忘却の彼方で、君を想う
【春香由紀】
「海斗君は今、どうしてますか?」
私の重々しい顔つきで、陽炎君との間にあった空気が一変する。
陽炎君は目の前にあった紙コップを飲み干し、一息ついてから口を開いた。
「兄貴は今、入院中だ。だが、もうじき退院する」
「退院すれば、海斗君は今までの生活に戻れるんだよね? 体が麻痺して動かせないとかないよね?」
「折れた骨を元通りにするために、頑張ってるところだからな。全部治れば、普段の生活に戻れるだろうよ」
「そっか……」
不幸中の幸い……というやつだろうか。
これで、深刻な状況にさせたことへの罪悪感は、無事でいた安堵で少しは和らいだ気がした。
「ありがとう、陽炎君。それが聞けただけでも良かった」
「いや……」
陽炎君はどこか腑に落ちないような面持ちで私を見る。
「……陽炎君?」
陽炎君は難しそうな顔をしている。
「……どうしたの?」
「……すまん。あんたに話そうかどうか迷ってることがある」
陽炎君はもどかしそうに頭を掻きむしった。
「何……それ?」
選ぶ言葉を慎重に考えているのか、陽炎君はさっき飲んだ紙コップを見つめながら、数秒間黙り込み、言葉の整理が終わると鋭い眼差しを私に向ける。
「春香由紀。あんたは兄貴のこと、どう思ってる?」
「……ど、どうしたの? 急に……」
「あんたは兄貴と過ごしたあの時間をどう思ってるって訊いてんだ?」
「それは……」
公園で私のことを見つけてくれたあの日――。
最初に抱いた印象は、不思議な男の子。
これまでの男性のような邪なものではなく、私という“人間”を慮っているかのような静かな瞳で私を見ていた。
だから、私はそんな彼のことを知りたくて、体が……言葉が本能的に動いた。
彼となら、私が“探していたもの”を見つけられるような気がして、一緒にいられる言葉にするにはあまりにも薄すぎる関係を作った。
それからは、自分の甘さのせいで苦しかったこともあったけれど、乗り越えた先にはそれと同じくらい……いや、それ以上の温かい時間があった。
そう、彼との時間は私にとって“探していたもの”であり、“ずっと持ち続けていたかったもの”。
そんな特別な時間をどう言葉にすれば、理解してくれるだろうか。
考えていると、鋭い眼差しを向けていた陽炎君は腑に落ちたように視線を解き、背をもたれた。
「……もういい」
「どうして? 私、何も言ってないよ」
「その顔見りゃ、なんとなく分かる」
そう言って、陽炎君はポケットティッシュから1枚のちり紙を取り出して、私の方に伸ばした。
私は自分の頬に触れると、涙に濡らされていたことにようやく気付いた。
口の中にまで流れた涙はほんのりと甘い。
「あ、あれ? どうして……」
私は陽炎君からちり紙を手早く取って、急いで流れる涙を拭った。
「ごめん、すぐ止めるから」
「少なくともあんたにとっては、大事な時間だったんだな」
「そう……だね」
涙に気づいたら、今度はしゃくりあげてしまった。
「良かったよ。兄貴のしてきたことは、少なくとも無駄じゃなかったんだな」
「海斗君は……そう思ってくれるかな」
「あの人はそういう人だ」
陽炎君は鼻を鳴らして、小さく笑みを零す。
「……そうだったね」
私もつられて、クスリと微笑んだ。
「でも、それだけにこのことを言うのは、正直俺でも辛いよ」
すると、安堵の笑みを零していた陽炎君は、突如として神妙な面持ちになる。
私も呼応するように緊張感をまとい、唾を飲み込む。
騒がしい周囲の音も耳に入らない程に、意識は陽炎君の言葉に集中していた。
「兄貴さ……。あんたのこと、忘れちまったみたいだ」
「……え?」
鼓動が一瞬止まった気がした。
その言葉を理解しようとするたびに、私の心にじわじわと重くのしかかっていった。
そして、受け入れることを拒むように、騒がしい周囲の音が耳を打ち付ける。
止めたはずの涙が唇に零れ落ち、とてもしょっぱかった。
陽炎君から告げられた事実を最後に、私たちはこれ以上話をすることはなく、ゲームセンターで遊んでいた彩葉ちゃんたちを迎えに行った。
咲ちゃんのわがままで陽が落ちるまで遊びに付き合い、陽炎君ファミリーとはゲームセンターの入り口で別れた。
彩葉ちゃんは最後にクレープを食べたいというので、私たちは外に出て屋台車のクレープ屋に向かった。
今日はいろいろとあり過ぎて既にお腹いっぱいの私は、近くのベンチに座ってクレープを買っている彩葉ちゃんを待つ。
『兄貴さ……。あんたのこと、忘れちまったみたいだ」
沈む夕日を眺めた瞬間、陽炎君の言葉が脳裏をよぎった。
「そりゃ、そう……だよね……」
……いいじゃないか。
海斗君には、この先何不自由なく生きていける保証があるのだから――。
陽炎君や涼花とはこれまでと変わらず接してゆけるのだから――。
海斗君の中から私が消えてしまっても、不器用なりに独りで生きてこれた私ならきっとこの先も大丈夫だから――。
何度も何度も、壊れたレコードのように自分に言い聞かせる。
すると、クレープを買って来た彩葉ちゃんが、これまたボリュームのあるクレープを両手に持ってちょこんと私の隣に座った。
「お待たせしました」
「相変わらず、すごい量だね」
「甘いものならいくらでも入ります!」
彩葉ちゃんは自信満々に答える。
こんなに細くて小さな体のどこに入れられるスペースがあるというのか。
「今日は楽しかった?」
「はい! 新しいお友達もできましたし、今まででずっと楽しかったです!」
彩葉ちゃんは小さな口を大きく開けて、クレープにかぶりつく。
「良かったね」
私は静かに微笑み、彩葉ちゃんの顔に付いた生クリームを指で拭き取り、はむっと自分の口に入れた。
甘ったるくて、少量口に入れただけでもう充分だと感じてしまう。
「あっ、実はお姉さんに1つお誘いがあるんですよ」
「お誘い?」
「この前、おねーちゃんに会ってきて、今度一緒に遊ぶことになったんですけど、お姉さんもどうですか?」
「えーと……その“お姉さん”? に、私のこと話したの?」
「はい! でも、おねーちゃんなんだか様子がおかしかったんですよ」
それはそうだと心の中で零しながら、私は苦笑いを浮かべる。
彩葉ちゃんのいう“お姉さん”はさっき陽炎君が話していた“七生さん”のことだろう。
陽炎君は潔白を主張してくれるそうだけど、それとは別に今は明るく振る舞える気がしなかった。
今日はなんとか乗り切れたけれど、その先は限界だ。
当分は彩葉ちゃんにも会わない方が良いかもしれない。
「誘ってくれてありがとう。でも、明日から忙しくなっちゃうから、また別の機会にしてもらってもいいかな?」
彩葉ちゃんは残念そうに眉を顰めていたが、すんなりと受け入れてくれた。
「そうですか~。他にも綺麗な顔したお兄さんもいたのに……」
「綺麗なお兄さん?」
その言葉だけで、とある1つの顔が思い浮かぶ。
「秋山海斗さんっていうんです! そもそも、遊ぶことになったきっかけも海斗さんの青春計画? なんですよ」
彩葉ちゃんは元気いっぱいに答える。
あまりにも聞き慣れている名前に、もはや驚くこともなかった。
青春計画か……。
今の海斗君にピッタリな計画だな。
それなら、尚更私が行くことはできない。
「それじゃあ、その綺麗なお兄さんとお姉さんの3人で楽しんできてね」
「はい! お姉さんにお土産買ってきます!」
彩葉ちゃんはクレープを食べ終えると、ひょいとベンチから降りてクルリと振り返った。
「楽しみにしてるね」
私たちはベンチで別れ、夕日を背に大きく手を振って飛び跳ねる彩葉ちゃんに、私も手を振って見送った。
「それでは、またー!」
「またねー! ……彩葉ちゃん」
か細く呟いた名前は当然彩葉ちゃんに届くはずもなく、彩葉ちゃんはクルリと回って自分の帰路についた。
彩葉ちゃんを見送った私は、近くにあった手すりに寄りかかって、地平線に半分以上隠れた夕日を眺めていた。
沈む夕日は遠くにあって、けれど確かに温かさを感じる。
それは、彼という人間と、私との距離を物語っているようだった。
濃紺とオレンジ色が交じり合う空に、彼の顔が浮かぶ。
「海斗君……」
きっとこの先、彼の前でこの名前を呼ぶことも、彼から私の名前を呼んでくれることもないだろう。
だから今は、彼の名前を微かにでも口にすることを許してほしい。




