薄らぐ記憶と、なでしこの香り
~old memories~
【淡々とした少年】
「けほっ……けほっ……」
季節がそろそろ夏に変わろうとしている時、僕は風邪をひいてしまった。
僕だけではないかもしれないが、季節の変わり目はどうしてもこうなってしまう。
多少咳が出る程度ならマスクを付けて無理矢理登校しているところだが、今は歩くこともままならず江坂からは「今日は休むように」と釘を打たれてしまった。
お昼御飯のお粥を食べたら布団に入って寝なければならないのだが、朝の間にたくさん寝てしまったので寝付けない。
喉の痛みと熱くなった体温が体を蝕み、今にも魂が体から抜けてしまいそうな感覚だった。
何もせずジッとしていると不安だけが募っていく。
長い時間布団に入ったことによって中が汗で蒸れ、気持ち悪くなった僕は上体を起こして、江坂が用意してくれたタオルで体を拭いた。
すると、窓の方からガタっと何かが当たったような音が聞こえてくる。
窓は僕の身長では届かないくらい高いところにあって、見上げるように窓の方を見た。
すると、そこには乱れた長い髪を顔に垂らした女の姿があり、前髪の隙間から獲物を見つけたような目でこちらを凝視していた。
「ミーちゃーん……ミッケ……」
僕はそんな妖怪のような女を目にするや、パタリとベッドの上に倒れてしまい、眠れずにいた昼から一変して夕方頃まで眠り続けていた。
◇
【秋山海斗】
目を開けると真っ白な天井が一面に広がっていた。
体は思ったよりも重くて、無理に起こそうとすると節々が悲鳴を上げる。
右腕には白い包帯が巻かれていて、頭にも同じ包帯の感触がある。
あたりを見回してみると窓際には、花瓶に刺さっているなでしこの花が風に揺れていた。
そして、反対を向くと俺を見て茫然としている涼花の姿があった。
「か……海斗……君」
俺の姿を見るや、涼花の目には涙が浮かんでいる。
「涼花?」
すると、涼花が俺の胸に飛び込んできて、ワンワンと泣き始めた。
泣きじゃくる涼花の鼻水が、俺の病衣にべったりとついてしまう。
「海斗くーん! 目が覚めてよかったです~」
涼花の大声に気づいた一人の看護師が病室の扉から覗くと「先生!」と、慌てて病室を飛び出す。
「ここ、病院?」
俺は涼花の肩を持って、ゆっくりと剥がす。
涼花はハンカチで涙を拭い、ティッシュで鼻をかんで落ち着いた。
「はい……。もう、二度と目が覚めないんじゃないかって……」
「そうなんだ。心配かけてごめん」
俺は顔向け出来ず俯く。
「お体の具合はどうですか? 痛いところとかはありませんか?」
「安静にしていれば、大丈夫」
「そうですか。それは安心しました」
涼花はいつもの笑みを浮かべた。
すると、誰かが病室の扉を開き、コツコツと足音を立ててこちらに近づいて来た。
姉の美奈だ。
美奈は顔色を一切変えず目覚めた俺を見る。
「気分はどう?」
「……今のところ大丈夫」
俺は美奈から逃げるように俯いて呟く。
「美奈さんこんにちは」
すると、涼花がスツールから立ち上がり、礼儀正しく挨拶した。
「こんにちは涼花ちゃん。今日も来てくれてありがとう」
二人は既に面識があったようで、美奈も表情柔らかく返す。
「新しいお花飾っておきました」
そう言って、窓際になでしこの花を飾った花瓶に手を伸ばす。
なでしこの花言葉は『お見舞い』。
『心配しているので早く元気になってくださいね』という涼花の素直な気持ちが伝わってくる。
美奈も「とても綺麗ね」と、なでしこの美しさに見とれていた。
「それでは、ご姉弟で積もる話もあるでしょうから、私はこれで」
「本当にありがとう。学校でも海斗のことよろしくね」
涼花は手早く荷物をまとめ、俺に小さく手を振りながら病室から出ていった。
美奈は涼花を見送ると、涼花が座っていたスツールに腰掛け細長い足を組み、いつも俺に向けている冷たい表情に戻る。
「美奈……その……」
迷惑をかけたことを謝りたかったが、言葉が出てこなかった。
「気分はどう?」
「なんというか……混乱してて」
「どうしてここにいるのか分からないってところかしら」
俺はこくりと小さく頷く。
「あなた、車に轢かれてここに運ばれてきたの」
事実を聞かされても、俺は驚くことなく受け止める。
「私が家に戻った日。急用で病院に戻った矢先、あなたが担架で運ばれた時は驚いたわ。あの時、あなたは家で晩御飯を作ってたはずなのにね」
美奈は疑わしげに目を細め、鋭い視線を俺に突き刺す。
「あなた自身、外で何をしていたのか覚えてる?」
俺は何も巻かれていない左手で口を塞ぎ、その日のことを思い出してみる。
あの日、確かに俺は外に出ていた。
雨の中、住宅街を駆け抜けて、喧騒な街で右往左往している。
でも、分からないことがある――。
――俺はどうしてあの場所にいたのか。
記憶を深堀りするが、脳に限界が来たのか、頭がガンガンと鳴り響く。
「無理しなくていいから」
痛む頭を抑える俺に、美奈はそっと寄り添い、労わるように肩に手を置いた。
「外に出たのは覚えてる。でも、何のためにそうしたのか分からない」
俺は引き出した情報をそのまま美奈に伝える。
「分かった。あなたには全てを話しておくわ」
美奈は足と腕を組んで、自分の話しやすい態勢を作る。
「あなたが事故に遭った日、私たちの家で空き巣が入ったと連絡が来たわ。目撃者の証言によると、私が家を出た隙にピッキングツールを使って入り込んだようだけれど、あなたに気づかれた空き巣はナイフであなたを襲おうとした。あなたは逃げるように家を飛び出したけれど……」
「慌てた俺は赤信号にも気づかず、そのまま事故に繋がった」
「そう。でも、空き巣はもう捕まったみたいだから、そこは安心して大丈夫よ」
話を聞くとやっていることは限りなく陽炎に類似しているが、俺をナイフで刺そうとしたという事実がいまいちピンと来ない。
「犯人はどんな人だったの?」
「たしか……あなたと同い年くらいの女の子と聞いてるわ」
「女の子……」
これで、陽炎の疑いは晴れた。
話が終わると、美奈は置いた俺の肩をゆっくりと動かし、そっと俺をベッドに寝かせた。
「とにかく、今は骨が数本折れている状態だから当分はここでリハビリしてもらうわ」
美奈は俺の体内が映ったレントゲンを見せる。
実際に見てみると、酷い有様だ。
「リハビリはどのくらいかかる?」
「少なくとも、一学期はもう学校には行けないわね。それだと、出席日数が足りなくなるそうだから、夏休みの補習は避けられないって、担任の先生からはそう聞いてる」
「分かった」
「あと、あなたのバイト先にも連絡しておくから電話番号教えて」
「ありがとう」
美奈は俺のバイト先の電話番号を聞くと、病室を出て仕事に戻った。
俺は開いた窓に寝返りを打ち、そこから見える青空を眺めて物思いに耽っていた。




