灰色の夜、白への願い
~old memories~
【淡々とした少年】
夏の本番を告げるように蝉時雨が降り注いでいる頃――。
僕と“その人”はいつも通りスタッフの目を盗んで外出していた。
「ミーちゃん。今日はどこに行こうか」
行く宛はこんな風に歩きながら決めるのだが、たいていは“その人”が決めていることが多い。
“その人”に主導権があるのではなく、単に僕自身行きたいとかやってみたいことが無いのだ。
だから、今日もずっと引きずりながら、最後は“その人が”決めてしまうのだろうと気持ちは諦めの方に傾いていた。
「危なーい!」
僕が熟考していると、遠くから少年の声が聞こえてきた。
声の方を向くと、1つのサッカーボールが僕の顔めがけて強く飛んできた。
僕の反応では、とても避けきれなかった。
だから、せめて痛みは極限まで抑えようと、顔に力を入れて受け止める姿勢をとった。
しかし、当たると思っていたサッカーボールは誰かの長い脚によって宙に浮き、落下したボールは長い脚によってまた垂直に浮かされ、そのまま安定したリフティングを続けた。
僕を助けてくれた足を辿ると、そこに映っていたのは“その人”だった。
「ミーちゃん、怪我はない?」
“その人”は楽しそうにリフティングしながら、僕の安否を窺う。
「大丈夫です。……ありがとうございます」
僕の無事を確かめた“その人”はボールを少し高く浮かせると、そのままボレーで持ち主の子供に返した。
その圧倒的な技術を目の当たりにした子供たちから、歓声の声が上がる。
「サッカーお上手なんですね」
「でしょ。なんたって私には、サッカー王国の血が入ってるんだから」
“その人は”誇らしげに腰に手を当てて、高い鼻を鳴らす。
すると、遠くでサッカーボールを受け取った少年たちが、こぞって僕たちのところに集まってきた。
「お姉さん。俺たちにサッカーを教えてください」
1人の少年が“その人”に向かって懇願する。
「君も一緒にサッカーしない?」
そして、もう1人は清々しく僕を誘ってくれた。
「ん~、私は構わないんだけど……」
僕を見て悩んでいる“その人”に、袖を掴んでこう答えた。
「僕もサッカーをやってみたいです」
その時の僕は無意識に鼻息を荒くしてしまったけれど、心の底にあった期待や興奮がこみあげてきて、今まで締め付けていた欲を抑えきれなかった。
初めて僕の口からやってみたいことを言えた気がした。
そんな僕の心は最高に清々しい。
「……それじゃ、やろっか!」
それは“その人”も同じようで、僕の手を引っ張り公園の運動場へ颯爽と駆けていった。
◇
【秋山海斗】
「……俺に何か隠してるでしょ?」
夜風が陽炎の長い髪を揺らした。
すると、陽炎は下ろしていた腰を元に戻して、手をズボンのポケットに突っ込んだ。
そして、おもむろに口角を上げて、目尻が柔らかく下がった。
「……やっと、気付いてくれましたか」
その表情はまるで、背負わされた重荷から解放されたように映った。
俺の入院生活が始まってから初めて陽炎に会った時のこと――。
『陽炎って美奈と面識あったんだ』
『ついこの前、兄貴が俺の家に来る約束してたじゃないですか? そん時に来なかったから心配で兄貴の家に忍び込んだらバッタリと……』
『俺が陽炎の家に?』
『あー、まぁ、咲が兄貴に会いたいってごねるんで、そんで来てもらおうって話になって……』
あの時、陽炎は目線を斜め上に逸らしていた。
それは、嘘をついている時で、同時にそのことに気づいてほしいというメッセージでもある。
陽炎の返した言葉と表情から察するに、誰かに口止めをされているに違いない。
そして、口止めをしている人物も検討がついている。
「美奈に言われてるんだね」
俺の推察に陽炎はフッと感嘆の息を漏らした。
「兄貴は何でもお見通しですね」
「でも、何を隠しているのかまでは分からない。陽炎は本当のことを知ってるんだよね?」
「……はい。でも……」
陽炎の表情が陰りを落とす。
きっと、事の真相を訊かれることに拒んでいるのだろう。
だから、俺は陽炎にこう告げた。
「それでも、陽炎からは訊かない」
「……え、いいんですか?」
陽炎は少し驚いたように声を上げた。
「多分、これは俺だけで解決しなくちゃならないことだと思うから」
「兄貴……」
陽炎は右手の拳を強く握りしめる。
すると、陽炎は俺に背を向けて、空から照らし続ける月を見上げた。
「俺、今から独り言を言うんで、兄貴はただそこで突っ立っててもらっていいですか? 耳も塞がないで」
「陽炎……」
陽炎は口をすぼめて息を吐き、月に向かって言葉を放つ。
「俺はある人から命を受けて独りの少女を助けました。でも、俺を頼ってくれた人は約束の時間になっても来てくれなくて、結局会えず終いでした」
由々しい雰囲気を作る陽炎の語り口と、吹き荒れる夜風で緊張感が伝わってくる。
「その人とは無事に会えたので、今となっては約束なんてもうどうでもいい。1番大事なのは、その人が自分の意思で少女を助けようとして、その為にこの俺を頼ってくれたことなんです。俺が大切に思っているその人は、自分の意思で何かをすることが苦手な人だったので」
陽炎は月を見上げるのを止め、誰もいない闇に目を向けた。
「でも、その人はもうこのことを覚えているのか、俺には分かりません。……でも、もし忘れてしまっているのなら、思い出した方が良いと思ってます。そんでもって、これからは自分のことも、みてやってほしいと切に願ってます」
「……」
「俺の独り言、これでお終いです」
全てを言い尽くした陽炎は俺の方を振り返り、満足げに顔中をくしゃくしゃにして笑って見せた。
「ありがとう。話してくれて」
「兄貴に話したんじゃなくて、ただの独り言ですって。断っておきますけど、その人が誰のことなのかは言えませんからね」
陽炎はにんまりとした口に人差し指を立てる。
「うん、分かってる」
「それじゃあ、俺はこれで。頑張ってください、兄貴」
「ありがとう。また明日ね」
踵を返して帰路につく陽炎に、俺は小さく手を振って見送った。
陽炎の姿が見えなくなったら、俺は自動ドアを通って建物に戻る。
すると、灯りの無いフロントに1人の人影が映った。
人影は月明かりによって姿が明かされる。
そこにいたのは、柱に背を預けて腕を組んでいる美奈だった。
「随分と長く話し込んでいたようね」
美奈が柱から離れて、コツコツと甲高い足音をたてながら、こちらに近づいて来る。
「七生はもう寝たの?」
「無理矢理寝かしつけた。それで、陽炎君と何の話をしていたの?」
美奈は訝し気に眉を顰める。
「ちょっと、励まされてただけ。おかげで、明日からのリハビリも頑張れそう」
「……そう、それは何よりね」
俺は歩き慣れない足を懸命に動かして、美奈の横を通り過ぎる。
「海斗」
美奈に名前を呼ばれ、俺は足をピタッと止めた。
「……退院したら、あなたはいつも通り過ごしなさい」
これ以上は迷惑をかけるな。
そんな風に言われた気がした。
「分かってる。でもさ……」
伝えたい想いが一瞬揺らぎ、言葉が途切れる。
俺は気持ちを整理するように軽く息を整え、再度口を開いた。
「もし、俺にやりたいことができたら、美奈は協力してくれる?」
「そんなの、事と次第よ。あんたが黒く染まろうとするなら、私は力づくで白に塗り替える。私はそれだけよ」
とても、現実的な考え方だ。
「でも、今のあんたは若干黒くなった灰色といったところね。しかも、そのことに自分自身で気づけてない」
美奈は嫌悪感駄々洩れの顔を俺に寄せてきた。
「それって、俺が学校に行ってないこと?」
「学校は関係ない。私だって高校はほとんど行かずに勉強してたんだから」
「だから、友達いなかったんだね」
「その左腕、治せなくなるまで粉々にしてあげましょうか」
医者がそんなこと言って大丈夫なのだろうか……。
とりあえず、美奈はため息をついて、心を落ち着かせる。
「とにかく、あなたを黒く染めているのは学校じゃない。それに、分からない方が自分のためになると思うから、今日はもう余計なことは考えないで寝なさい」
美奈は白衣のポケットに手を突っ込んで、今日1番の大きな溜息をついた。
「これじゃあ、まるで母親ね」
美奈はそんな愚痴を零しながら、俺の横を通り過ぎる。
「……母親じゃないよ」
ふと、俺の口から零れてしまった言葉に、美奈はスッと足を止めた。
「美奈は俺の……姉だよ。母親じゃない」
「そうね。私が母親なんて、とんだ思い上がりだったわね」
背中で聞いていた美奈はその言葉だけを残して、1人暗闇の廊下へ去っていった。
そして、取り残された俺も覚束ない足で、自分の病室へ戻った。




