葉に、寇子翼が精悍な顔を綻ばせる。漢の高祖の三傑の一人、蕭何もまた、秦帝国では沛県出身の現地採用の属吏であった。兵站に長じ、法と行政を知り尽くした人材が支えなければ、戦争は継続できない。


 郡の功曹である寇子翼はいわゆる実務担当者で、文叔に対し、上谷太守からの書簡を手渡す。そこにはニセ者の成帝のご落胤ではなく、洛陽の劉聖公に帰順する、その上で上谷郡の兵を提供するので、従来通りの支配を認めてもらいたい旨が書かれていた。


「河北の人事については、私に一任されている。上谷太守の地位は保証しよう」


 文叔が頷けば、乱暴な足音を立てて、賈君文が堂内に入ってきた。


「だいたいの奴らは城内に収容しったすよ。でも、あの鄧のお坊ちゃんがまだ戻らねぇ」

「仲華が?」


 文叔がギョッとして身を起こす。


「君文は先行して……朱仲先が敗残の兵を集めてただろう?」

「ええ。朱叔元の負け犬野郎の軍は回収したっすよ。でも、鄧のお坊ちゃんは、さっきの黒い鎧の騎士と一緒にいて、まだ戻ってこないって。道中、日が暮れちまいますから、俺たちは先に進んだんですよ」

 

 眉間に皺を寄せた文叔に、耿伯昭が言う。


「だーから、あんな坊ちゃんを連れてくるから」

「坊ちゃんのくせに、人を坊ちゃん呼ばわりはやめなさい」


 寇子翼が軽く窘め、ちらりと賈君文を見てから言った。


「その、もう一人のお坊ちゃんは、さっき呉子顔将軍が助けていた、ちょっと顔の可愛い系の? んで、放置してきてしまったと」


 寇子翼には多分、そんなつもりはないのだが、その視線や表情から、賈君文は馬鹿にされたと思ったらしい。


「ああん? オッサン、なんか文句あんのかよ、おらぁ!」

「君文! 盛りのついた(イヌ)じゃあるまいし、いきなり突っかかるな!」

「おや、なんか気に障りましたかね、なかなか河向こうの方たちは血の気が余っているらしい」


 落ち着いた態度は取っていても、寇子翼もまた、売られた喧嘩を買うのはやぶさかではないタイプらしく、尖った顎をクイと持ち上げて半眼で賈君文を睨む。耿伯昭が慌ててその袖を引いた。


「やめろよ、子翼のオッサンも、大人げない。……まあ、俺も、鄧の孺子(ガキ)には大人げないこと言ったの、謝るから!」


 その様子を見て、文叔は内心、溜息をつく。


 ――河北と南陽と、派閥ができるのは非常に(まず)いのだが……。


 


 急拵えの広阿の陣はまだ混乱していた。

 そもそも、文叔軍は朱叔元と鄧仲華を先行させ、広阿を開城させておくつもりだったのを、途中の柏人で予想外の戦闘になってしまったのだ。その後、たまたま近くにいた耿伯昭らの軍と合流し、敗残の兵を集めながら広阿に辿りついた。文叔があることに思いついて尋ねる。


「そう言えば、鄧仲華を助けてくれた将軍は?」

「ああ、あの人ですよね、あれは――」


 言いかけた耿伯昭におっかぶせるように、寇子翼が言う。


「かなりの変人でして。戦闘狂というか、何と言うか。……ああ、彼もたしか南陽の出身でした」

「南陽の……」

「宛の人だと聞いています」


 宛の出身で河北の北部にいると聞いて、文叔は膝を打つ。


漁陽(りょうよう)太守の彭伯通(ほうはくつう)殿か! いや、待てよ? 別に戦闘狂だの、変わり者だの言う噂は聞いていないが――」


 文叔が顎に手を触れて首を傾げると、寇子翼が言った。


「その下で安楽(あんらく)県の令を務めていた呉子顔(ごしがん)将軍です」

「呉子顔……」


 文叔は宛出身ではないので、呉子顔の噂までは知らなかった。後で、朱仲先(しゅちゅうせん)任伯卿(じんはくけい)に聞いておこうと思いながら、さらに尋ねる。


「なぜこちらにいないのだ」

「彼は漁陽の長史(太守の副官)として、漁陽の州兵を率いてきましたから。漁陽では邯鄲の王郎に着こうというものが多く、呉子顔将軍が説得して、大司馬閣下に着くことに決めたそうです」

「……ふーん。仲華はその呉子顔将軍と一緒にいるってこと?」

「というかですね、おそらくは纏わりつかれているのでは――」

「はあ?」


 文叔が意味がわからずに首を傾げた時、堂の外にバタバタと兵士が走り込むんできた。


「申し上げます! 城の西側から、おそらくは邯鄲(かんたん)からの大軍が!」

「ええ? また?」


 さっきの部隊がまた、戻ってきたのだろうか? いい加減、しつこい――。そんな風に思いながら立ちあがる。鄧仲華の無事が確認できないうちは、安心できなかった。


「君文は本陣を固めておいてくれ。たぶん、たいしたことはないと思う。武器を!」

 

 文叔は賈君文を守護に残し、信都以来の任伯卿や李仲都らに本陣の差配を任せると、従兵に命じて愛用の(げき)を持ってこさせ、それを手に西門へと向かう。背後には耿伯昭と寇子翼がついてきた。臨時の本陣となっている県の官府の前にいた、銚次況(ちょうじきょう)祭弟孫(さいていそん)が手勢を素早くまとめ、護衛として付き従う。


「多分ですが、遅れてきた上谷と漁陽の軍だと思うのです。どうも、我々が邯鄲に味方するという噂が廻っておりまして――」


 官府から西門まで、馬を並べていると、後ろから耿伯昭が言い訳のように言う。なるほど、と文叔が眉を顰める。対立する両陣営、どちらが兵を多く集めるのか、情報戦の部分もある。邯鄲の側では北の兵も自分たちに着くと喧伝し、情勢が有利に動くのを狙ったのだ。人脈で劣る文叔は、情報戦は後手に回ってしまう。


「そう言えば、真定王家の説得はどうなったんですか?」


 耿伯昭に聞かれた時、西門周辺はガヤガヤと砂埃を立てて、荷駄を運んだり、傷病兵を乗せた荷車を押したりと、結構な混乱であった。


「ええ? なんだって?」


 よく聞こえなくて声を荒げると、耿伯昭が耳元で言う。


「王郎の野郎、皇帝の落胤を(かた)るどころか、真定王家に連なるお姫様を嫁にしようって、もっぱらの噂ですよ」

「ええ?」

「ほら、一応、劉氏を名乗っているから、真定王の翁主(おうしゅ)(諸侯王の姫君)とは結婚できないので、姪っ子をもらうと盛んに宣伝しています。真定の郭氏だか何だか」


 文叔は目を見開いた。


「ああ、その話。その話なら、何とか無しになるように真定王殿下を私が説得した。正体は卜者(うらないし)では、お姫様が気の毒だしな」

「へえ、そんなことが」


 耿伯昭が目を丸くする。


「ほら、私が最初に邯鄲(かんたん)を託していた鉅鹿(きょろく)耿伯山(こうはくざん)の母は真定王の妹なんだ。その別の妹の娘、つまり伯山の従妹らしいんだが――」

「ああ、そっちの筋からですか。でも、王郎は諦めてないって話ですよ。もう嫁入りの日取りも決めているって」

「まさか……」


 王郎と郭聖通の婚礼はなくなったはずだがと、文叔は眉根を寄せる。――文叔自身は郭聖通と結婚するつもりはなく、のらりくらりと(かわ)して誤魔化すつもりだったが、王郎と結婚されてしまうのは、困る。あまり気は進まないが、耿伯山を真定に派遣して、釘を刺しておくべきなのか。だが迂闊に動くとそのまま結婚させられてしまう。


 文叔は西門に辿りつくと、城壁の門の上の(たかどの)に登り、周囲を見渡す。


 遥か西に、太行山脈の峻嶮な嶺が連なっているが、それ以外の三方は見渡す限りの大平原だ。まだ、時には雪が降り、吹き抜ける風は冷たい。東には、五岳の一つ、聖なる泰山(たいざん)が独峰として聳えるはずだが、それは見えない。この平原の遥か東方には、大地が途切れ、茫漠たる大海が広がっていると言うが――。


 西から近づいてくる軍の、たなびく旌旗(せいき)を確認し、文叔は尋ねる。


「あの旗は、上谷郡と漁陽郡のものだな」

「ええ、少し遅れましたが、親父が派遣した上谷長史が率いる軍と、漁陽太守の彭公が派遣した軍。間違いありません」


 耿伯昭の答えに、文叔はホッと安堵の溜息を漏らす。

 ――北まで行かなくとも、二郡の兵を獲得できたのは有難い。


 文叔は南に目を向けて考える。

 まずは鉅鹿を落とし、そこを拠点に邯鄲を囲む。


 偽のご落胤の王郎を叩き潰さなければ、河北の平定など夢のまた夢だ。

 文叔は近づいてくる二郡の兵の先頭に立つ武装も凛々しい将軍に向かい、声を張り上げた。


(きみ)たちはどこの兵か?!」


 広阿の城門の上から響く朗々たる声に、先頭の将軍が手を挙げ、馬の手綱を操って前に出る。立派な武装に見事な顎髭を蓄えているが、その髭は半ばほど白くなっていた。だが老将軍は矍鑠(かくしゃく)とした態度で文叔に対峙した。


「上谷、漁陽の兵でござる」


 腹の底に響くような迫力ある声量。文叔の横に立っていた耿伯昭が肩を竦める。


「爺さん、元気だよなあ。昌平にいろっつったのに」

「まあ、漁陽の長史があんなんですからね。対抗意識を燃やしちゃってんですよ」

「あんなん……」


 文叔は二人の会話に一瞬、首を傾げてから、すぐに老将軍に向かい、言った。


「邯鄲の将軍たちは盛んに、上谷、漁陽の二郡に命令を下して兵を徴発していると嘯いていたが、卿らは邯鄲に味方するために来たのかな? 卿らは誰のために馳せ参じた?」


 老将軍は文叔の意図に気づいたのだろう。すぐに馬を降り、城門の前で片膝をつく。背後の騎馬兵も皆、同様にその場で馬を降り、片膝をついた。


「もちろん、邯鄲のニセモノのためではござらん。真の劉氏、真の天下の支配者、洛陽におわします、劉氏の皇帝陛下の、その節を奉じておられる劉将軍、その人のためにございます。我ら二郡の忠誠、どうかお受け取りを――」

「アハハハハ」


 文叔が芝居がかった笑い声を上げ、城門の周囲に集まっている、味方の兵たちに見せつけるように言った。


「なんだ、邯鄲の奴らはついてもいない味方を待っていたのか。それは傑作だな。……いや、確かに二郡の精兵、この劉文叔、謹んで受け取ろう。我が功名は君たち、二郡と河北の士大夫とともに成し遂げようではないか」

「有難きお言葉」


 ――城壁の上と下で繰り広げられた、芝居がかったやり取り。上谷、漁陽の二郡がどちらに付いたのか。それを、広阿の者たちに見せつけなければならない。邯鄲の者たちが流す噂話を打ち消すほど、劇的に、わざとらしく。

 

 河北の正統な支配者は誰か。

 いずれ、河北の平原を漢の赤い旌旗で染め上げる、その頂点に立つのは誰なのか――。


 


 

 

 鄧仲華が文叔の陣に戻ってきたのは、上谷・漁陽二郡の兵を文叔が受け取ってからのこと。老将軍は上谷長史を務める景孫卿(けいそんけい)(景丹)で、漁陽郡の兵を率いてきたのが、漁陽長史の呉子顔(ごしがん)(呉漢)であった。鄧仲華を助けた黒衣の将軍こそ、この呉子顔将軍であるという。南陽は(えん)の出身で、邯鄲(かんたん)の劉子輿につくという漁陽郡の大勢を抑え、太守の彭伯通(彭寵)を説得し、文叔に与するために、兵を率いてここまでやってきたのだと。


「仲華を助けてくれたお礼を言わないとな」


 文叔が言うが、仲華が微妙な表情で首を振る。


「いや……漁漁郡の兵は広阿の城に入り切れないから、城壁の外で野営するって」

「でも、挨拶くらい」


 同じ南陽の出身者だ。もしかしたら、文叔の陣中に知り合いがいるかもしれない。だが鄧仲華の秀麗な眉は顰められたままだ。


「うーん……とりあえず、お礼は言っておいたし、今はいいんじゃないかな……」


 煮え切らない鄧仲華の態度に不審を覚えながら、しかし、文叔にはやることが山ほどあったので、その問題はそこまでにした。必要があるならば、鄧仲華が紹介するだろうと思ったのだ。

 そこへ耿伯山(こうはくざん)耿伯昭(こうはくしょう)が現れ、文叔の前に膝をつく。


「畏まらなくていい。……ところで、君たちは親戚じゃないのか」


 文叔の問いに、二人の耿氏は顔を見合わせる。


「もとは同じ、鉅鹿の耿氏です。ですが、俺の先祖は武帝陛下の下で二千石(にせんせき)に登り、茂陵に(うつ)りましたので」

「本籍が変われば、一応は別族でございますね。ただ元が同じですから、婚姻などは避けますが」


 耿伯昭と耿伯山がこもごもに言う。

 

「婚姻で思い出しましたが、邯鄲は妙なことを言っているようですね。我が、従妹について」


 耿伯山がややつり上がった目を眇めるのを見て、文叔はやはりその話が出たかと、内心溜息をつく。


「あちらは本気で、聖通との婚姻を望んでおりますし、伯父の真定王は優柔不断なところがあります。このままでは押し切られるでしょう」


 耿伯山の言葉に、文叔は凛々しい眉を顰める。


「だが、その婚姻はやめると請け合ってくれた」

明公(あなた)がとっとと結婚してしまえば、話は早いのに断るから」

「だがっ……!」


 その話を横で聞いていた耿伯昭が身を乗り出す。


「それって王郎の野郎が言い張ってる、真定王の姪との婚姻の話ですか?」


 若い耿伯昭に対し、耿伯山が頷く。


「そうだ。劉将軍が我が従妹である真定王の姪を娶ってくだされば、河北と将軍との縁も深まり、邯鄲の野望も潰えて一石二鳥だと言うのに、なかなか首を縦に振ってくださらない」

「なぜ! 今すぐにでも結婚すべきです!」

「お坊ちゃんは黙っていろよ、事情も知らないくせに!」


 横から鄧仲華が口を出し、若い二人が睨み合いになる。文叔は手を挙げて二人を宥め、耿伯山に言った。


「王郎との婚礼はなんとか止めたい。貴卿(きみ)は一度、真定に戻って――」

「明公も共に戻るべきです。俺一人ではどうにもなりません」

「だがな――」


 ここで耿伯山と真定に戻り、郭聖通の婚姻に口を出せば、彼女を娶らざるを得なくなってしまう。耿伯山が文叔をはっきりと見据え、言った。


「劉将軍は、我ら、河北の衆の忠誠を軽んずるおつもりか。我々、鉅鹿の耿氏は家を焼いて明公(あなた)に従った。信都の李仲都も、邳偉君(ひいくん)も、家族の犠牲を厭わず、明公に忠誠を誓っている。その明公(あなた)が、妻への未練を口にされる。そんなことが許されるとでも?!」


 文叔が息を呑み、唇を噛む。

 耿伯山がなおも、文叔に迫った。


「覚悟をお決めになさいませ。我らか、妻か。――明公(あなた)はすでに南陽の一士大夫ではなく、河北の覇者となるべき身です。弱気を見せれば、上谷・漁陽の兵もまた、すぐにあちらに寝返るでしょう。いい加減に決断すべきです」


 文叔は両手を握り締め、目を閉じた。





耿伯昭:耿弇(こうえん)

耿侠游:耿況……上谷太守。耿伯昭の父親。

景孫卿:景丹……上谷長史。

寇子翼:寇恂(こうじゅん)……上谷郡功曹。


彭伯通:彭寵……漁陽太守。

呉子顔:呉漢……漁陽長史。


邳偉君:邳彤(ひとう)……和成太守。

任伯卿:任光(じんこう)……信都太守。

李仲都:李忠……信都都尉。


耿伯山:耿純……真定王の甥。郭聖通の従兄。




 

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