悪夢と安らぎ
✦ ✦ ✦
静寂な空間でコツコツと誰かがやってくる足音が聞こえ、俺はゆっくりと目を開ける。
上を見ても底が無いような深い闇に覆われ、足元にだけ真っ白な光が照らしていた。
そこで、ベッドにいたはずの俺は一人椅子に座っていた。
巻かれていた包帯もどこにもなく、代わりに鎖が腕と体にガッチリと縛り付けられ身動きが全く取れない。
『君は一体何をしているの?』
遠くからやってきた足音の主が俺の目の前に立ち、語り掛けてくる。
銀色の長い髪を後ろに束ねた少年は、後ろ手を組んで不敵な笑みを浮かべていた。
『君は自分が何のために生きているのか、分かっているかな?』
とても甘くて繊細な声で発する言葉は冷ややかで鋭い。
息苦しくて、とても平静を保っていられなかった。
屈したように項垂れる俺を少年は長い前髪の隙間から見下す。
『忘れてはいけないよ。君は幸せになるために生きているんじゃない。君は罪滅ぼしのために一生十字架を背負っていかなければならないんだから……』
少年は俺の耳元にか細い声で言うと、深い闇の向こうに消えていった。
力尽きた俺は静かに目を閉じた。
◇
【秋山海斗】
「……っ」
息が喉の奥で引っかかり、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
天井は白く、夜の病室は静まり返っていた。
聞こえてくるのは自分の微かな呼吸音だけ。
全身は冷たい汗が滲んでいた。
背中はじっとりと濡れ、湿った空気が肌に張りついている。
夢の名残がまだ体の奥に巣くっているようだった。
右手を動かそうとして、ギプスの重みと鈍い痛みで思い出す。
ここは病院で、俺は……怪我をしている。
動けるはずがない。
だが、さっきまで縛られていたのは夢の中か現実か、判断がすぐにはつかなかった。
──君は幸せになるために生きているんじゃない。
あの声は今でも耳の奥にこびりついている。
音ではなく感触として――。
空気の震えとして――。
まるで、本当に囁かれたかのように――。
俺は天井を見上げたまま、ただ呼吸を整えた。
驚いたわけでも、怖かったわけでもない。
ただ、妙に胸のあたりがざらついていた。
翌日の入院生活は不便なことばかりだった。
今の俺は聞き手の右腕と両足が自由に動かせない状態だ。
食事の時は利き手が使えず、逆の手でスプーンを持つが、慣れない故に時間がかかる。
それ以外にもトイレや歯磨き、着替えなどの単純なことでも利き手が使えないだけでこんなにも難しく感じる。
だから、基本的には余計に動かず、窓から見える景色を眺めるか、寝るだけの時間を過ごすしかないと思っていた。
ただ、俺の一日はそんな退屈な時間を変えてくれる人がいた。
「こんにちは~、海斗君」
夕方になると、このように学校帰りの涼花がお見舞いに来てくれる。
そして、入院中の一日を話すと、涼花は気を利かせて漫画や小説を持ってきてくれた。
そのおかげで、退屈だったベッドの時間は数多の本で埋め尽くされていった。
「今日も本を持ってきてくれてありがとう。これ、面白かった」
俺は読み終えた本を涼花に返す。
「いえいえ~。お役に立ててこちらも光栄ですよ~」
涼花は本を手に取り、自分の鞄にしまった。
「お怪我の具合はどうですか?」
「前よりはだいぶマシになったかな。まだ動かすのは無理だけど、もうすぐでリハビリできるみたい」
「それは良かったです~。早く治して、また学校に行けると良いですね!」
「そうだね。でも、少なくとも今学期中は多分無理だと思う」
「そうですか……。でも、仕方ないですよね! 今は海斗君の体の方が大事です!」
愁いを帯びた目を潰すように、涼花は目一杯笑顔を浮かべた。
「海斗君が戻ってくるまで、私が海斗君の手となり足となりましょう!」
「……ありがとう、涼花」
すると、涼花は思い出したかのように「あっ」と目を見開き、鞄の中をゴソゴソあさる。
そうして、出てきたのは数枚のプリントだ。
「そういえば先生から宿題預かっていたのを忘れてました」
中身を見てみると単なる宿題だけでなく、朝の小テストも含まれている。
「全部やれば夏休みの補習を一部免除できるそうですよ」
「それならやるしかない」
そう意気込んだものの、今は右手が使えない。
選択問題なら一文字書くだけなので問題ないが、英単語や数学の途中式は文字数が桁違いだ。
残された左手を見て覚悟を決めようとしたその時、涼花が嬉しそうに下から覗き込む。
「早速出番のようですね!」
すると、涼花はベッドサイドテーブルをベッドの真横につけ、プリントをテーブルに広げた。
「まずは、何から始めましょうか?」
涼花は得意げにペンを回す。
「宿題なら自分でできるよ」
「もちろん問題を解くのは海斗君ですよ。私はあくまで海斗君の手になるだけなので」
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は問題が見られるところまで近づこうとすると、顔が涼花の肩に触れる。
「う、うぇぇ海斗君!?」
動揺した涼花は瞬間的に当たった肩を引っ込める。
「ごめん。問題よく見えなくて」
「そ、そうでしたか。ふぅ~」
涼花は熱くなった顔に手で仰いで冷ます。
「やっぱ、俺一人でやるよ。左手なら使えるから」
「だ、大丈夫ですよ! さっきのはちょっと驚いただけなので」
「でも、涼花の字で書いたら、かえって疑われるだろうし……」
「それなら、こうしましょう! 私がペンを持っているので、海斗君は左手で私の手を動かしてください。これなら、海斗君の字になります!」
俺がそのまま左手を使うのと変わらないのではないかと思わなくもない。
でも、せっかく涼花が提案してくれたので、とりあえず実践してみることにした。
まず、俺の左手を右側にある涼花の手まで移動させようとする。
しかし、移動中に上体がバランスを崩してしまい、頭から落っこちてしまった。
運良く頭は床にぶつからず、柔らかい場所に着いたようだ。
頭を少し上げて目を開けると、視界には真っ黒な布地が広がっていた。
「か、海斗君……」
見上げると、涼花がさっきよりも真っ赤な顔で俺を見降ろしている。
先ほどの黒い布地を改めて見てみると、涼花のタイツだった。
「ごめん。思ったより態勢とるのが難しくて……」
「い、いえ、気にしないでください。主人公がヒロインの太腿に乗っかっちゃうくらい、漫画なんかではよくあることですよ!」
それは現実でもあっていいものなのだろうか。
「それより……」
涼花は恥ずかしそうに目を反らす。
「もしかして、見えちゃいましたか?」
涼花の言動で俺は全てを察した。
このシチュエーションは涼花から借りた漫画の中で、時々見かけるやつだ。
「大丈夫、何も見えてなかった」
漫画の主人公は答える時によく動揺するが、主人公じゃない俺は淡々と答える。
大体、動揺するから嘘がバレるのではないだろうか。
その点、俺はいつも通りなので、涼花も安心してくれることだろう。
「……そうですか。それは良かったです」
言葉ではそう言うが、顔は不気味なほどに無を貫いていた。
……思っていた反応とは少し違った。
「やっぱり、オーバーベッドテーブル借りるよ。申請すれば、空き次第手配してくれるし」
「じ、実は提出期限が明日までの宿題もあるので、その……」
涼花の語気が次第に弱くなっていく。
「涼花、もしかして無理してる?」
「い、いえ、そんなつもりは……ただ……」
涼花は一度落ち着くと、浮かんだ笑みを隠すように視線を下ろした。
「私は海斗君の力になれている時が何よりも嬉しいのです。だから、そう思えている間は多少の無理も厭わないだけです」
「そうなんだ……」
でも、どうしてそれが俺なのか……。
それを訊く勇気が無かった。
口にしてしまえば、離れていきそうな気がして――。
今の関係が壊れて、もう二度と戻せないような気がして――。
俺は涼花から目を反らす。
「なんか、ごめんなさい。気を遣わせちゃってますか?」
「そんなことは……」
反射的に否定しようとした口が止まる。
「海斗君の方こそ、無理してるじゃないですか」
図星を突かれ見事にブーメランを受けた俺は、反論の余地も無く沈黙した。
「私は私が優しいと思った人にしかこんなことしません。私にとって一番近い人が海斗君だったというだけですよ」
涼花は自身に満ち溢れた屈託のない笑顔を見せる。
君は俺の何を知っているんだ……。
そんなありきたりな言葉も全て飲み込んだ。
きっと、それは涼花を傷つけるような言葉だから。
結局、俺自身も涼花となんら変わりなくて、心の中ではずっと無理をしてきたのかもしれない。
「ありがとう。俺のこと、優しいって言ってくれて」
「お礼には及びませんよ」
そう言って、柔らかく微笑みかける。
もし、涼花が俺のことを深く知った時、幸せそうな彼女の笑顔は消えてしまうだろうか。
――ふと、あの言葉を思い出した。
『君は自分が何のために生きているのか、分かっているかな?』
身体には嫌な汗が流れていて、さっきまで呼吸が止まっていたかのように肩で息をする。
そして、夢の中にいた少年を思い出すと、胸の奥から何かが沸々と湧き上がってくる。
鼓動が早くなり血の気が引き、身体中に悪寒が走り小刻みに震えていた。
そんな自分を守るように動かせる左腕で、心臓を抑えた。
「海斗……君?」
心配そうに呼びかける涼花の声にも、応える力が出なかった。
彼の突き刺すように見下す視線と、心を凍り付かせるような言葉が頭から離れない。
すると、俺の頬が何かに触れた。
そこに目をやると白くて細い人差し指が俺の頬を突いている。
指先から腕を伝って顔に辿り着くと、涼花が安心した表情で俺を見ていた。
「落ち着きましたか?」
涼花はにっこりと笑いながら、突いた人差し指を丸くなぞる。
――まただ。
いつかの帰り道のように、何かが溶かされていくような感覚――。
一瞬だけ許されたようなあの感覚――。
早くなっていた鼓動が平常に戻り、冷え切った体が温かくなっていく。
俺は頬をなぞる涼花の指を左手で掴み、指を全部開いてまた自分の頬にそっと置いた。
涼花は俺の不意な行動に対してピクッと一瞬体を震わせていたが、拒絶はしなかった。
「これ……すごく落ち着く」
「そ、そうですか……」
涼花はこちらを赤らめた顔を見られたくなかったのか、俺から目を逸らした。
「まだ、こうしていますか?」
「うん……」




