記憶を揺らすゴールネット
~old memories~
【淡々とした少年】
ここは病院の中ーー。
そのはずなのに、今僕は体育館のような広い場所にいる。
そこには僕だけじゃなくて、同年代くらいの子供や年配の人たちが綺麗に並んだパイプ椅子に座って、今か今かと待ち侘びている様子だった。
すると、天井の照明が全て消え、それまでザワザワしていた空間が一転して静まり返る。
そして、目の前の舞台にスポットライトが当てられ、そこにはお姫様のようなドレス衣装を身に纏った”その人”の姿があった。
そう、これは入院中の患者に向けた演劇会なのだ。
”その人”は学生の頃、演劇部に入っていたことがあるそうで、当時も常に主役を務める程の実力があったらしい。
そして、今回の演劇で悪役の立場として出演しているのはミッちゃんだ。
どういう経緯で悪役を引き受けたのか定かではないが、いつも僕にしているような見下す態度を主役の”その人”にぶつけていた。
日頃の積み重ねの賜物か、芝居が堂に行っている。
この演劇会を最初に提案したのは、この病院の院長でもなければ職員の誰でもない。
言い出したのは、目の前で舞台の主役として立っている”その人”自身だ。
患者や職員からの支持が厚かったのは知っていたが、ここまでの特権を要していたとは思わなかった。
そして今、”その人”がこの病院にいる皆にとって特別な存在であることを、僕の内側で改めて認識させられた。
「大丈夫。貴方の優しさは人々を幸せにしてくれると信じています」
”その人”がセリフを言うと、心なしか相手の王子役ではなく、その先にいる僕に目を向けている気がした。
◇
【秋山海斗】
病室の朝は小鳥の小さなさえずりが、静かな空間に目覚まし時計として俺を優しく起こしてくれていた。
しかし、今は……。
「海斗ー! おっはよー!」
七生という名のガビチョウが、俺の顔に目掛けて唾を飛ばしながら叫ぶ。
「おはよう、七生」
俺は半目になりながら、七生に挨拶を返す。
ただでさえ、怪我を負って痛んでいる頭に、七生は骨を通り越して、脳にまでダメージを与えていた。
「昨日は助かった。今日もよろしくな!」
「分かってる」
俺はショボショボする目を開けるために顔を洗って、鏡で自分の顔を見ると、思った通り、目の下にはクマができていた。
「七生は朝ご飯食べたの?」
「今日もここで食うー!」
七生と再会してから俺の入院生活は大きく変わっていた。
まず、朝は七生に起こされるところから始まる。
俺の病室で一緒に朝ご飯を食べた後、七生は病院を脱走して学校へ行き、俺は中井さんの協力の下リハビリに励む。
七生は陽炎が捕まえ次第病院に戻るのだが、たいてい学校が終わっている頃だった。
陽炎が七生の気持ちを汲んでいるのか、七生の逃げ方が上手いのか真相は分からない。
とにかく、七生が病院に戻ってくると、決まって俺の病室に入ってきた。
「よっ、ただいま!」
「おかえり。学校どうだった?」
「実は同じクラスの田中がさ~……」
こうやって、七生の学校での話で盛り上がり、時間はあっという間に過ぎていくのだ。
たまに涼花もその輪に入っていて、二人は既に学校で知り合っているそうだ。
「……そろそろ行くか」
七生の表情が急にこわばる。
「……うん」
俺も緊張が走るように、一瞬間を置いて返事をした。
時間はもうすぐで17時を回ろうとしている頃。
俺たちは病室を出て、長い廊下を歩いた。
今の俺は右手両足の状態は順調に回復しており、ギプスは付いているものの松葉杖の必要は無くなったので、ある程度は自由に移動ができる。
因みに首の完治にはまだ時間がかかるとのことだ。
階段は七生の手を借りて、一段一段ゆっくりと降りる。
そして、また長い廊下を歩くと、ある部屋の前で立ち止まった。
七生がゆっくりと扉を開けると、眩しい光の中からたくさんの笑い声が聞こえてきた。
扉が完全に開かれると、笑い声の主たちが俺たちに振り向く。
「あら~、七生ちゃん!」
そして、一人の老婆が待っていたと言わんばかりに、七生と俺に手を振った。
「よっ! 孝子のばあちゃん。そろそろだね」
「今日は来てくれてありがとう」
七生は孝子さんと呼ばれる人の右隣の席に座る。
俺も七生の左隣に座って、学校の体育館並みに広い部屋の周囲を見渡した。
目の前には100インチ程の大きなテレビが高い位置に付けられ、画面にはテレビCMが流れている。
そして、俺の近くには孝子さんと同じくらいの年配者が、それぞれのテーブルで楽しそうに会話していた。
その中に世話役の看護師さんが混じっていて、身体が不自由な人たちのサポートをしている。
年配者の中には人の名前が書かれた派手なうちわを弱弱しく左右に振っている人もいた。
「そちらのお兄さんは見ない顔だけど、七生ちゃんの彼?」
孝子さんはにやけ顔で訪ねてくる。
「どっちかって言うと昔馴染みの友達かな」
「秋山海斗です」
七生の説明に乗っかって、自己紹介する。
「安藤孝子と言います」
孝子さんは曲がった腰を小さく折る。
すると、流れていたCMが終わり、真剣そうに前を向いた一人の男性の顔がドアップで映し出された。
「孝子さん。始まったよ」
隣のテーブルに座っていた老婆が孝子さんに声をかける。
孝子さんはテーブルに置いていたうちわを手に取り、画面に向かって振った。
青い背景のうちわには「舟ちゃんふぁいと!」と白い文字が書かれていた。
「孝子さん。あんたの孫が映ってるべ!」
さっきとは別のテーブルから老爺が興奮している。
どうやら、最初に映った男性は、孝子さんのお孫さんのようだ。
俺はここでようやく、この状況を作った理由を察する。
「七生、この集まりって……」
「ああ、今日は孝子ばあちゃんの孫の応援だ!」
七生の話によると、孝子さんのお孫さんはプロサッカー選手で、今は日本代表のキャプテンを任されているらしい。
少し前までは旦那様と病室のテレビで一緒に応援していたそうだが、先日旦那様が亡くなってしまったそうだ。
それを知った七生は院長である美奈に直談判して、このパブリックビューイングのような集まりを開いたのだ。
招かれた人たちは皆、孝子さんがこの病院で仲良くなった人たちらしい。
そして、微力ながら俺もこの集まりに向けてのセッティングや伝達役に携わったので、七生直々に招待されたのだ。
陽炎も俺と同様にこのプロジェクトに関わっていて、七生から招待されているのだが、保育園に預けた妹達を迎えに行くので、少し遅れるそうだ。
そうこうしているうちに入場のアンセムが流れ、選手達はエスコートキッズと手を繋いで歩き始めた。
アンセムが終わるとお互いの国歌斉唱が始まった。
重厚感のあるメロディが特徴である日本の国歌が先に流れると、代表選手達は口パクを疑う程ささやかな歌声だった。
対して、今日の対戦相手であるウルグアイは、選手全員が腹から声を出して、自国の国歌を全力で歌っていた。
日本に比べて気迫も違えば、歌の長さも倍以上差があった。
「今日の相手は強いの?」
興味本位で七生に訊いてみると、俺を一瞥して画面に向かって口を開いた。
「ああ、初代世界王者だ。だから、日本とは積み重ねてきた歴史が圧倒的に違う」
言葉を捲し立てる七生の解説によると、ウルグアイという国は南米の中でも3本の指に入る程の実力を持つチームらしい。
しかし、最後に世界王者に輝いたのは70年も前の話であり、今は古豪という位置付けが正しいといえるとのことだった。
「もちろん、今でも世界基準の選手は何人かいるけど、今日はそのうちの1人は出れないみたいだな」
七生はテーブルに並べられた饅頭をつまむ。
「何があったの?」
「前の試合で相手選手の肩に噛みついて、代表戦9試合の出場停止だってさ」
「……サッカーってそんなスポーツだったっけ?」
「まぁ、一時的な感情の昂りってやつだよ。それに、ヨーロッパとか南米だと、サッカーはスポーツじゃなくて戦争だ」
「それ、なおさら危ないんじゃないの?」
「本物の戦争よりはよっぽどマシなんじゃないか? 人が死ぬわけじゃないし、本物の戦争への抑止力にもなる」
七生は再び饅頭を手に取ると、半分に割って片方を俺に手渡した。
「それどころか、サッカーの力が国の内戦を止めたことだってある」
そして、七生は頬杖をつき、歯を剥き出しに笑ってこう言う。
「サッカーは世界を繋げる最強のスポーツで、人が死なない最高の戦争なんだ」
CMを挟んで両チームとも自分の陣地で、それぞれ与えられたポジションに立って軽くウォーミングアップしている様子が流れた。
そして、映像はピッチ全体を俯瞰するように映され、2人の日本人選手がセンターサークルに立っていた。
審判が笛を吹くと、センターサークルにいた1人の選手がちょこんとボールを蹴って、もう1人の選手が後ろにいる選手にパスを出して、試合が始まった。
すると、俺の周りは「日本! 日本!」と、歳不相応に元気よく声を張り上げた。
「バモーー!」
七生もスクリーンに向かって、スペイン語で応援する。
因みに、スペイン語はウルグアイの公用語である。
「七生、もしかして相手の方応援してない?」
「そんなわけないだろ。ちゃんと祖国に向けてるって」
どうやら、七生自身完全に理解はしていないようだ。
すると、試合開始からたったの24秒で、日本が先制ゴールをあげ、周りが歓声を上げる。
俺も手を痛めない程度に拍手を送ったが、七生だけは唖然としたように口をポカンと開けていた。
「嬉しくないの?」
俺が訊ねると、七生は顔に手を当てる。
「いや、ちょっと急過ぎて。相手は強豪だぞ?」
有識者にとってはこのような展開は珍しいそうだ。
「まさか、国歌斉唱に全力を注ぎ過ぎて、試合前に力尽きたんじゃないだろうな……」
画面にも七生のように開いた口が塞がらないウルグアイの女性サポーターが映し出されていた。
一方、サッカー被れの常識を知らない年配者たちは、体の負担が心配になるくらい盛り上がっていた。
孝子さんも興奮して、俺の肩を掴んで左右に揺らす。
ゴールを決めたのは孝子さんの孫である安藤選手なのだ。
「やったー! 舟ちゃーん!」
孝子さんの興奮は収まることを知らず、画面に向かって孫の名前を叫んだ。
「良かったな! 孝子のばあちゃん!」
「ありがとう、七生ちゃん」
嬉しさのあまりに目から涙の粒を浮かべていた孝子さんを、七生はギュッと抱きしめる。
「しっかし、安藤が決めるとはなぁ」
七生は珍しいものを見たかのように感嘆を漏らす。
「そんなに意外なの?」
「いやぁ、安藤はどっちかっていうと中盤の守備的な選手なんだよ。得点するタイプの選手じゃないんだが、まさかあんな遠くからシュートを打つとは思わなんだ。ヨーロッパのビッグクラブに行ってそこまで成長してたんだな」
七生は感心気に頷く。
この異常なまでのサッカー知識を目の当たりにして、思い出したことがある。
それは、七生が昔からサッカーの観戦が大好きで、俺も応援に付き合わされていたこと――。
今と変わらず精一杯声を出して、ゴールが決まればベッドの上ではしゃいでいたこと――。
――そして、俺と七生以外にも一緒に応援していた人がいたような気がすること。




