心の病気
【春香由紀】
窓の隙間から吹き込んだそよ風が、私の頬を優しく撫でる。
誰かに「……起きて」と囁かれたような気がして、私はおもむろに目を開けた。
ベッドで横になっていた私は、重い体をゆっくりと起こして辺りを見回すと、一面真っ白に染められた空間が心に落ち着きを与えてくれた。
すると、扉からノック音が聞こえ、思うように声を出せない私は無言で扉の方に目を向ける。
向こうから扉が開かれると、ナース服を着た看護師が目覚めた私を見るや、安心したように顔をほころばせた。
「あっ、起きたんですね。具合は大丈夫ですか?」
「あの……えっと……」
頭がぼんやりとして状況が全く分からない私は、返事に戸惑う。
「あっ、無理はしなくていいですよ。突然のことで整理が追いつきませんよね」
しかし、看護師さんは私を安心させるように笑みを崩さず、優しく声をかけてくれた。
「今から先生を呼んで来るので、ゆっくりしていてください。お水ここに置いておくので、よかったら飲んでくださいね」
看護師さんはそう言うと、部屋を出ていき、また静かな空間が戻った。
私は、看護師さんが用意してくれた水を飲んで一息つく。
開けた窓から射す真夏の日差しを浴びて、ようやく自分の置かれた状況を理解した。
「……やっちゃったなぁ」
自分の心の中で、不甲斐なさを卑下する。
窓を閉めて外からの熱気を追い出し、カーテンを閉じて鬱陶しい程に照らしつける陽を遮ると、再び扉からノック音が聞こえた。
「どうぞ」
今度はかすれた声で返事をすると、開かれた扉から白衣姿の女性がコツコツとヒールの音を立ててこちらに向かってくる。
「お久しぶり。由紀ちゃん」
私の名前を知る彼女は、思考の読めない飄々とした態度でベッドに座る私を見下ろす。
そして、私も彼女に倣うように、平静を保った顔で挨拶を返した。
「ご無沙汰してます。……美奈さん」
お互いに挨拶を交わし終えると、美奈さんは近くのスツールを手前に引き、足を組んで座った。
美奈さんの立ち振る舞いは、相変わらず冷たい女王の風格を感じ、緊張で思わず唾を吞み込んでしまう。
「体の具合はどう?」
「おかげさまで、少し落ち着きました。今夜には出られそうです」
そう。美奈さんに言われなくても、これはただの熱中症。
少し寝ればいつも通りに戻れるのだから、ずっとここに厄介になる必要はない。
しかし、自分の中では至極当然の返しをしたつもりなのに、美奈さんは納得がいっていないような溜息をついた。
「あのね。帰る場所も無いような女子高生を、暗い夜道に追い出すわけないでしょ」
「でも、ずっとここにいるのも、他の患者さんに迷惑がかかるんじゃ……」
「安心なさい。幸い、今は入院患者が少ない平和な時期だから。あなた一人いたところで、大した問題にはならないわ」
「はぁ……」
そう言われてしまったら、無理に出ていく必要を感じなくなってしまう。
すると、美奈さんは頬杖をついて、話題を変えてきた。
「あなた、どうやってここに運び込まれたか覚えてる?」
美奈さんに訊かれて、私は記憶を掘り起こそうとするが、暑さに溶かされてしまったようだ。
「いえ……全く」
あの時、暑さで意識が朦朧としていた私は、澄み切った青空を最後に何も覚えていない。
でも、今でも脳裏をかすめている声がある。
それは、私の好きな声にとても似ていて、一度耳に吸い込まれたら二度と忘れられなくなる優しくて透明な声。
私を助けてくれた人が、私の想像している人物だったらと思わずにはいられない。
でも、美奈さんに訊くのが怖かった。
その人は美奈さんにとって大切な家族で、私は過去に彼を傷つけてしまったから。
「私をここまで運んでくれた人に伝えてくれますか? 助けてくれてありがとうございますと」
「それは、命の恩人には会いたくないというあなたの意思ということで、受け取っていいのかしら?」
「はい。普通なら非常識でとても失礼ですけど、今回はこの方が正しいと思うので」
「……分かったわ。そう伝えておく」
美奈さんはすんなりと受け入れてくれたが、スツールから離れずに私の顔を見つめていた。
「……あの、まだ何か?」
私が訊ねると、美奈さんは愁いを帯びた顔を影に落とした。
「……とても今更なことで申し訳ないのだけれど、医者としてあなたのことで見落としているかもしれないことがあるの」
「見落としていること……ですか?」
「ええ。“病院に運び込まれる人だけが全ての患者ではない”。昔、ある人から教わった言葉。久しぶりにあなたの顔を見て、思い出すことができた」
美奈さんは覚悟を決めたような眼差しを私に向けた。
「この病院は、身体的な病気を治療することがほとんどだけれど、私こと雨宮美奈個人として治したい病気がある」
「……それって、何ですか?」
私は恐る恐る訊くと、無音の時間で緊張感が走り、ごくりと唾を飲む。
「……簡単に言えば、“人の心”かな」
美奈さんのその一言は、私のことを見透かされたような気がして、鼓動が早くなる。
「それって、私は何かしら心の病気を抱えていて、お医者さんの手で治療しないといけないくらい重傷ということですか?」
怒りとも焦りともとれるような感情が、私の言葉をまくしたてる。
「私の思い過ごしなら謝ります。でも、一つの重荷から解放された今だから、そう思えてしまった」
美奈さんは更に言葉を連ねる。
「一方的に追い出した分際で何を今更って思ってるのは、重々承知しています。でも、私の直感が本当なのなら、今ここで話をしてほしいです」
真正面に向けられた善意の眼差し――。
でも、それはあまりにも眩し過ぎて、醜い自分はその光を浴びることを拒んだ。
「心の病気は医者の独断で一方的に治療はできない。どう試行錯誤しようとも、一歩目は患者から歩み寄ることしかできないの」
美奈さんは更に正論を叩きつける。
そんなこと、私でも分かっているというのに――。
簡単に言葉にできたら、こんなに苦労はしないというのに――。
「……お時間をいただけませんか? いろいろと整理をしたいので」
結局、私の出した回答は先延ばしという中途半端な結論に落ち着いた。
「……分かりました。それでは、話したくなったら、声をかけてください」
美奈さんはそう言うと、スツールから立って高いヒールの音を鳴らしながら病室を出ていった。
思ったよりもあっさりとしていたのは、私は一人の患者として見ているからだろうか。
私は再びベッドに横になって、緊張で疲れた体を休めた。
腕を覆って天井から射す光を遮り、瞼の裏側である人のことを思い浮かべていた。
その人は、彼と巡り合う前から相識があり、この世界を流浪する私を作ったきっかけでもある存在。
「……さん。私はどうすればいいんでしょうか?」
今はもうそこにはいないその人に、答えを求めるように零した。
言わずもがな、私の声に返してくれる人なんているわけもなく、風に吹かれた草木がその事実を伝えているように、ざわざわと揺らしていた。
それでも、私は心の中でずっと問い続けている。




