欲しかった声
【秋山海斗】
彩葉ちゃんの無事を確認し、俺たちは再び目的の場所へ歩き出した。
さっきまでの暗い雰囲気はとっくに消え去り、七生と彩葉ちゃんは楽しそうに歌を歌っているのを、陽炎と一緒に後ろから見守っていた。
「おーい! ちゃんと前見て歩けー! ぶつかるぞー!」
前を見ないで歩いている二人を、保護者の陽炎が後ろから注意する。
「分かってるやーい! バーカバーカ!」
七生が陽炎に向かって、思いっきり罵倒する。
「たまに前方確認してますよー! おバカさーん!」
続いて彩葉ちゃんも、陽炎をさりげなく罵倒した。
「丁寧に言えば、許されると思ったら大間違いだっつーの」
陽炎は右の拳を強く握りしめ、怒りの拍車を必死に抑える。
「手のかかるガキを持つ親の気持ちって、こんな感じなんですかねー、兄貴」
俺に向けられた言葉だと気づかず、俺は反応が遅れる。
「ごめん、話聞いてなかった」
「大丈夫っすか? なんか心ここにあらずって感じですけど」
「……んー」
陽炎に気を遣われると、俺は返事の仕方に迷い、視線が陰に落ちる。
「……もしかして、さっき一人で離れてた時に、何かあったんすか?」
これが、いわゆる男の直感というやつなのだろうか。
それとも、俺が単に分かりやすすぎるだけなのだろうか。
「実は……」
陽炎にあっさりと言い当てられてしまったので、俺は潔く白状した。
…………。
……。
「へぇ、俺がいない間にそんなことが」
「結局、無駄足になっちゃったけどね」
「それで、偶然鉢合わせたやつが、彩葉が撮った写真に写ってたやつだったと?」
「うん。陽炎には写真を見せられなかったけど、偵察に行ってくれた時に顔は見てるはずだから、分かると思うんだけど」
「なんとなく想像はつきますよ。そいつの顔くらいは」
陽炎は何か思案するように、視線を落とした。
「とても気になるんだ。さっき初めて会ったはずなのに、もっと前から言葉を交わしていたような気がして、初対面の人とは違う感覚になるんだ」
そう言いながら、今は落ち着いて動く心臓に手を当てる。
「でも、これは確信じゃないし、俺の直感なんて当たらないから、気にするようなことじゃないかもしれない」
「そうですか……」
陽炎は後頭部に両手を組んで、青く澄んだ空を見上げた。
そして、おもむろに足を止めて、前を歩く俺にこう告げた。
「それじゃあ、俺の直感から言わせていただきます」
陽炎のその一言で俺も足が止まり、振り返ると真剣な眼差しで俺を見てこう言った。
「多分、そいつともう一回会って直接話をした方が良いと、俺は思いますよ」
子どものように屈託がなく、自信に満ち溢れた笑顔。
それと、陽炎の長い髪を小さく揺らすそよ風が、俺の背中をそっと押してくれたような気がした。
強要ではなく、勇気を与えられたような感覚だった。
「でも、いいのかな? もしかしたら、行ったっきり今日は戻ってこれないかもしれない」
しかし、そんな優しい後押しをされてもなお、自身が持てない俺はまだ一歩も動けずに言い訳を始める。
「大丈夫っすよ。あの二人なら兄貴の事情も分かってくれるだろうし、俺とあいつらだけになっても、楽しめる自信ありますから」
陽炎は俺に近寄って、肩をポンッと軽く叩く。
完全に退路を断たれてしまったと、俺はどこか安心するように鼻息をついた。
「ありがとう。それじゃあ、陽炎の直感を信じるよ」
「ええ、そうしてください」
最後にそう言い残すと、陽炎は前を歩く七生たちの下へと駆け寄り、カバッと二人の間に挟まって肩を組んだ。
「お前ら! 兄貴は用事があるから、抜けるってよ!」
「えー! まだ遊んでもいないのに、何で急にっ!?」
「そうですよ! これからが楽しみなのに!」
「そうカッカすんな、二人とも。今日は晩御飯も俺が奢ってやるからよ!」
「マジか! ラッキー」
「高い店にしましょう!」
二人を引き留めてくれた陽炎に背を向けて、俺は違う道を進んだ。
無論、彼女のいる場所は分からない。
さっき会った場所にいるとも限らない。
だが、俺は自分の直感を信じて、街中を走った。
【春香由紀】
ようやくバイトの時間が終わり、私は荷物をまとめてネットカフェへ直行しようと極暑の道を歩き始めた。
しかし、バイトから解放される頃にはもう、暑さで体力を蝕まれ、しっかりと歩くことすらままならなくなっていた。
暑い……すぐにでも服を脱ぎたい……。
公の場で流石にそれはできないので、代わりに服で仰ごうとしたが、そもそも空気が暑すぎるので、何の解決法にもならない。
そして、暑さと共にやってくるのは、喉の渇き。
こんな状況だと、街中にある自販機を無意識に立ち止まって見てしまうが、ネットカフェに辿り着ければ、無料で飲み放題という欲が、再び足を突き動かす。
あと少し……あと少しだ……。
赤信号を渡ってしまえば、オレンジ色のオアシスが私を迎え入れてくれる。
私は近くにあった街灯に右肩を預けて、信号が青に変わるのを待った。
あと少しの辛抱だと心に訴えながら、額の汗を左腕で拭う。
しかし、街中は車の交通量が多いせいか、信号はなかなか切り替わってくれなかった。
そして、暑さで脳がおかしくなっているのか、目の前にあるはずのオレンジ色のオアシスがだんだん遠ざかっていく。
鳴り止まない喧噪が、頭にガンガン響いていく。
痛みを少しでも和らげるために頭を抑えようとするも、手を自由に動かすことも思うようにいかなくなっていた。
そして、追い打ちをかけるように、全身に痙攣が走り出し、立つことも難しくなっていく。
座り込んで見上げた空は雲一つなくて、私はそんな空を自由に羽ばたいているような気がした。
こんなにも自由な気持ちになれたのなら、私の人生に悔いは残らないかもしれない。
私は、最後に見た景色を脳裏に焼き付けると、そのまま目を閉じた。
「……大丈夫ですか!? ……大丈夫ですか!?」
閉じた瞼の向こうで、誰かが私に叫んでいる。
肩を揺らされながら、ずっと問いかけている。
さっきの空よりもずっと前から焼き付けていた気がする、透き通ったような声――。
触れられた肩に残る、線の細い五本の指の感触――。
もう目を開ける力がないから分からないけれど、今目の前にいる人は私が思い描いていた人物であればいいな。
そんな小さくて儚い願望を胸に秘めて、私は意識を閉ざした。




