いえない理由
【夕暮れの廊下で】
オレンジ色の光が差し込む廊下で、男と女が並んで歩いていた。
静寂な空間の中、男からはずっしりとした鈍い足音を、女からはコツコツと高い足音をそれぞれ奏でている。
すると、ズボンのポケットに手を入れていた男がふいに足を止めた。
それに気付いた女も足を止めて、男の方を振り返る。
「どうかしたの?」
男の浮かない顔を見た女は首を傾げる。
「いや……このままでいいのかって思っただけっすよ」
男は気まずそうに目を逸らして後頭部を掻く。
「それって、“あの子”のことを言ってるのかしら?」
女が訊くと、男は小さく頷く。
すると、女は窓からオレンジ色に染まる街並みに目を向けた。
「最初は私が無理矢理追い出したとはいえ、最後は自分の意思で決めた。これ以上あいつを傷つけたくないからと。だから、その思いを尊重するべきだと思うの」
「そりゃそうですけど……わざわざ嘘ついてまで隠し通す必要あったんですか?」
「今の私は保護者としてあいつを守らなければならない。そして、あの子の想いを形にするにはこうするのが最適解だと判断したまでよ」
男はどこか腑に落ちなさそうに首をかしげる。
「少なくとも今は片方が忘れていて、もう片方は再会を望んでいない。そんな二人がもしも邂逅を果たしたのならば、その時は運命として受け入れるしかない」
「あなたはこの選択が正しいと思っているんですか?」
「決して正しい行いだとは思っていないけれど、覚悟はもうできているから」
「……覚悟って何のですか?」
「嫌われたり、恨まれたりする覚悟よ。私はただ、ある人のためにあいつを保護しているだけ。要するに、私はその人に報いるためにやっているだけなのよ」
「それじゃあ、もし縁を切られたらどうするんですか?」
「それは有り得ないわ。今のあいつは私の保護無しでは生きていけないもの。でも、もし縁を切ると言い出して来たら、一人でも生きていけるという証なのだから、私の役目が勝手に終わるだけよ」
「あなたはそれでいいんですか!?」
男は女の白衣の襟を掴む。
「言ったでしょ? 私はある人のためにやっているだけだと」
女は固い意志を訴えるように鋭く男を睨んだ。
男はその目に屈して掴んでいた襟を離す。
「そんなに人のことばかり気にかけるなんて、あなた案外優しいのね」
「別に最初からそうだったわけじゃないっすよ。あの人と一緒にいたら、いつの間にかこうなってただけです」
「そう。それなら、その誰かさんには感謝しなくてはね」
「あなたはその誰かさんのこと、一生分からないと思いますよ」
男は捨て台詞を吐き、一人鈍い足音を響かせながら去っていった。
◇
【秋山海斗】
空はすっかり暗闇に染まり、外の風が冷え込んでくると、俺と七生はキリのいいところで雑談を止めて室内に戻った。
帰りの移動中も七生に車椅子を押してもらったのだが、階段を一段一段降りる度に大きな振動で太腿の裏が悲鳴を上げた。
あまりにも雑だったので、また怪我をしないか心配だったが、一番案じていた左腕はなんとも無かったので、一安心だ。
七生は俺を病室まで運ぶと、手を振って自分の病室に帰っていった。
一人になった病室で俺は夜空に光る星を窓から眺めていた。
すると、病室の扉が一人でに動き、その向こうには陽炎の姿があった。
「そろそろ面会時間終わるんじゃない?」
「美奈さんから許可貰ってきたんで」
陽炎はベッドの横にあるスツールに腰掛ける。
「それより、どうでしたか? あいつとの時間は」
「数年ぶりだったから、変わったところもあるけど……なんというか、大胆なところは変わってなかったかな」
「あいつ、昔からそうだったんですか」
陽炎は少年に戻ったように無邪気に笑う。
「それで、どんなこと話したんすか?」
「昔の思い出とか、今どうしてるかとか。後は……」
『あいつには病気のこと言わないでくれ』
七生の言葉が頭に流れる。
「陽炎の悪口……かな」
分かっている。
俺からは口が裂けようとも、陽炎には伝えない。
「あんにゃろう……俺がいないのをいいことに……次会ったら頬ぶっちぎる……」
陽炎はすごい剣幕で、天井を睨みつける。
俺の病室の真上は七生が過ごしている病室なのだ。
「まぁでも、心の底から憎めるようなやつでもないんですよね。兄貴はもう知ってるだろうけど」
陽炎は後頭部に腕を回し、壁に寄りかかって寛ぐ。
「だからなのかな。今のところ喧嘩ばかりだけど、あいつのこと、嫌いになる気がしない」
陽炎は切なそうに笑みを浮かべ、床に視線を向ける。
「陽炎は七生のこと、どう思ってる?」
「めっちゃ、ウザい!」
迷いの無い早さと、力の入った物言いだった。
すると、天井からドンッドンッと、床を叩きつけるような音が聞こえてくる。
七生の仕業に違いない。
「うっせぇ!」
陽炎が上に向かって怒鳴りつけると、天井の向こうからコツコツと高い足音が聞こえてきた。
おそらく、誰かが七生の病室に入ってきたのだろう。
すると、ペチンッと引っ叩いたような音と、断末魔が鳴り響く。
そして、高い足音は遠くへと消え去っていった。
「へっ、ざまぁ無いっすね」
「そうだね」
すると、今度は扉の向こうから同じ足音が聞こえ、この病室に近づいてくる。
手荒に扉が開かれると、陽炎よりも悍ましい剣幕をした美奈がいた。
美奈の右手には若干赤みを帯びている。
「周りに迷惑がかかっているのが、分かってないのかしら?」
「す、すいません……」
これには、陽炎も猫背で小さくなっていた。
「これ以上騒がしくするならもう帰って」
「はい……」
陽炎は老人のように立ち上がり、トボトボと病室を出ようとする。
さっきまで、元気に騒いでいた人とは思えない程の変わりようだ。
陽炎は感情の起伏が激しい。
俺が目覚めた時に泣きついた時も――。
怒って七生と口げんかしている時も――。
七生との昔話をして笑っている時も――。
美奈に怒られて気が沈んでいる時も――。
陽炎はいつだって感情に全力だった。
七生が陽炎に病気のことを言いたくない気持ちが痛いほど伝わってくる。
陽炎が知った時、どん底まで沈んでいく姿が容易く想像できるからだ。
「それじゃあ兄貴、また明日」
「うん、また明日」
陽炎はゆっくりと扉を閉めて、病院から出ていった。
俺はベッドの脇にあるスイッチを押して、部屋の灯りを暗くする。
薄明かりが差し込み、目を閉じた俺は夢の世界へと吸い込まれていった。




