ニワカアメ
【春香由紀】
美奈さんに連れていかれたのは、見るからにお金持ちが保有していそうな胴体が長い車だった。
私と美奈さんは車の後部座席に並んで座る。
ドアが閉まると運転手がこちらを一瞥し、エンジンをかけた。
どこに行くかも伝えられていない恐怖に足がすくんでしまう。
美奈さんは落ち着いたように、足を組んで窓に映る景色を眺めていた。
「あいつと初めて会った時も、今みたいに感情が薄くて何を考えているのか分からないやつだった」
美奈さんは窓からの景色に目を向けながら、ふいに海斗君のことを語り始める。
「誰であろうと命令には忠実に従い、求められれば満足させるまで頑張ろうとする。自分のことなんて一切考えずにね」
美奈さんが語る海斗君は、私が見てきた海斗君と何ら変わりはない。
窓の風景から目を離すと、今度は私に視線を向ける。
「あなたが家を出てからあいつには晩御飯を作るように言ったの。でも、私の方で野暮用ができてしまって、留守にしている間にこんなことになってた。私の言いたいこと、分かる?」
「……はい」
海斗君が自分の意思で、何かをするはずがない。
だから、私が海斗君に何かしたのではないかと、疑っているんだ。
私は美奈さんから逃げるように俯き、頭の中で言葉をまとめた。
「陽炎君から聞きました。海斗君は私を捜そうとしてくれてたんです。でも、私はそんなこと望んでなくて、どうしてだろうってずっと考えてました」
私の海斗君への印象は、さっき美奈さんが言っていたこととまるっきり同じだ。
だから、美奈さんに追い出された時、海斗君があっさりと受け入れたことにも何の疑問も抱かなかった。
それなのに、陽炎君を利用してまで、私を捜そうとしてくれた。
「教えてください。海斗君がどんな人なのか」
海斗君を殺しかけた分際で、また会えるかも分からないこの状況で、こんなこと言っても否定される予感しかなかったが、私は一縷の望みにかけてそう言った。
美奈さんは小さくため息をつく。
「さっき言った通りよ。あいつは言われたことしかしなくて、感情が薄い人間」
「そう、ですか……」
一番近しい存在の美奈さんでも、海斗君の心の底は不透明らしい。
私はふと思う――。
――彼のことを知る者はこの世にいるのだろうか。
「でも、そうじゃない時期もあった」
その言葉に私は目を見開き、初めて美奈さんと目を合わせた。
「そうじゃない時期って、どういうことですか?」
「あいつに無かった感情を、与えてくれた人がいた。その人はあいつにとって、とても大切な人なの」
「その人って、一体誰なんですか?」
私がそう訊くと、美奈さんは口を紡いだ。
少しの間難しい顔になって、それから言葉を発する。
「これ以上は私の口から言えない」
「そうですか……」
私はしおれた花のように、再び顔を下に向ける。
「……私の方からもいいかしら?」
すると、今度は美奈さんの方から私に、質問を投げかけてきた。
「由紀ちゃんはいったい何がしたいの? 誰にでも帰るべき家があると思うのだけれど」
美奈さんを一瞥するともう一度俯いて、言葉を整理する。
「私の家は普通じゃなかったんですよ。普通じゃないのが怖くて……人として見られない自分が嫌で、逃げてきました」
可哀そうな人だと思われないように、私はできるだけ笑顔を作る。
「それで、逃げてるうちに海斗と出会ったわけね」
私が思っていたよりも、美奈さんは落ち着いた物言いだった。
こんな歪な私を、どうして嫌な顔一つしないのだろう。
海斗君との環境に慣れてしまったせいか、二人が少し変わっていることに今更気づく。
「皆歪んだ私のこと煙たがるのに、美奈さんは普通に接してくれるんですね。ただでさえ、私のせいで海斗君が傷ついているのに……」
すると、美奈さんは呆れたように、ため息を一つついた。
「高校生なんて皆歪んでるものよ。そのことに気づけていないやつが多いだけ。それにこの一件も由紀ちゃんだけのせいだとは思ってない。そうやって、勝手に一人で責任感じて、勝手に追い詰められて、人生を踏み外しかけた人を知ってる。だから、少なくとも私は一方的に誰かに責任を押し付けることはしない」
「美奈さん……」
「それに、私があいつのこと誰よりも分かってると過信したことも、今回の事故に繋がった一因でもある。だから、私にだって非はある」
美奈さんがかけてくれた言葉にとても救われて、それと同じくらい苦しかった。
私はここにいてはいけない――。
優しい人たちを傷つけるくらいなら、離れた方がよっぽどマシだ。
もう海斗君には会わないと、心の奥底にしまうかのように胸に手を当てた。
すると、車は車道を外れ、地下の駐車場に下っていく。
駐車場に入る直前に赤い十字架がついた建物が見えたので、美奈さんが連れてきたのはきっと海斗君が入院している病院だろう。
車は出口付近に止められ、私と美奈さんは車から降りる。
「海斗はこの病院で眠ってる。命に別状はないから心配はいらないわ。いつ目が覚めるかまでは分からないけれど」
「そうですか」
「今会っても口は利けないけれど、由紀ちゃんはどうする?」
私の心は決まっている。
もう二度と、海斗君には迷惑をかけたくない。
そして、甘えないためにも私は海斗君の顔は見てはいけないんだ。
「海斗君にはもう会いません。私といたらこの先も間違いなく重荷になってしまう。だから……もう一度、独りで頑張ってみようと思います。最後まで迷惑かけて、すみませんでした」
私は深々とお辞儀をして、自分のできる最大の誠意を見せた。
「……分かった。それがあなたの選択なら、私から言うことはない。……少し待ってもらっていいかしら?」
「……はい」
そう言うと、美奈さんは病院の入口へと入っていく。
程なくして戻ってきた美奈さんの手には、厚めの茶色い袋があった。
「これを……」
手に取って中身を開けてみると、そこには何枚にも重ねられた札束が入っていた。
「こんな大金、もらえないです」
「私はあなたに死んでほしいわけじゃないの。私にできるのはせいぜいこれくらい」
「お金ならあります。ここに……」
そう言って胸ポケットにしまっていた小さなポチ袋を取り出す。
カラオケに行った時、駅の発券機で海斗君にもらったものだ。
すぐに返すつもりだったのに、結局今の今まで肌身離さず持っていた。
すると、ポチ袋を見た美奈さんは、驚いたように目を開く。
「それ……」
私はわけも分からず、キョトンとしていた。
「その袋、私が預かってもいいかしら?」
「……は、はい」
「その代わりにこっちを使って」
ポチ袋を高値で売ったみたいに札束の入った袋を渡されたが、価値が全く釣り合っていない気がする。
「それじゃあ、これで」
結局あのポチ袋の真相は聞けないまま、美奈さんとは駐車場で別れた。
「迷惑かけてばかりで本当にすみませんでした」
最後に改めて深い謝罪をし、踵を返して自分の道を歩み始めた。
ああ、これで終わってしまうんだ。
さようなら、海斗君――。
あなたといた時間は、とても暖かかった。
あなたのこの先が、幸せな未来でありますように――。
そして、願わくば私のことも忘れてほしい。
涼花と手を繋いで、陽炎君と肩を組んで歩いて……。
あぁ、なんて、愛おしくて遠い光景なんだろう。
あなたは感情を表に出すことが難しく感じてるのかもしれないけれど、涼花や陽炎君がきっとそれを教えてくれる。
ああ、そうだった。
二人とも、これで別れしなきゃだね。
二人からも、たくさんのもの貰ったな。
涼花と海斗君と、三人でカラオケに行った時。
初めて高校生らしいことができて、すごいワクワクしたな。
陽炎君からも家族の暖かさを、愛おしさを分けてもらった。
でも、咲ちゃんとの約束、守れそうにないな。
貰ってばかりで、何も返せなくてごめんね。
みんな、ごめんね……。
駐車場を出ると、空は灰色の雲に覆われていた。
私の門出にはぴったりかもしれない。
一滴一滴と、涙のように降り出す雨――。
今はまだあなたのことを完全に忘れることはできない。
でも、もし全てを忘れることができたならば、この雨は止んでくれるのかな。
とても辛いことだけど、誰にも見せてはいけない。
だから、雨とともに涙が流れても、無理矢理笑ってみせた。
止まない雨はない。
雨の後に出る虹を求めて、私は違う道を歩き続ける――。




