独り雨の中
【春香由紀】
海斗君との生活は呆気なく終わりを迎え、再び独りの時間が始まった。
別れ際には無理矢理笑って見せたけれど、その必要が無くなった途端溜めていた涙が溢れ出ていた。
この涙は海斗君や涼花、陽炎君との時間が私にとっての大切な時間だったのだと伝えているかのように。
でも、もう遅い。
海斗君の家を出ても、私に居場所なんてない。
寧ろ、海斗君の傍が居場所だと思うようになっていたことが、私にとっては奇跡のようなものだった。
そんな私の門出には灰色に覆われた雲が出迎え、涙を洗い流すように優しい雨が降り出した。
こんなに体を汚されるのはいつぶりだろう……。
傘も持たない私は雨に打たれながら、どこかもわからない道を彷徨い続けていた。
◇
【秋山海斗】
由紀がこの家から去っても、俺のやるべきことは変わらない。
今日はこの家の主である美奈が久しぶりに泊まるというので、二人分の食材は無駄にならずに済んだ。
そして、美奈はソファで仰向けになりながら、料理中の俺に話しかけてきた。
「結構降ってきたわね。予報だとここからもっと酷くなるそうよ」
俺は聞こえないフリをして、目の前の料理に集中する。
「由紀ちゃん、傘持ってるのかしら?」
「……」
「どうして、こんなことしたの?」
美奈の質問にも俺は返そうとしなかった。
というよりも返せる答えが無いと言った方が正しいのだろうか。
あの日あの時、誰かに背中を押され無意識に受け入れてしまった自分を、どう説明すればいいのか分からなかった。
「……そうよね。今のあなた空っぽだものね。だから、由紀ちゃんのこともこんな簡単に手放せられるのよね」
美奈のその言葉で、野菜を切っていた手が無意識に止まる。
「……もしかして、自分を持たないことが贖いになると思ってるの?」
美奈の鋭さを持ったその一言は、俺の心臓を一瞬跳ね上がらせ、動悸を起こした。
頭の中でぼやけた映像が流れ、胸が締め付けられる。
滲んだ汗が一滴、まな板に零れ落ちる。
包丁が持てなくなる程力が入らず、早くなっていく鼓動を抑えるのに必死だった。
「美奈……やめてよ……」
必死に塞いでいた記憶を……抑えていた気持ちをかき乱そうとする美奈が悪魔のように見えた。
「私はただ……」
すると、ケータイの着信音が部屋に鳴り響き、気づいた美奈が内ポケットからケータイを取り出す。
「もしもし……え……またあの子が……」
美奈にしては珍しく深いため息をつき、「すぐに行くから」と言って電話を切った。
「ごめん海斗、野暮用が出来たから戻る」
そう言うと、弱った俺に見向きもせずコートを羽織り、家から出て行ってしまった。
やがて、俺も落ち着きを取り戻し、受話器を取ってダイヤルを回した。
…………。
……。
玄関の扉を開け近くに美奈がいないことを確認すると、傘を持って雨で濡れた道を駆け抜けた。
◇
【春香由紀】
だんだん雨が強くなっていったので、橋の下で雨宿りをしていた。
でも、雨で一度濡れた服が乾くことは無く、冷えていく体を温めるように縮こまっていた。
この先私はどうすればいいのだろうと、途方に暮れていると雨の音に紛れて誰かの声が聞こえてきた。
「おーい、そこの可愛い姉ちゃーん」
無論、ここには私以外誰もいない。
それだけで、私に声をかけているのだと分かった。
顔を上げて相手を確認してみると、昭和のヤンキーのようなリーゼント姿の男が二人しっかり傘を持っているのが見えた。
「こんなとこで何してんの?」
優しい言葉に聞こえて、顔からは下心が漏れ出ている。
「お前馬鹿だなぁ。どう考えても雨宿りだろ?」
「そりゃそっか」
二人ともそう言って大笑いしていたが、私には何が面白いのか分からなかった。
すぐにでもこの場から立ち去りたかったが、ここを出ても雨が私の体を蝕み、このまま二人についていっても、何をされるかなんて目に見えてる。
だって、これまでそうして生きてきたのだから。
だからなのか、こんな絶体絶命にも等しいこの状況でも、妙に落ち着いていられた。
「ねぇねぇ、今日暇? よかったら俺たちと一緒に遊ばない?」
「ごめんなさい。今、彼を待っているんです」
そう言って立ち上がって脱出を試みるも、腕を掴まれ失敗に終わった。
「それならさ、その彼氏が来るまで俺たちと遊ぼうよ」
もう一人の男が、私の肩を持ってくる。
前までの私なら、こういう誘いもすんなり受け入れていたんだろうなぁ……。
平気なふりをして、こんなことが当たり前だって言い聞かせて……。
でも、海斗君に会って、私は少し変われたのかな?
――だって、今すごく怖い。
戻りたい……。
海斗君に会いたい……。
あの家に帰りたい……。
誰か……助けて……。
「じゃあ、行こっか」
男に背中を押され、雨雲の下に無理やり誘導させられた。
冷えたこの体には、もう抗う気力も残っていない。
助けなんか来ない……。
次第にめまいがしてきて、立つことも難しくなっていた。
「こっちも急いでんだよ! さっさと立って歩け!」
男が無理矢理私を立たせて、歩かせようとしてくる。
その時だった。
「おめぇら、一人の女に寄ってたかって何してるんだ?」
もう一人の男の声がした。
それも聞き覚えのある声……。
海斗君じゃない、もう一人の聞き覚えのある男の声だった。
「その緑色の髪……まさかあんたは……」
向こう側にいる一人の男を見て、二人は声を震わせていた。
「あぁ? おめぇら俺を知ってんのか?」
「「す、すいませんでしたー!」」
二人は雨の中に消え去り、追い払った男は私のもとに来て傘を差してくれた。
「大丈夫か?」
ぼやけて見えなかった男の姿をようやく捉えられた。
緑の髪を分厚い肩まで伸ばし、鋭い目つきで私の心配をしてくれる人。
「かげ……ろう……くん」
しかし、もう私の体は限界を迎え、意識を保つことすらままならなかった。
「お、おい! しっかりしろ!」
陽炎君に呼びかけられるも、私の意識は深い闇へと消えていった。
◇
【秋山海斗】
『もしもし?』
「陽炎」
『その声……兄貴っすか!? ひゃっはーついに電話してくれたんすね! 俺、チョー感謝感激っす。それで要件はなんすか? 俺、何でもしますよ?』
「助けて……」
この言葉を口にしたのは、初めてかもしれない。
今まで誰かに頼ったことなんかなくて、頼るよりも自分でやった方が楽だった。
だから、頼み方がよく分からなくて、要件を言うよりも先にこの言葉が先に出てしまったのかもしれない。
でも、陽炎は何も聞かずに、「はい! 喜んで!」と、電話越しでも分かる程嬉しそうに答えてくれた。
「由紀を探してほしい」
『由紀って……前に兄貴の家にいた女のことですか?』
「そう、訳あって行方不明なんだ。だから、探すのを手伝って欲しい」
『なるほど……兄貴の頼みなら喜んで手伝いますよ』
「ありがとう」
電話を切ったら、俺もすぐに外に出る準備をした。
長い傘を差し、折り畳み傘を手に持って雨の中を走る。
でも、由紀が普段行くところなんて、俺には皆目見当もつかなかった。
とにかく手あたり次第に探すしかない。
俺は止まらずに町中を駆け回った。
あちこち駆け回って、どれくらいの時間が経ったのだろう。
いくら探しても由紀は見つからない。
傘を差していたにもかかわらず、走ったせいで持ち方が乱れる。
雨粒が肩を叩き、足元では水が跳ねた。
その影響か、俺の体は次第に冷えてくる。
「今……何時……」
いつの間にか首を上げることすらもままならない程に弱り切っていた俺は、力を振り絞って頭上にある時計を見た。
時計の針は十時を過ぎている。
家を出た時間から三時間経過した計算だ。
気が付けば俺は走ることを止め、歩く速さも普段の半分くらいになっていた。
首もうなだれ、目の前を歩く人の肩が当たる。
俺は一体何をしているんだ……。
どうしてこんなに必死になっているんだ……。
心も次第に冷えていく。
俺の視界はコンクリート一色に染まり、どこを歩いているのか分からずにいると、横に伸びた白線が見えた。
その先を見るとその白線は等間隔で引かれていて、横断歩道の前にいることが分かった。
傘に隠れて信号は見えなかったが、歩いている人の足が見えたからきっと青になっているのだろうと、俺はゆっくりと歩みを進める。
すると、横から鋭いヘッドライトが突如視界を埋め尽くし、反射的に目を閉じる。
その瞬間、衝撃が体を襲った。
何が起きたのか分からない。
今分かるのは周りからのざわついたような音と、俺の体が思うように動かないということだけだ。
立ち上がろうと何度も体を起こそうとするが、感覚がない。
地面には血の池が広がり、地べたに付いた頬を真っ赤に染め上げる。
呼吸は乱れ、意識が遠のいていく。
何も見えなくなって、何も聞こえなくなる。
悟った。
きっと俺は死ぬのだろうと。
由紀に何もしてあげられないまま。
“あの人”との約束も果たせないまま。




