第02話
『おおまた来たのか! 待ちくたびれていたぞ!』
見るからに表情を明るくした竜を見て、ミリア・アバンテールはなんだかなぁと苦笑した。
「すまない、仕事が長引いてね。君も変わりなさそうでなにより」
『例の金とかいう奴か? そんなものなくとも、飯であれば我がイノシシでも山鳩でもいくらでも取ってきてやるというのに』
喉を鳴らしながら竜はミリアにすり寄った。自分はもはや食事すら取らない身だが、人の身であるミリアは別だ。難儀なものだと、竜はミリアの髪の匂いを嗅いでいく。
「こら、また君は人の髪の匂いを。なんでまた……働いたばかりだから汗くさいだろう」
『構わない。雌の匂いを嗅ぐのに理由など要らぬ』
言いながら、竜はくんくんとミリアの首筋にも鼻を押しつける。困ったように笑いながら、ミリアは竜の鼻先をそっと撫でた。
「まったく。少しは落ち着きたまえ、竜だろう?」
よしよしと撫でながら、ミリアは竜の首もとに腰を下ろす。ミリアに嗜められて、竜は寂しそうに喉を鳴らした。
出会ってから今日で七日。ミリアは毎日のように竜の元へと通っている。
というのも、帰るときに竜が寂しそうに鳴くからだ。初めは罠かと警戒したが、どうやら本当に懐かれてしまったらしい。
(龍種に懐かれるなんて……人生なにがあるか分からないな)
出会えて話せただけでも奇跡的だというのに、今ではその竜を窘めている。七日前の自分が見たら卒倒しそうだと、ミリアは思わずくすりと笑った。
竜も笑顔のミリアに気をよくして尻尾を振る。そして、思い出したように竜は竪琴を準備しているミリアを見つめた。
『そういえば、名前をまだ聞いていない。教えてくれぬか?』
二人きりだから必要なかったが、考えてみれば不便である。興味津々といった様子の竜を、ミリアは目を細めて見つめた。
「……呪いとかかけないだろうね?」
『そんなことするわけがないだろう』
警戒するミリアに竜がショックを受けたように声を上げる。この人間の雌は中々にガードが固いのだ。
慌てる竜に微笑んで、ミリアはポロンと竪琴を鳴らした。
「ふふ、冗談だよ。私は、ミリア・アバンテール。君の好きなように呼んでくれ」
名前を聞き、竜は嬉しそうに羽を広げた。いつの世も名前というものは大切だ。
聞いた名前を呟いて、しみじみと音の響きを吟味する。
『ミリア……良い名である。美しいミリアに合った、美しい名だ』
にこにこと見つめてくる竜を見上げ、ミリアは少し照れた顔を竪琴で誤魔化した。こうまで純粋に誉められると、聞いている方が気恥ずかしい。
「君の名も聞いていなかったね。……竜に名前ってあるのかい?」
『勿論だ。我の名はクウテンケンコクーラ。ミリアの好きなように呼ぶといい』
口上を真似して、竜は得意げに名前を告げた。その名前に聞き覚えがあって、ミリアは唖然とクウテンケンコクーラを見上げる。
(大陸の信仰にクウテン教というのがあったはずだが……もしや起源は彼か)
数年前、旅先で紐解いた経典に書かれていた名を思い出す。そこで記された竜の伝説はまさに神と呼べるものだった。
(はは……参ったね)
仲良くなってふと忘れてしまいそうになるが、こうして喋っている彼は神とも呼ばれる超常なのだ。
しかし、それでもミリアはクウテンケンコクーラの口上に微笑みながら返した。
「いい名前だね。……うん、それではクゥと。そう呼ばせてもらおうか」
『クゥとな!?』
自慢の名前を省略されて、クゥと呼ばれた竜神は驚いたように声を上げた。生を受けて幾千年、こんな呼ばれ方は初めてだ。
「なんだ、気に入らないのかい? 好きに呼べと言ったのは君だよ」
『言いはしたが……そう短くされると我の威厳が。それに、名前を略するというのはどうも』
不服げなクゥの声色に、ミリアはつい笑ってしまう。超常の竜神も、面子とかは気にするらしい。男の子だなぁと、ミリアはクゥの首の鱗をついとなぞった。
「あだ名といってね。人の世では、親しい者同士は真名をモジったあだ名で呼び合ったりするんだ。私は君とは親しくなれたと思っていたのだがね」
『クゥで特に問題はない』
言われ、クゥが鼻息を荒くしてミリアにすり寄った。あまりの前言撤回の早さにミリアも面くらうが、愛しそうに瞼の上を撫でてやる。
気持ちよさそうに目を細めながら、クゥはミリアにいいことを思いついたと口を開いた。
『そうだ。ならば我もあだ名で呼ばねばならぬのではないか?』
当然の理屈だと、クゥはミリアを得意げに見つめる。ぱっと思いつかないが、親愛の証を見せねばなるまい。
嬉しそうな森の王を、けれどやんわりとミリアは断った。
「いや、私は構わないよ。女性を呼ぶ場合は、むしろ呼び捨てが距離が近しい証拠でね。家族以外で呼ぶとなるともう、それは男女の仲くらいしか――」
『ミリアでよかろう』
ふんすと鼻を広げる竜神。子供を騙すような罪悪感を覚えながらも、ミリアは素直なクゥを優しく見つめた。
とても恐ろしさを併せ持つ存在には見えない。けれどクゥが本気で暴れれば、この森どころか小さな都市くらいならば一夜も経たずに滅ぶだろう。
「君は、素敵だね」
『無論である。ミリアも素敵であるぞ』
誉められて、クゥは得意げに胸を張った。そんな彼を、ミリアはそっと見上げる。
まるで人間の男と女が交わすような会話。なんて知的な生き物なのだろうとミリアは思うが、そもその考えが人の愚かさだと思い直す。
人の身でないにも関わらず、人語を解す。知的だと驚くこと事態が、きっとこの存在には不敬なのだ。
「……今日も君の好きな歌を唄おうか。東の国の、港の歌なんだけれど」
『おお! ありがたい。心待ちにしていたぞ。最近は、ミリアの歌が我の最大の楽しみだ』
石に腰掛けたミリアの側に、クゥはのそりと伏せをした。その隣で、ミリアが竪琴をおもむろに鳴らす。
研究の合間に、路銀稼ぎと趣味を兼ねて始めた歌だ。専職には適わないが、どうやら森の主のお気には召したらしい。
「綺麗な町だったよ。活気があって、南風が素敵でね。歌も陽気に踊るんだ」
記憶を手繰りながら、ミリアの指が音を奏でる。ミリアの言葉通りに、明るい音が森の中に溶けていく。
カモメが飛んでいる。潮騒と海の香り。輝く風は、西へと昇る。
「るーるー」
ミリアの歌声に竜は耳を澄ました。海など見たことはないが、これだけで十分だと目を瞑る。
るーるーるー
竜と少女の周りだけが、潮の香りに満ちていく。
そっと鼻先を足下へと寄せる竜神に、ミリアは愉快そうに笑みを浮かべるのだった。




