届きそうで、届かない
【春香由紀】
「お願いしまーす……。お願いしまーす……」
太陽に焼かれたアスファルトの上で、私は誰彼構わず見知らぬ人に向かってポケットティッシュを配っていた。
話しかけられるのには慣れていたが、自ら話しかけるのは気持ち的に疲れてしまう。
それに、無視されるのが当たり前というのが、慣れない私にとって何よりも心が痛む。
そんな心労を極力まで減らすために、ポケットティッシュを手渡す際には無害そうな人を選ぶようにして、声もギリギリ相手が聞こえる程度を意識した。
こうすれば、手を抜きながら、やるべきことはやっている感じを見せることができるので、一石二鳥だ。
お金のためには働かなきゃいけないけれど、こうやって迷惑にならない程度に考えて手を抜くことも大事なのだと、バイト経験を重ねて学んだ。
「……ふぅ」
とはいえ、灼熱の中にずっと立ちっぱなしでいると、肉体的にはかなり堪え、おでこから流れた汗を右腕で拭った。
交差点の間反対で同じポケットティッシュを配っていたバイトの人も木陰で休んでいたので、それに倣って私も建物で出来た影に入って手すり寄りかかる。
服をうちわ代わりに仰ぎ、ポケットティッシュを入れているカゴに引っ掛けたペットボトルを手に取って、ゴクゴクと喉を鳴らした。
休日ということもあり、都会の中でも人通りの激しいこの街にはたくさんの人で溢れ返っていた。
はしゃぐ子どもに注意する父親――。
まだ歩けない赤ん坊を抱く母親――。
仲良く肩を組む男友達――。
歩きながら談笑する女友達――。
私に与えられなかったものが、この街には当たり前のように存在している。
今更憤りなんて感情はないけれど、微笑ましく映るはずのその光景に何も感じることができないのは、どこか虚しさを感じる。
……おっといけない。
これ以上の観照は私の頭痛を促進するだけだ。
私は手すりから離れて、再び日差しの下でポケットティッシュを配り始める。
「お願いしまーす……。お願いしまーす」
さりげなく、時計台を一瞥すると、バイトの終了時間はあと僅かまでに差し迫っていた。
ようやく、この灼熱地獄から解放される。
このバイトが終わったら、本屋に入って本を探すフリでもしながら、ゆっくりと涼もう。
ラストスパートに感情は高ぶりつつも、声は変わらず最小限に抑えて業務を全うする。
「……すいません。ポケットティッシュを一枚……」
すると、私の真後ろから、透き通ったような男性の声がした。
ポケットティッシュ配りのバイトで、向こうから声をかけられるなんて初めてだ。
稀有な状況に困惑しながら後ろを振り返り、相手の姿を見た私は心臓の鼓動が一度だけ飛び跳ねた。
透徹した宝石のような銀色の髪――。
澄んだ青空の色をした瞳――。
全身雪で覆い尽くされたような真っ白な肌――。
そのどれもが、あの頃と何も変わらなくて、懐かしささえ覚えた。
「か……」
そんな思い出に引っ張られた私は、無意識に彼の名前を呼ぼうとしたが、咄嗟に口を噤んだ。
彼の中には、私という存在はもういない。
赤の他人として、今日初めて会った人として彼を見なければいけない。
「……あの」
黙りこくる私に不審がった彼は、一切表情を変えずに声をかける。
「は、はい! なんでしょうか!?」
「ティッシュ、いただいてもいいですか? 急いでまして」
「あ、はいはい。ティッシュですね。……どうぞ」
困惑のあまり強く握りしめてしまったポケットティッシュを渡すと、彼は遠くへと走り去ってしまった。
これが、神様のいたずらというやつだろうか。
ポケットティッシュを渡した時に触れた手には、まだ彼の温もりが残っていた。
【秋山海斗】
真っ直ぐ肩まで伸びた、サラサラとした栗色の髪――。
冷たさを感じる白の中に、ほんのりと温かい赤みを帯びた頬――。
パッチリとしているのに、その奥で何かを求めているような瞳――。
俺は彼女の顔を知っている。
彩葉ちゃんに見せてもらった写真に写っていた人だ。
こんなところで鉢合わせるとは夢にも思わず、世界の狭さを実感させられる。
しかし、今は緊急事態。彩葉ちゃんの止血の方が大事だ。
「ティッシュ、いただいてもいいですか? 急いでまして」
「あ、はいはい。ティッシュですね。……どうぞ」
彼女がずっと握りしめていたポケットティッシュを渡されたが、使えることには変わらないので、それを手に取って俺は七生たちの下へ駆け出した。
ただ、俺は頭のどこかで、引っ掛かりを感じていた。
彼女とは初めて会ったはずなのに、どうしてこんなにも懐かしい気持ちにさせられるのだろうか……。
七生たちが待っている場所に駆け足で戻ると、彩葉ちゃんはベンチから広場の方を見ていた。
俺も気になって広場を見てみると、真ん中に立っている木の下で、何かを待っているようにキョロキョロした七生がいた。
「あっ、お帰りなさい」
彩葉ちゃんは俺に気づいて振り向くと、既に鼻にはティッシュが詰められていた。
「ただいま。あれ……何やってるの?」
七生のいる方を指差すと、彩葉ちゃんはニヤリと答えた。
「ギャンブルですよ」
「……ギャンブル?」
すると、七生の後ろから、二人の男が近づき声をかけられる。
七生は素直に振り返ると、何かを確認するように二人の男を指差した。
何の話をしているのかは分からないが、男たちが笑顔で頷くと、七生は勝利の雄叫びをあげて、どこかへ行ってしまった。
そして、横では彩葉ちゃんも喜びのあまり、飛び跳ねて拍手をし、七生の勝利を祝福していた。
「やったー! おねえちゃんが勝ったー!」
状況が全く分からない俺は再び七生の方に視線を戻すと、悔しそうな顔を浮かべた陽炎に向かって思いっきり煽っていた。
そして、上機嫌な七生は不本意そうに顔を渋くする陽炎の頭を雑にいじりながら、俺たちの下へ帰ってきた。
「「いぇーい!」」
七生は彩葉ちゃんとハイタッチして、喜びを分かち合う。
「みんなで何してたの?」
ご機嫌斜めの陽炎に訊くと、彩葉ちゃんが陽炎の前に立って説明する。
「おねえちゃんがナンパされるかどうか、賭けをしてました!」
「そんで、さっきの男どもに確認したら、ナンパだって言うから私と彩葉の勝ち」
七生が続けて説明すると、彩葉ちゃんの両腕を掴んで遊んだ。
事の発端を聞かずとも、陽炎と七生の口喧嘩から始まったのだろうとなんとなく想像がついてしまう。
「今日の昼飯お前の奢りな!」
七生は掴んだ腕を陽炎に向け、彩葉ちゃんは人差し指を陽炎に指す。
「ケッ、気に食わねぇぜ」
陽炎は七生たちに背を向けて、不満を吐き捨てる。
しばらくすると、彩葉ちゃんの具合も良くなってきたようなので、俺たちは再び歩み出した。
その間、三人が会話している中、俺は後ろでさっきの彼女のことをずっと考えていた。




