天命
劉文叔が下曲陽の郭氏の別邸に立ち寄っていた。
その事実に、耿伯山が愕然とする。
「泊めたのか、見ず知らずの男を!」
それを郭聖通の母、伯山の叔母である郭主が聞いたら、失神するに違いない。
「だって、天神の夢の通りでしたもの。あの吹雪の夜に、命からがらここまで辿り着かれた方を、追い払うなんてできません。それに、お連れの方がずいぶん熱をだしていらっしゃったそうで」
「連れが?」
「ええ。……見た者が言いますには、色が白く、まだ若い方だったと。一見、女性かと見間違えるほどの美少年だったとか。――そういう趣味の男性もいるからと、わたくし敢えて追及はせず……」
「鄧仲華か!」
耿伯山がアッと思い当たる。同じ時期に長安の太学にいて、鄧仲華の噂はよく聞いたものだ。十三歳で太学の入学資格を得た神童だと。邯鄲でもちろん挨拶したが、確かに、二十歳を過ぎているはずなのに、いまだに中性的なか弱い雰囲気だった。
「鄧仲華は文叔殿とは同郷だったと聞き及んでいる。別にただの友人だろう」
「そうでしたの。とにかく、お連れの体調が大変悪くて……老莱に命じて薬を煎じさせましたから」
「それで……劉文叔将軍に会ったのだな?」
耿伯山の問いに、郭聖通が頷く。ちょうど、侍女が白湯と、甘豆羹を運んできたので、郭聖通は微笑んで礼を言う。
「ありがとう。……にいさま、どうぞ召し上がって。疲れた時には甘いものがよいと聞いておりますわ」
「それはいいがともかく……将軍と何を話した?」
郭聖通は白い手で漆の椀を取り上げ、やはり漆塗りの小さな匙で小豆を掬い、首を傾げる。
「泊めてくれて感謝のしようもない、とか。ご恩返しにできることがあれば、と仰ったので、わたくし、なら結婚してください、と言ったのですけれど――」
ブフォオ!と、耿伯山が小豆を噴き出した。
「なんてことを言うんだ、聖通!」
「だって。……あんなに都合よくこちらにいらっしゃったから、もちろん、この方がわたくしの運命の相手だと疑いもせず……」
郭聖通がしゅんと項垂れる。
「もう、妻帯しているからそれは無理だとおっしゃって……」
その話に、耿伯山がえっと目を見開いた。そんな話は聞いていなかった。
「そ、そうなのか?」
「伯山にいさまもご存知なかったのですか?」
「あ、ああ……聞いていない」
耿伯山と劉文叔は一歳違いだし、耿伯山も三年前に結婚したから、妻がいるのは当然と言えば、当然である。だが、そんな話は一切出なかった。
実のところ、文叔は洛陽に囚われてしまった陰麗華のことを思い出せば、それだけで気が狂いそうになってしまうので、鄧仲華も朱仲先も、意識的に陰麗華のことを口に出さずにいたのだ。裏側の事情を知らず、また太学で極めて真面目な優等性として過ごした耿伯山は、長安時代の劉文叔とはほとんど接点がなく、〈陰麗華病〉の噂も聞いていなかった。
――もしかして、女房とは不仲なのか?
耿伯山は首を傾げる。気を取り直し、従妹の話を促した。
「それで……劉文叔将軍は、なんと?」
「ええ、それで……そう、故郷の南陽にいて、もうすぐお子が生まれるから、河北にはお伴ないにはならなかったと。来月には生まれると、そんな風に」
「……なるほど」
「でもあの方が、讖文にもある『劉秀』なのでしょう? 昆陽で百万の兵を破ったとも」
「ああ、間違いない」
「ならば、あの方こそわたくしの運命の方だと思ったのに……」
溜息をつく従妹を、耿伯山はどう、慰めていいのかわからなかった。
「わたくしのこの掌の文字。ずっと真定王太后のことと思っておりましたのに。お父様はそうではないのかも、と仰った。王莽の新が潰え、世が乱れた今、新たに天命を受けた方がきっと現れて、わたくしはその方とこそ、添う運命にあるのだと。あの方でもないとすれば……やはり邯鄲の、成帝陛下のご落胤の方が――」
「それはない!」
強い口調で否定する従兄を、郭聖通はびっくりして見る。
「伯山にいさま?」
「あいつは劉氏ですらない、真っ赤なニセモノだ。あんなやつが天子だなんて、間違っても口にするな!」
「まあ……」
郭聖通はしばし従兄を見つめ、それから言った。
「……もしかして、劉将軍の苦境は、わたくしとの結婚をお断りになったせいではなくて?」
「ぁあ?」
耿伯山が怪訝な表情をすれば、郭聖通は言う。
「だって、あそこまでお膳立てされて、わたくしの元にいらっしゃったのに、妻がいるからだなんてお断りになった。天神が少し、意地悪をなさっているのかしらね」
ふふふと白く嫋やかな手を口元に当てて笑う従妹を見て、耿伯山は時系列が逆だと思う。
「何言ってる。そんなわけあるか」
「いいえ、意外とありそうなことですわ。だってわたくしという運命の相手がいながら、勝手に南陽で妻を娶るなんて。天神が怒って当然ですわ。そうでなくて、にいさま?」
ころころと鈴を転がすような声で笑う従妹が、本気で言っているのかと、耿伯山はじっと見つめる。だが――。
耿伯山は『尚書』を学んでいる。太古の昔の、聖王の言葉。――前漢後半から後漢時代の尚書学は、当時の神秘思想と融合して、極めて預言的な方向へと傾いていた。古は未来を映す鑑であり、そして帝王の命運は、天の意志によって定められているものだからである。
この世界のすべてを示す聖賢の書、「経」(たて糸)に対する「緯」(よこ糸)が聖人(つまり孔子)の作と信じられ、重んじられたのも、この時代の儒教の特徴である。『尚書』が描き出す古帝王への天命の授与を、さらに神秘的に敷衍した尚書緯が密かに広まり、耿伯山もまた、それらに通じていた。
ただ、聡明な耿伯山は、世にある緯書のほとんどは後人の偽造だと見抜いていた。王莽が漢を奪う時に利用した「符命」のように、権力に近づきたい野心家が妖しい讖文をでっちあげ、宣伝し、それが遠い地方に伝わり、さも本物のように信じられる。
――劉秀天子と為る。
長安あたりで盛んに語られた讖文は、おそらくは王莽のブレーンであった国師公劉歆(当時、改名して劉秀と名乗っていた)を持ち上げるために偽造されたものだろうと、耿伯山は考えていた。だから、耿伯山が文叔に河北を託そうと思ったのは、讖文のためでなく、あくまで、己の頭脳と、己の目で決めたのだ。この目で確かめた、劉文叔の整った龍顔の奥の、冷たい煌き。人を惹きつける何か、特別な力。昆陽で絶対的な不利をひっくり返し、百倍の敵を潰滅に追い込んだ、強い意志と軍事的才能。
その劉文叔があっさり薊でつまらぬやつらにボロボロに追いかけられて、尾羽うちは枯らして下曲陽に辿り着いて――。
天神の導き。劉氏の真天子。郭聖通の、掌の文字――。
耿伯山は讖文も、郭聖通の「太后」の手書も、夢の天神もくだらぬと思っているが、文叔が天命を受けるべき人物だとは、なぜか信じられた。今、圧倒的に不利な状況に追い込まれている劉文叔が盛り返し、河北を手に入れるためには、世の愚か者たちが信じる、くだらぬモノたちの助けを借りるべきかもしれない――。
「……聖通、つまりお前は、劉文叔こそ、自分の夫に相応しいというのか?」
郭聖通は少しばかりはにかむようにして、上目遣いに従兄を見た。
「にいさま、わたくし、天神が望む相手であれば、どんな方にでも嫁ぐ覚悟はできておりました。でも――もしあんな美しくて凛々しい方が運命の相手なのだとしたら……そう思ったら、胸がどきどきして……おかしいかしら。殿方の魅力は姿かたちではないと、いつも言われておりますのに」
両手を胸に当てて言う従妹に、耿伯山は苦笑した。
「優れた男は見かけもそこそこいいものだよ。中身は、外見に現れるからね。確かに、劉文叔の容姿は素晴らしいが、やはり何よりも魅力は――」
「あの方こそ天命を受けていることですわ。間違いありません。天神が、夢の中でそう仰った。どんな障害があろうと、わたくしはいずれ、あの方に嫁ぐ運命にあるのですわ。なぜなら――」
郭聖通は掌の文字を指して言う。
「わたくしは太后――天子の母になるべき星の下に生まれてきたのですもの。ならば、わたくしの夫こそ、新たな天子としてこの天下を委ねられた方に違いない。そうでしょう、にいさま?」
その自信に満ちた郭聖通の言葉に、耿伯山は天啓を受けたように、ハッとして目の前の従妹を見つめる。
そうだ。郭聖通は天子を産む女。彼女の夫こそ、新しい天子となる。――そんな迷信を耿伯山は信じないけれど、天子となるべき優れた男を、郭聖通の夫に据えるべきなのだ。そうすれば、その男は真定王の有する十万の兵を手に入れることができ、河北の覇権を握ることができる。
「そうか、そういう、ことか!」
突如頷いた耿伯山に、郭聖通はにっこりと微笑む。
「そうですわ、にいさま。わかってくださって、嬉しいわ」
「聖通、やはり明日、一緒に真定に戻ろう。真定王殿下にお前の結婚について相談しなければならない」
「にいさま、もう? でも――」
首を傾げる郭聖通に、耿伯山が笑いかける。
「ああ、大丈夫だ。大義の前には小節を顧みず。天下のためならば、劉文叔将軍もわかってくださるに違いない」
耿伯山は請け合い、どうやって伯父を説得するか、考え始めた。――その彼の脳裏に、南陽で待つ劉文叔の妻のことなど、欠片も思い浮かばなかった。
信都で再始動した文叔は、手始めに近隣の県城に降伏を迫る。任伯卿の目論見通り、掠奪の脅しをかければあっさりと寝返り、邳偉君や任伯卿らの太守による説得に応じて、多くの県城は文叔の前にやすやすと扉を開いた。文叔自身が手勢を率い、夕暮れに到着した堂陽県では、任伯卿の手筈で兵は皆、松明を掲げ、篝火を煌々と灯して文叔らの入場を迎えた。松明と篝火に照らされた文叔の彫りの深い顔には影が差し、金属鎧が光を反射して、龍の化身が現れたなどと囁く者もいた。――たわいもないヨタ話でも、それで味方が一人でも騙されるなら儲けものである。文叔はくだらないと思いながら、噂の広がるに任せた。
信都一帯は一応――いつまた寝返るかわからないのは承知の上で――制圧し、文叔らは信都に留守居を置いて鉅鹿郡へと移動する。宋子から和成郡(下曲陽)に向かい、真定を目指す。宋子で、耿伯山に再会できれば、真定王への仲介を頼めるはずである。
二月の初め、鉅鹿と信都の境界付近にある昌城の城で、文叔は劉伯先の出迎えを受けた。劉伯先は邯鄲の蜂起を見て、だが劉子輿はニセモノだと気づき、帰順を求める使者を無視して故郷の昌城に弟たちを中心に宗族賓客数千人を集めた。たとえ傍系の傍系でも、正真正銘の劉氏である劉聖公や劉文叔の方がはるかにマシと考え、薊を脱出した文叔と接触を図ろうと、情報を集めていたのである。信都から文叔が鉅鹿に向かうと聞き、城の門を開いて文叔の軍勢を待ち受けた。
「大司馬閣下、お待ちしておりました」
文叔が車から降りると、城門の前で待っていた美髭の美丈夫が走り寄る。――漢高祖以来の劉氏の遺伝子は、むしろ傍系にこそ強く出るのだろうか、そんな風に思えるほど、劉伯先もまた龍顔で美髯を蓄えていた。河北の血が混じって幾分すっきりした雰囲気だが、一目見て、「あ、親戚」と文叔は思う。
「これは――ええと、劉伯先殿と伺っております。わざわざの出迎え痛み入る」
「いえいえ、お疲れでしょう。――実は、貴卿を探してこられた方が、我が邸にご滞在中なのです」
「私を?」
瞬間、耿伯山だろうかと思う。配下の差配は任せて、朱仲先と鄧仲華だけを伴い、劉伯先についていくと、質素な堂に待っていた人物が立ちあがる。
「文叔!――よくぞ無事で!」
「文叔叔父さん!」
それは、常山太守として元氏県にいるはずの、鄧偉卿と、その子・鄧汎――。
「義兄さん……!」
文叔は絶句する。ここでの再会を予想していなかったために、なおさら懐かしさがこみ上げる。
思わず走り寄れば、鄧偉卿もまた数歩、踏み出し、しかしそれよりも先に、まだ少年の鄧汎が駆け寄って抱き着いてきた。
「叔父さん……僕もう、ダメかと思って……昆陽でも、こんなことはなかったのに……!」
「すまない、心配をかけたな。僕も、実を言うともう、ダメかと思っていたよ」
饒陽で食い逃げし、下曲陽で氷が割れて河に落ち、河北の雪原で道に迷って心が折れかけた。あの白衣の老人がいなかったら――。
「まあまあ、積もる話もおありでしょうが、まずはおくつろぎください」
劉伯先が文叔たちに座を薦める。彼の差配で、文叔とその義兄である鄧偉卿が上座の、南面する牀に並んで、東面する牀に鄧仲華と鄧汎が、反対側に朱仲先と劉伯先が座る。下婢たちが案と酒注ぎを運んでくる。
「河北では中山の酒が有名ですが、鉅鹿のもなかなかですよ」
「重ね重ね、忝い」
文叔が礼を言い、皆で杯を上げる。
「常山太守である鄧府君の噂をかねがね聞いておりましたが、劉文叔将軍の義兄とは初耳でした」
劉伯先が言い、文叔も鄧仲華を紹介する。鄧家は鄧氏坡というため池を挟んで東西に分かれてはいるが、基本的には一つの一族である。まだ少年にしか見えない鄧仲華を、文叔が先陣に伴っている理由を、劉伯先は親戚だからだと、理解した。
「仲華は元気でやっているか?」
「う……元気、とは言い難かったけど……」
ついこの前まで寝込んでいたとは言えず、鄧仲華が気まずそうに酒を舐める。
「いいなあ! 仲華兄さん! 僕も叔父さんの軍に参加したいのに!」
「いくら何でもまだ、無理だ。ここまで連れてくるのだって、俺は迷ったのに」
鄧偉卿が息子を窘め、文叔を見た。
「手勢をいくらか率いてきたんだ。常山の方は何とかなるし、俺も一緒に――」
文叔は目を瞠る。鄧偉卿が、郡を半ば放棄する形で駆けつけたことに、驚いたのだ。
「義兄さん、それは――」
鄧偉卿とは長い付き合いで、故郷の南陽でも一番、仲が良かった。一緒に馬鹿をやり、南陽の吏をからかって逮捕されそうになったり。官憲に追われた時は匿ってもらった。なのに、兄貴の起こした叛乱に巻き込む形で、鄧偉卿の家は郡に破壊され、姉の劉君元と幼い娘たち三人は小長安で――。
文叔は目の奥が熱くなって、思わず俯き、目を瞬く。鄧偉卿は、彼の心の支えの一人だった。昆陽の百万の包囲をともに脱出した十三騎の一人でもある。母に愛されず、どこか歪んでいる文叔が、一見、まともな人間のフリをしていられるのも、鄧偉卿のおかげと言ってもいい。それくらい、心のどこかでこの義兄に文叔はずっと頼っていた。依存していた言えるかもしれない。だから、鄧偉卿が常山太守として赴任し、彼の身近からいなくなった時、まるで羽翼が削がれるような不安にかられたのだろう。その不安のまま河北に来て、厳寒の大地で辛酸を嘗めた。鄧偉卿が付いていてくれるなら――。
文叔は義兄の目をまっすぐに見て、しかし、微笑んで言った。
「ありがとう、義兄さん。でも、義兄さんは常山に戻ってくれ」
「文叔――?」
全員が断ると思っていなかったのだろう。鄧仲華も驚いたような顔をしている。
「義兄さん一人がいてくれても、僕にとっては百人力だ。でも、むしろ常山一郡を以て、大司馬劉文叔を支えて欲しい」
その言葉に、鄧偉卿が黒い瞳を見開き、しばし息を止めた。
「文叔――」
鄧偉卿は目を閉じ、しばし感慨にふけり、軽く息を吐く。
「そうだな、文叔。お前の言う通りだ。お前はもう、ただの、俺の義弟の劉文叔じゃない。――河北の覇権を狙う、劉文叔なんだな。ならば俺は、常山太守としてお前の足もとを固めよう。常にお前のために郡治を心掛け、どこであろうとお前のために糧食を確保し、送り届けよう。俺はお前の――蕭何になろう」
「義兄さん。ここまで来てくれて、本当にありがとう。このことは忘れない」
鄧偉卿はアハハと笑った。
「いつかお前が偉くなり、平和が戻ったらゆっくり借りを返してもらうさ――『僕』ちゃんからさ!」
河北の覇権を狙う身でありながら、親しい者の前では「僕」と言う癖の抜けない文叔を、鄧偉卿がからかい、皆で笑い合う。その日は劉伯先も交えながら、南陽の昔の話、朱仲先が昔の女房に再会した話などをしながら、久しぶりの穏やかな夜を過ごした。
翌早朝――。
常山に戻る鄧偉卿父子を昌城の城門まで見送りに出た文叔に、鄧偉卿が耳打ちする。
「陰麗華だが――」
ハッとして顔を上げた文叔に、鄧偉卿が低い声で続ける。
「陰次伯が少君に助けを求め、少君が密かに洛陽に向かったが、その後の報せはない」
「そろそろ、子供も生まれるはずなんだけど――」
「……そうだな。劉聖公は後宮ごと長安へ移る予定らしいが、その時にどうなるかは――」
「そんな時期に移動するなんて――」
文叔が手で口元を覆う。考えないようにはしていても、不安で不安で狂いそうになる。
「……朱仲先の話は聞いたが……文叔、もし、陰麗華が――」
鄧偉卿が言い淀む、その先に予測がついて、文叔が唇を噛む。――陰麗華が、劉聖公のものになっていたら――。文叔は目を閉じる。怒りで目の奥が朱く染まる。
「麗華が、僕を裏切るなんて、あり得ない。むしろ僕が恐れるのは――」
『僕に万が一のことがあっても、誰のものにもならないと誓って』
なぜ、あんな約束をしたのだろう。もし陰麗華があの誓いを守りきれないと思う、そんな目に遭っていたら――。
「僕はむしろ彼女が――自ら命を絶つようなことがあったらと、それが――」
文叔は蒼白な顔で、鄧偉卿の両腕を掴み、懇願した。
「もし、少君か次伯から連絡があったら、伝えてくれ。僕は――何があっても、たとえどんな姿になっていても、陰麗華を愛していると! 必ず、迎えに行くから、絶対に死ぬなと――」
「文――叔……」
鄧偉卿はじっと文叔を見つめ、凛々しい眉を寄せる。
「……わかった。伝える、機会があるかはわからないが」
「頼む。今は、河を渡ることができない。河を渡ったら、僕は――」
「わかっている。次伯には残酷だったかもしれんが、お前の判断は、正しい。どうしようもなかった、わかっている」
「麗華は――僕を恨んでいるだろうか?」
鄧偉卿は文叔の肩を叩き、溜息交じりに言う。
「まだ、お前を恨めるならマシだ。あの子は周囲を責めず、自分を責めるところがある。俺はその方が心配だ」
「麗華は何も悪くない。全部僕が――」
「まあ、そうだな。でも、起きてしまったことは仕方がない。まだ、死んだという報せが入るまでは、信じられる。生きてさえいれば、何とでもなるさ」
「義兄さん……」
文叔は俯き、手を離した時、出発の声がかかる。
「じゃあ、俺は行く。……死ぬなよ」
「死なないよ、たぶん。劉秀は天子に為る予定だから」
「ああ、そうだったな、その劉秀がお前じゃない証拠はどこにもないからな」
二人で笑い合い、鄧偉卿が馬に跨る。何度も振り返りながら去っていく鄧汎に手を振り、文叔は彼らの姿が見えなくなるまで見送った。
翌日、文叔は劉伯先を驍騎馬将軍に任じ、昌城を発ち、鉅鹿の宋子へと向かう。宋子で彼らを迎えたのは、やはり宗族を率いた耿伯山であった。
劉伯先:劉植
鉅鹿昌城の人。昌城は信都郡の界にあり、という注もあるので、鉅鹿郡と信都郡の境界なのだと思われる(歴史地図で発見できず。フシアナ?)。




