第10話
渡りきった向こう側からもう少し。徒歩で二時間ほど進んだ山の麓にその村はあった。
深く色づいた山の手前に、黄金に輝く稲穂が茂っている。小麦畑が風に揺れ、静かに流れる川のせせらぎが聞こえてきそうだった。
「いい村じゃないか」
村の入り口に立ち、ミリアは辺りを見回した。小さいが豊かそうな村だ。瓦葺きの屋根の中に、いくつか大きなものも見えた。
「あら、珍しい。旅人さんですか?」
かけられた声に振り返る。両手に編籠を提げた少女がきょとんとミリアを見つめていた。
第一村人を発見し、ミリアは柔和に顔を作る。
「初めまして。村の方ですよね?」
「ええ、そうですけど」
ちらりと少女の目線が上がる。ミリアの赤髪を見やった後、少女はにこりと笑みを浮かべた。
黒髪の美しい少女だった。温かな雰囲気を持つ少女に、ミリアは丁寧に腰を折る。
「私、神学者のミリア・アバンテールと申します。よろしければ、この村の竜神伝説の調査をさせていただきたいのですが」
「まぁ、学者さまでしたか。いいですよ。父もお喜びになるでしょう」
少女の言葉にミリアは目を開いた。くすりと微笑みながら、少女は村の奥に建っている一軒の屋敷に顔を向ける。
大きな屋敷だ。森に少し入っているその建物から、山の中へと続いている石階段が続いているのが見て取れる。
「村長の娘のサナです。歓迎いたしますよ」
これは幸先がいい。ミリアはクゥと顔を見合わせ、引きの良い旅の行程に笑顔を覗かせた。
◆ ◆ ◆
「すみません。調査の許可だけでなく、宿の世話まで」
木造りの屋敷の中、ミリアは軋む廊下の音を聞きながら頭を下げた。
布を巻いたような服装のサナの後に続き、案内された部屋を見て感嘆する。客間だろうが、二人分にしても随分と広い。燭台に鏡が付いていることを確認して、ミリアは目を見開いた。
「ありがとうございます。こんな豪華な部屋……」
「ふふ、いいんですよ。竜神様をお調べに来た学者さまに非礼があっては、竜神様にも申し訳が立ちません」
そう言われ、ミリアはちらりとクゥを仰ぎ見た。興味深げに部屋を見ている竜神に思わず笑いそうになってしまう。ただ、正体を明かすわけにはいかない。唇を結んだミリアは、涼しい風の通る部屋に竪琴を下ろした。
「お連れ様の荷物も。……それにしても、赤毛の旅の方ですか。これも竜神様のお導きでしょう」
「赤毛? えっと、私の髪のことですか?」
荷物を下ろしながら、クゥもミリアの赤髪を見やった。確かに珍しい髪色だが、いないわけではない。街ならば、それこそ一日歩けば幾人かはすれ違うだろう。
「ええ、赤い髪には竜神様の加護が宿ると言われています。この村では、赤毛の旅人は歓迎せよと習わしがあるほどなんですよ」
「ああ、それで」
自分の毛先を指で摘んで、ミリアは納得したように部屋を眺めた。いくら学者といえど、見ず知らずの余所者にこの待遇はおかしい。あまり好きでもない赤髪だったが今回ばかりは感謝することになりそうだ。
「髪の色でなにか違ったりするものなのかい?」
「さてな、我らにも色々な輩がいるからな。中には毛を見る奴もいるだろうよ」
こそりとクゥに耳打ちする。サナに聞こえないように、ミリアは「へぇ」と顔を綻ばせた。
考えてみれば、聞いた竜神の伝説を竜神に解説してもらえるのだ。神学者にとってこれほど愉快なこともない。
「それでは、ごゆっくり。明日は私が村を案内いたしましょう。……決して、裏山には立ち入りませぬようお願い致します」
そう言って、サナは部屋を後にした。襖の影が消えていくのを見送って、ミリアはクゥに顔を向ける。
「どうかな。竜神様は居そうかい?」
「ふむ、特に気配は感じぬが。……いるならば裏の山であろうな」
クゥの言葉にミリアも同意見だと頷く。長く山奥に続いていた石階段。あれはどう見ても神を祀る場所への道だ。
山に一人で立ち入ることはサナに禁じられてしまった。しかし、それが逆に山の神聖さを裏付けている。
「聖域ってやつだ。だめだと言われたら調べたくなるね」
「ん?」
ミリアがにやつき、クゥが驚いたように見つめた。普段のミリアからは考えられぬ意地悪な表情を見て、クゥは意外だと愛しの少女を見下ろす。
「冗談だよ。節度は守るさ」
「驚いた。本気の声だったぞ」
愉快そうにミリアは笑う。逸る衝動は本物だが、急ぐ必要もない。案内すると言ってくれているのだし、ゆっくり調べればいいとミリアは床に腰を下ろした。
「さて、どんな竜神様に会えるかな」
まだ見ぬ神様に思いを馳せ、壁に背中を預ける。
そんなミリアの袖を、くいくいとクゥが引っ張った。
「それよりもミリア、何か食べよう。腹が減った」
「……君、食べなくても平気なんだよね?」
少々俗世に染まってきた竜神を見上げて、ミリアは仕方がないと下ろしたばかりの腰を上げるのだった。
◆ ◆ ◆
「お、おお? なんだこれは?」
赤い顔でふらつくクゥの顔をミリアは興味深げに見つめていた。
「ああ、森にはないものね。それはお酒といって、麦を発酵させて作るものだよ」
「ミリア、これは毒だぞ。頭がボーとしていうことが効かぬ」
酒が入ったグラスを置いて、クゥは恨めしそうにそれを睨んだ。
強靱な竜種が酒に酔うというのは珍しい話ではない。酔っぱらったせいで退治された竜の逸話などは各地に残っているし、要は自然に生きる彼らは酒への耐性がないのだ。
それにしても豪勢な夕飯だ。一介の旅の学者にここまでしてくれるということは、よっぽど歓迎されているらしいとミリアは自分の赤髪を撫でる。
「あながち間違いではないけどね。そう悪いものではないよ。ふわふわと気持ちいいだろう? 人間はそうやって気分のいい時間を楽しむのさ」
「そう言われれば確かに……なにやら気持ちの良い気も……」
そこまで言うや、クゥはバタンと後ろへ倒れた。ミリアが寝ころぶクゥの顔を覗き見て、「おやおや」と楽しそうに笑う。
「ふふ、いいことを知ってしまったな」
くすくすと笑いながら、ミリアはクゥの頬を指でつついた。森の主もこうなってしまっては可愛いものだ。
いざとなれば酒に酔わせてしまおう。そんなことを思いつつ、ミリアはしばし一人きりの晩酌を楽しむのだった。




