歪みと誤算
その日のホイホイ城下町の夜中はやけに静かに感じた。
ここ数日、戦争の準備で慌ただしかったが、いよいよ決戦を明日に控え、みな静かに英気を養っていた。
そんな中、もうじき大きな戦争があるとも知らない元奴隷の少女イチは夜中に目が覚め、水を飲もうとパン屋の調理場の方へ寝室から降りて来ていた。眠気の残る眼を擦り、店長やニーを起こすまいと静かに階段を降りるとそこに人の気配を感じた。
イチは自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
(……誰?)
注意を払っていた足音を更に殺し、ゆっくりと音のする方へ近づいていく。イチという少女は昔から肝の座った子だった。妹のニーを汚い大人たちから守る為に自身をどんな死地にでも踏み入れる覚悟を物心ついた頃から備えていた。
そして、今も大事な妹と恩人であるパン屋の店主を守るために恐怖と戦いながらも前進していた。
―チャ―クッチャ―クチャ―
くちゃくちゃと水気を孕んだ音が忙しないリズムで流れる。
イチは息を呑み、扉の隙間から調理場の方を覗いた。
そこにいたのは知らない人間だった。
そう、だってイチは知らない。
イチの知っているその子は自分の食べる分だって我慢し、他の奴隷や姉に分けようとしてくれた心の優しい子だ。
餓鬼、貪る、醜悪、そんな感情が湧きそうになるほど必死で食べ物を頬張る妹ニーの姿など一度だって見たことがない。
「ニー⁉ 何をしているの⁉」
イチは慌てて調理場の中に駆け込んだ。
ニーは身体をビクリと震わせて、その場に丸くなるようにしゃがみ込んでしまった。
「ニー?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―」
答えはなく。
ただ、延々と続く謝罪。
イチは慌てて部屋を見渡した。散乱した様子はなく、ただニーがものを食べて頂けと分かる。強盗や泥棒の類はいないようだ。そこに安心すると同時に、机の上に見覚えのある食べ物があることに気が付いた。
「……これ、ヨハネさんに頂いた……なんで、あれはあの後捨てたはずじゃ」
机の上に広がるそれはパンプキンケーキ。先日、ヨハネがこの店に持ち込んだが、それは店主の判断により、廃棄されることとなったはずのものだ。
「あれは確かに私が捨てたはず」
「―ごめんんさい、ごめんんさい、ごめんんさい」
「ニー、しっかりして!」
イチは地面に伏したニーの肩を持ち上げ、顔と顔を合わせる。
「何があったの? お姉ちゃん怒らないからしっかり説明して」
「ごめんんさい、イチ姉ちゃんが捨てたケーキ、どうしても味が知りたくてこっそり食べちゃった。そしたら、また食べたくなって、もう一つ赤い服を着た人がくれたの」
節々で意味の分からない単語が出てきたが、要するにニーはパンプキンケーキを摂取してしまったのだ。それも複数回。これで彼女も例外なく中毒症状が現れるだろう。いや、既にかなり末期の状態かもしれない。
イチは変わり果てた妹を抱き涙する。
「そんな……一体これはどうなっているの」
妹も胸の中で泣いている。
もはや小さな子供二人の手に負える状況でないのは明らかだった。
「朝になったら、店長さんに相談してみましょう。それでも駄目だったら、もうルーク様にご相談するしか」
イチは知らない。
その悪魔の食べ物を生み出した張本人が自身の尊敬するルークだと言うことをだ。
その日の夜は長かった。
ニーは中毒症状のせいでろくに睡眠がとれず、それに付き添うイチもまたロクに寝ることが出来なかった。
お店に世話になっている店長を起こすまいと健気に朝まで耐え続けた。
彼女たちの苦しみを他所にもうじき戦争が始まる。




