偽りの約束
耿伯山が率いてきた宗族賓客数千人、明らかに異様だった。家財道具を荷車に満載し、背には大荷物を背負っている。老母を背中に背負ったり、病人を戸板に乗せている者もいる。
――何か、故郷に災害でもあって、命からがら逃げてきたのか?
邯鄲を維持できなかったことを詫び、両膝をついて畏まっている耿伯山を、文叔は自ら扶け起こし、尋ねる。
「……何かあったのか?」
「いえ、我々、宋子の耿氏一族は、劉文叔将軍、および洛陽の皇帝陛下に終生の忠誠を誓い、後顧の憂いを無くすため、家屋敷に火を放ってまいりました」
「は?」
文叔だけでなく、横にいた鄧仲華も朱仲先も和成太守の邳偉君も、信都太守の任伯卿も、昌城で文叔に帰順し、驍騎将軍に任命された劉伯先も、ポカンとした顔で固まっている。
……今、家屋敷に火を放ったって聞こえたけど……聞き間違い?
「今、何と……」
以前から、耿伯山とは交流のある劉伯先が聞き返すと、耿伯山は爽やかな笑顔でもう一度言い切った。
「ええ、一族すべての忠誠を示すために、家屋敷に火を放ってまいりました。我々、耿氏一族にはもう、帰る場所はございません。すべては劉文叔将軍に捧げる覚悟でございます」
「な、な、な……何言ってんの……ちょ、ちょっと!」
文叔だけでなく、その場の全員がドン引きした。忠誠を示すために、家屋敷に火を放つとか!
「ぼ、僕はそんな忠誠は求めてないよ!」
文叔は慌てて首を振る。思わず言葉が元に戻っていたが、構ってなどいられない。だが耿伯山は涼しい顔で言ってのけた。
「劉将軍、河北の状況は不安定極まりない。邯鄲の劉子輿――いえ、王郎というケチな卜者とのことですが、あちらから誘いを受ければ、お恥ずかしい話ですが、あっさり寝返る者も出てまいるでしょう。我が家と財産を恋しく思う心、これに奴らは付け込むのです。ですから、そんなものは潔く焼き払い、ただ我々一族の未来を劉将軍に託すのみ。どうか、我らの忠誠をお受け取りください」
「いや、だからって――」
文叔は耿伯山の背後に立つ、耿氏一族の顔を見回した。――なんてことするんだよ!
家も邸も、大切な家族の思い出だってあるのに。病人だってこの寒空に無理に連れ出して!
だが文叔は、忠誠を示す、という耿伯山の言葉の裏の、明確な脅迫を感じ取っていた。
――ここまでしたんだから、逃げるなよ。
所詮、文叔もその側近も、河北の人間ではない。どこかで、どうしようもなくなったら洛陽に逃げ帰ろうと思っている。自らの家を焼くことで、文叔の逃げ道を塞いだのだ。
――退路を断たれたのは、僕の方か。
文叔は大きく息を吸い込み、吐き出すと、耿伯山に言った。
「わかった、君たちの忠誠、この劉文叔、しっかりと受け取った」
「有難き幸せ」
頭を下げる耿伯山と、背後の耿氏一族数千人。――文叔はその肩に、天が落ちてきたような重圧を感じた。
鉅鹿の大姓である耿伯山とその一族、昌城の劉伯先とその一族数千人を配下に納め、信都郡、和成郡の太守の軍を合わせて、文叔の兵は数万に膨れ上がった。
ただ邯鄲を拠点とする劉子輿の勢力は、いまだに文叔を上回っている。文叔の軍は洛陽の皇帝、劉聖公の麾下にある。河北の豪族の中には、南陽の田舎の劉氏の風下に付くのを、潔しとしない者も多い。
「河北の情勢を決定する関鍵は、北方です」
耿伯山が広げた帛の地図を指さしながら言う。
「真定、中山、広陽……ここから北方の薊にかけて、諸侯王国が連なっております。我ら河北の者は、諸侯王家に連なる劉氏への忠誠が篤い。この北方の諸侯家の劉氏と結べば、南陽の劉氏を侮る者はいなくなりましょう」
文叔は微かに眉を顰める。――以前、劉聖公からの与えられた節を手に、北方の諸侯国を回った印象は、最悪だった。所詮、南陽のド田舎の列侯家、そのさらに分家と馬鹿にする空気を、ことあるごとに感じた。
――だからと言ってだ。どう考えても偽物の、成帝のご落胤にあっさり転ぶとか、ふざけすぎだ。
文叔にとって、傍系の傍系であっても、漢の皇帝に連なる劉氏の一員というのは、なけなしのプライドだ。それを踏みにじられたような気分であった。
耿伯山がうりざね顔を上げ、まっすぐに文叔を見た。
「まずは我が伯父、真定王劉揚を味方に引き入れること、これが肝要と思います。伯父は真定を拠点に、十万の兵を動かすことができる。これを麾下に納めれば、河北の情勢は一気に、こちらに転ぶでしょう」
「甥の貴卿が説得してくれれば――」
耿伯山が首を振る。
「某は先に真定に立ち寄り、伯父上を説得しましたが、思わしくありません。劉子輿の出自も怪しいとは言ったのですが、現に、邯鄲を中心に、河北一帯は奴の支配に降っております」
「ならば、何とする」
文叔が問いかければ、耿伯山がじっと文叔を見る。
――本当に、河北の王族は無駄にプライドが高い。
南陽は列侯国ばかりで諸侯王国はない。劉氏しか許されない諸侯王位は、要するにミニ皇帝で、列侯とは別格なのだ。南陽の劉氏の下に付くなど、彼らの泰山よりも高いプライドが許さない。それゆえの、成帝のご落胤の僭称であった。
「伯父の擁する真定の十万には、邯鄲の方でも目を付けているようで、あちらから縁談の申し入れがあったようです」
「縁談――」
文叔が首を傾げる。
「邯鄲の偽の劉子輿は、偽モノだが劉氏を名乗っている。真定王の娘とは縁組できまい」
同姓不婚は絶対に覆せない。
「真定王の娘は無理ですので、異姓の姪との婚姻を申し出てまいりました」
「つまり、貴卿の姉妹か」
耿伯山が首を振る。
「生憎と言うか、幸いと申すか、耿家には相応しい娘はおりません。真定の藁に郭氏という大姓があり、そちらに母の妹が嫁ぎ、娘がおります」
「ではその郭氏と、劉子輿――」
「王郎と申す、卜者とのことですが。この婚姻が成立してしまうと、真定と邯鄲の同盟は盤石になり申す」
文叔が左右に控える朱仲先と、鄧仲華を見る。
「その婚姻を邪魔する方法はないのか」
朱仲先の問いに、耿伯山が言った。
「劉将軍は、下曲陽の、郭氏の別邸にご滞在になられたそうですね」
「下曲陽?」
文叔は首を傾げる。
「呼沱河の畔の、松林の中の」
そこまで言われ、文叔が目を見開く。河の畔の松林の中の、あの女――。
「ああ、あそこ! 吹雪の中、凍った河を渡ったが、最後の最後に氷が割れて私と仲華が水に落ちてしまった。仲華は危険な状態だったので、助けを求めて一晩、宿を貸してもらった。あの家が郭家なのか」
横で話を聞いていた和成太守の邳偉君が、「ああ、あの邸」と言う。
「私はその頃、信都あたりで将軍の行方を追っておりました。まさか、そんな近くにおられたとは」
「うーん、あの時は河を渡る船がなくて……どんどん西に動いてしまって、たまたま河が凍っていたから。あの邸の人には世話になった。いずれ礼をしなければと思っていたが――」
「あの邸は郭家の別邸として使用され、普段は俺の従妹が住んでいます。訳があって少々婚期を逃してしまい、真定の本邸には居づらいとか申しましてね」
耿伯山の言葉に、文叔が目を丸くする。面長で切れ長の、やや狐っぽい耿伯山の顔と、あの邸の女主人の顔が重なる。
「ああ、そうか。誰かに似ていると思ったけれど、伯山だったのか! そうか、機会があれば、世話になった礼を言っておいてくれ」
「ええ、もちろん。――それで、ご相談なのですが」
「何?」
文叔は松林の邸で会った、うりざね顔の女を思い出す。少しばかり薹が立っていたが、色の白い、そこそこ美しい女だった。……そうかワケ有りで嫁ぎ遅れだったから、突然、結婚してくれなどと、妙なことを言い出したのだなと納得する。
「真定王が王郎に嫁がせようと考えているのは、あの郭氏の娘なのです」
耿伯山が言い、文叔が周囲を見回す。
「それは――」
「あれは二十五になり申す。許嫁に三人死なれ、ここらで彼女を娶ろうと言う者は現れなかった」
「それで、劉子輿――王郎に?」
耿伯山が頷く。
「劉子輿が真に成帝陛下のご落胤ならば、確実に三十は越えております。多少、歳はいっておりますが、文句はあるまいと」
「なるほど」
「ですが、従妹の方は、今さら偽のご落胤になど嫁ぎたくはないと、某に相談されまして」
「それももっともではあるな」
文叔は頷く。嫁ぎ遅れとはいえ、真定の大姓の娘で、真定王の姪。卜者の王郎の妻にさせられるのは、それこそプライドが許すまい。
「劉将軍のようなお方ならば、嫁いでもよいと」
耿伯山の言葉に、文叔の背後にいた朱仲先と鄧仲華が息を飲み、文叔自身は思わず声に出して笑った。
「アハハハハ! それはまた! ずいぶんと気に入られたものだな。でも、私は彼女にも告げたはずだ。無理だって。私はすでに妻帯していて、もうすぐ子供も生まれるって」
「ならば、十万の兵も王郎に渡しますか?」
文叔が笑うのをやめ、耿伯山をじっと見つめる。
「何が言いたい」
「伯父は、河北の支配者に姪を嫁がせ、その者と結ぶと明言しました。このままでは、王郎が河北を手に入れてしまいます」
「私にどうしろと?」
「郭聖通も、劉将軍ならば嫁いでもよいと言っているのです。聖通との婚姻を承諾するべきです。二人が意気投合して結婚の約束をしていると言えば、伯父も王郎との結婚を強要できません」
「無茶を言うな! 私はもう妻がいるって言ってるだろ!」
激昂した文叔を宥めるように、劉伯先が横から口を挟む。
「……失礼ながら、奥方は河北には伴っておられない。この戦乱の世、夫婦別れもあり得ないわけでは――」
「あり得ない!」
文叔が立ちあがり、耿伯山ら河北の者たちを睨みつける。
「私は妻を愛している。そんな理由で他の女を娶る算段を勝手にされるなんて、不愉快極まりない!」
「文叔、落ち着け!」
朱仲先が横から宥めるが、文叔はそれを振り払った。
「……失礼する。その郭氏の話は、二度としないでくれ」
文叔は斗篷を翻して踵を返し、その場を後にした。遅れて、鄧仲華が後を追っていく。
それを見送って、朱仲先が肩を竦めた。
「あちゃー、また病気が出た」
「病気?」
耿伯山が問えば、朱仲先が言う。
「伯山殿は太学にいた時、噂を聞かなかったのか? 〈陰麗華病〉の」
「陰麗華病?」
耿伯山も、そして劉伯先も目を見開く。
「妻を娶らば陰麗華……とにかく、女房への執着が普通じゃなくて、その、ちょっと異常なんだ。今回も、河南に残してきたことを、心底後悔して、常に悶々としているから……」
朱仲先の説明に、耿伯山も劉伯先もなるほど、という表情をした。ただ、邳偉君だけが、素っ頓狂なことを言った。
「あの、若い男が男色相手だとばかり思っていたよ。違うのかね」
「仲華の前では口にするなよ、怒り狂うに決まっているからな」
朱仲先が慌てて窘め、男たちは文叔と鄧仲華の去った方向を眺めていた。
「まさか、陰麗華を捨てて、そんな年増と結婚するつもりじゃないだろうね?」
宿舎の房に二人だけになってから、鄧仲華が言った。
「あり得ない。僕が陰麗華を捨てるなんて。他の女? 死んだ方がマシだ」
「……その、真定王の姪やらと会ったなんて、僕は聞いていないぞ?」
鄧仲華が言えば、文叔は肩を竦める。
「だって、あの夜は仲華は熱を出して意識もなくて……あの邸に世話にならなかったら、たぶん、死んでいたぞ? 翌朝、主人に礼を言いに行ったら、まだ若い……と言っても二十歳は確実に過ぎた女だった」
「……美人なの?」
文叔が腕を組み、眉を寄せる。
「いや、そういう問題じゃなくて、なんて言うかちょっと、頭がオカシイっていうか、ヤバイ感じだったんで、僕はすぐに逃げたんだけど」
文叔の言葉に、鄧仲華が思わず突っこむ。
「ヤバイって? 許嫁に三人も死なれてるって言ってたね。頭がイカレてるってこと?」
文叔が眉を顰めたまま、小声で言う。
「いやその……助けてもらったのは確かだから、何かできるご恩返しがあれば、って言ったらさ……結婚してくれって言われて、うわ、これヤベって思って、すぐに退散した」
「なにそれ怖い……」
鄧仲華は絶句する。許嫁三人に死なれた年増女にそんなことを言われたら、鄧仲華なら恐怖のあまり気絶したかもしれない。……もともと、母親のキツイ干渉の下で育った鄧仲華は、年増女が苦手である。それから恐る恐る言う。
「つまり――向こうは文叔になら嫁ぐ気マンマンってこと? 文叔の顔が目当てなわけ?」
「いや、いくらなんでもそれはないんじゃないか? 王郎は嫌だってだけの話で」
文叔が首を傾げる。
「とにかく、僕は陰麗華と離縁もしないし、あの女と結婚するつもりはないから……」
「それで収まればいいけどな」
鄧仲華の不吉な言葉に、文叔が鎧の下に着た、絮衣を思った。
真定を前に、藁という県のとある大邸宅に導かれた。
「真定の大姓、郭氏の邸です」
耿伯山に言われ、文叔がハッとする。
「伯山、おぬしは――」
「別に他意はありません。日が暮れかかっているから、宿を頼みました。これだけの人数を泊められる邸となると、そうそうはありませんし」
ちなみに、耿氏一族は郭氏と縁続きの者も多く、三々五々、知り合いの家に逗留したり、郭氏の邸内に泊まるらしい。
豪華な客室に案内され、だが文叔は不安げに周囲を見回した。親族の一人として接待役に回っている耿伯山が、文叔の部屋に顔を出す。
「何か、不足はありませんか?」
「いや、十分だ」
すでに武装を解き、身軽な服装になって寛ぎながら文叔が言えば、耿伯山が言う。
「郭氏の当主は先年他界し、未亡人である俺の叔母が邸を差配しています。跡継ぎはまだ十五歳で若いので」
「ご挨拶をした方がいいのか?……下曲陽で命を助けてもらった礼を兼ねて」
文叔がじっと、耿伯山を見た。
「ついでに、私は妻を離縁するつもりも、郭氏と結婚するつもりもないと、はっきり告げるべきかな?」
言い切った文叔に、耿伯山は肩を竦めてみせた。
「本気でご内室を愛していらっしゃるのですね。でもその割に、あなたの結婚は、公にはなっていませんね」
「……兄貴の死んだ直後だったからね。喪中に無理に結婚したから、外聞がよくなかった」
「そういうことですか。ですが――」
耿伯山は下婢が運んできた、温めた醪を文叔の前の杯に注ぎながら言う。
「聖通――俺の従妹と結婚すれば、労せずして十万の兵が手に入る。そうでなければ、その十万はまるまる、邯鄲の王郎のものになる。それでも、結婚を拒否なさいますか?」
「私の人生で一番大切なものは陰麗華だから」
「おやおや、士大夫にあるまじき執着だ」
耿伯山の言葉を、文叔の隣にいた鄧仲華が鋭く非難した。
「そちらこそ! 落ち度のない妻を離縁させ、無理に他の女と結婚させる方が、士大夫にあるまじき行いでしょう!」
耿伯山は切れ長の瞳を一瞬、見開き、だがすぐに年長者の余裕で微笑んで見せた。
「何か、問題でも?」
「貴卿は! 太学で尚書学を修めた孔子の徒なのでしょう?! 夫婦は人の道の根源だと、学ばなかったのですか!」
鄧仲華の言葉に、耿伯山はつい、あははははと軽やかに笑った。
「何がおかしいのです! 僕は孔子の徒として、正しい道を――」
「だが十万の兵を労せずして手に入れれば、多くの人命が救われる。ここで劉将軍が妻一人に纏綿として王郎に十万を奪われれば、多くの血が流れる。それは人の道に反しないのかね?」
「それは――!」
耿伯山はまっすぐに文叔を見つめる。
「劉将軍、あなたはもう、南陽のちっぽけな士大夫ではない。河北で覇を競う身なのです。妻への愛などちっぽけなものに囚われて、大義を見失うおつもりか?」
「私にとって妻への愛はちっぽけなものなんかじゃない!」
文叔はフンッと鼻息荒く耿伯山を睨みつけると、目の前の耳杯に注がれた醪を一気に飲み干す。耿伯山が鄧仲華を面白そうに見た。
「鄧将軍はずいぶん、劉将軍の奥方に肩入れするんだね」
「……陰麗華は、僕の親戚で、幼馴染だ。陰家と鄧家は何代も婚姻を繰り返して、ほとんど一つの家みたいなものだ。それに陰家は南陽でも一番の富豪で、真定王の姪だからって、彼女を押しのけて女房に収まろうなんて、あまりに横暴だろう。僕はそんな女認めないよ」
鄧仲華が端麗な美貌を歪ませて耿伯山を詰れば、耿伯山もなるほどと頷いた。
「そういう訳か。俺はてっきり、君は劉将軍の男色相手で、聖通に嫉妬しているのかと――」
「なっ! 誰が男色だよ、気色の悪い!」
「いやいや、失礼。君と朱仲先将軍だけは、劉将軍の寝室にも出入りできると聞いたからね」
耿伯山の皮肉っぽい表情に、文叔が慌てて言い訳する。
「従卒もまともにいないし、ずっと着の身着のまま強行軍だったからね。仲華は体調を崩していて、私と仲先で、交代で看病をしていただけだよ」
「そうだよ! 文叔が男色とかありえない! 〈陰麗華病〉のクセに女ったらしの最低野郎なのに!」
「仲華!」
文叔が鄧仲華を宥めると、耿伯山がたまりかねてあはははと笑う。
「いや、失礼。……突然、妻を離縁して他の女と結婚しろと言われ、あっさり受け入れるような男であれば、俺もこんなに肩入れはしませんよ。明公の反応は当たり前とは思います、劉将軍。だがそれと、最後の決断は別の話だ」
文叔と鄧仲華がハッとして耿伯山を見つめる。
「十万は大きい。真定王その人ではなく、真定王の姻戚となる、その影響が問題なのです。よくよく、お考えください」
文叔は無言で、耿伯山の顔を見つめた。
郭氏の邸で、文叔は先の主人の未亡人である郭主、そして跡継ぎの、まだ十五歳の郭長卿に挨拶し、宿と食事を提供してもらった礼を述べる。郭主は南陽あたりではついぞ、見たことのないような高髷を結い、化粧も濃く、豪華な装身具をここぞとばかりに飾っている。河北の諸侯王の娘というからには、翁主と呼ばれる姫君の出身だ。生まれ育ちも感覚も、南陽の田舎育ちの文叔とは違っていて、別の生き物のようだ。――松林の邸で会った女の母親だと言うが、この母親よりは娘の方がマシだな、と思い、強い香の匂いから逃げ出すように辞去した。
割り当てられた客室に戻り、鄧仲華も朱仲先も追い払って一人になる。
――男色の疑いに傷ついたらしい鄧仲華も、すでに自室に閉じこもっている。
と、ほとほとと戸を叩く音がし、誰何すれば扉の外で女が答えた。
「――お嬢様が、お客人にお話があると」
この邸で「お嬢様」と言えば、郭主の娘、郭聖通――下曲陽の松林の邸の女主人、例の真定王の姪に違いなかった。
文叔は一瞬、眉を顰めたが、そっと扉を開ける。灯篭を提げた下婢が頭を下げ、その背後に斗篷を羽織ったすらりとした女が立っていた。
「……こんな時間、女性が男性の部屋を訪ねるなど……」
「申し訳ございません。劉将軍……伯山にいさまから、事情を聴きました。わたくしの不用意な発言でご迷惑をおかけしたと聞き、どうしても一言お詫びをと……」
こんな夜分に女が訪ねてくる方が迷惑だと思うが、文叔は対応に苦慮し、堂の中には入れた。――寒い中、廂に立たれている方が目立つと思ったのだ。
堂の中に足を踏み入れると、女は頭からかぶっていた斗篷を下ろし、黒髪が剥き出しになる。髷は結わず、うなじのところで笄でひとまとめにしていた。
下婢が壁際に下がって灯籠を掲げる薄暗がりの中、文叔は方爐を運んでくる。
「……寒いでしょう。私ももう、休むつもりでした。お詫びはお気持ちだけで結構なのでただ――」
「ただ?」
女の白い顔が、薄暗がりに浮かび上がる。
「私はあなたの伯父上と同盟を結びたいとは考えている。結婚を断ることで、伯父上の気持ちを損ねるようなことは……」
文叔の言葉に、女は困ったように首を傾げる。
「伯父様のお考えまではわたくしには。ただこのままでは、邯鄲に嫁がされることになるかと存じます」
「……あなたには感謝はしているのです。ただ、私は南陽に身籠った妻を残しているので、結婚は――」
「見せかけだけでも、結婚に同意していただくわけにはまいりませんか」
「見せかけ?」
文叔が女の言葉に目を見開く。女が頷いた。
「劉将軍はこれから、真定の伯父様の許に向かわれる。そこで、わたくしのとの結婚の話が出るでしょう。間違いなく、伯山にいさまが口にされるでしょうから。そこで、わたくしとの間にはもう、約束ができていると、伯父様に言っていただければ、伯父様はわたくしを邯鄲に嫁がせるのを諦めるかもしれません。何しろ、劉将軍はわたくしの邸に一晩、お泊りになられているから」
「それは――」
文叔が息を飲む。
「私たちには何もない。そんなことをすればあなたの名誉が――」
「わたくしの名誉など。三人もの許嫁に死なれ、訳アリのわたくしを娶ろうという者は、王郎のような野心家くらい。わたくしはそんな男に利用されるくらいなら、生涯、独り身で通す方がマシですもの。ですから……」
まっすぐ見上げる女の視線に、文叔は気圧されるものを感じる。
「奥様がいらっしゃる明公に、こんなことをお願いするのは、非常識だとは、重々、承知しております。でもこのままでは、わたくしは成帝のご落胤を騙った、王郎なる詐欺師の元に嫁がされ、真定の兵も王郎のものとなり、河北もまた、あの男の手に落ちてしまう」
「だがっ……!」
女がするりと一歩前に出て、文叔の間近に立つ。ふわりと沈香の香りがした。
「わたくしはそんな、偽りの天命の片棒を担ぐのは嫌なのです。――どうか河北の、ひいてはこの天下のために、わたくしとの結婚を受け入れるフリだけでも、していただけませんか」
文叔はぐっと両手を握り締め、頭の中では目まぐるしく考える。
王郎とこの女の婚姻が成立すれば、真定の兵十万は王郎のものになり、河北の覇権も完全に奪われ、取り戻すことは困難になるだろう。
結婚するフリで、その事態が避けられるなら――。
でも、本当にそれで――?
文叔は、搾り出すように言った。
「私は心の底から、南陽に残した妻を愛している。たとえフリでも、彼女を裏切るようなことはしたくないんだ。だから本当に――」
「ええ、わかっていますとも、劉将軍」
薄暗がりの中、女の白い顔が、妖艶に微笑んだ。
耿伯山:耿純
鄧仲華:鄧禹
朱仲先:朱祜
邳偉君:邳彤
任伯卿:任光
劉伯先:劉植
郭長卿:郭況(字不詳につき、作者がつけました)




