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―閑話 ― ある執事の受難その4

「私、いつか帰ってくる。絶対、この屋敷に帰ってくるから――」

 彼女が、そう誓った日のことを、彼は昨日の出来事のように思い出すことができる。あの頃、彼はまだ十代半ば。大切に想っていた少女を守るにはあまりにも彼自身の力が足りていなかった。

 ヴァレンタイン・パーカーは、胸ポケットに収めた胃薬の瓶を取り出し、中の錠剤を三錠まとめて口に放り込む。

 たしかに、守りたいとは思っていたのだ。

 だが、暗黒大陸に渡った彼のお嬢様はあまりにも強くなり過ぎて帰ってきた。常識外れ、と言ってもいい。


「……何をお考えなのやら」

 彼のその言葉に返す者がいないもの承知でパーカーはつぶやいた。いっそ、レディ・メアリと一緒に暮らすように屋敷に放り込んでやろうか。彼にそんな権限などないのはわかりきっているのだが、あの娘はお尻を数回ひっぱたく程度ではおとなしくなりそうもない。

 だいたい、彼が胃薬常備になってしまったのは彼女が帰国してからのことだ。それまでは、貧しいながらも唯一残ったこの屋敷を守ることに専念することができていたのに。


「いてて……」

 誰も見ている者がいないのは確実だから、パーカーは遠慮なく胃を押さえた。

 先ほど、彼女は庭師見習いだのなんだの細々とした仕事をやっているロイを居間に招き入れていた。彼女の雰囲気からとてもよろしくない雰囲気を感じ取ったパーカーは、二人の話に割って入ろうとしたのだけれど、主の命令によって追い払われてしまった。


 ――こういう時は、何をしても許される。

 エリザベス自身もそう予想していたけれど、退室したパーカーは扉に張りついていた。それはもうべったりと。

 この屋敷の扉は重厚で、中の話し声など普通聞こえるはずはないのだが、そこは「扉を細く開ける」ことで対応した。

 執事たるもの、臨機応変に動くことができなければならないのである。


 エリザベスがパーカーの主なのであるが、彼女の保護者たるレディ・メアリからパーカーもまた厳然たる命令を受けている。

「あの娘が無茶をしないように見張っていてちょうだい」

 エリザベスの普段の言動を見る限り、レディ・メアリの心配ももっともだ。

 彼女の命令に逆らうつもりは毛頭ないのだが――ああ、胃が痛い。


 そろそろ薬をもう少し強いものにしてもらった方がいいのではないだろうか。

 エリザベスがロイに頼んでいたことを聞いてしまったパーカーは心の中でぼやいた。「オルランド公爵の財布が欲しい」なんて、正気の沙汰とも思えない。

 レディ・メアリに連絡して、どうにか引き止める術を考えるべきなのだろうが――。


 果たして、それでいいのだろうか。自分自身の心が揺らいでいることもまた、忠実な執事は知っていた。

 エリザベスの希望を叶えてやりたい。そう思っているのもまた事実なのである。法律に反していたとしても、危険はないとエリザベスが言うのなら。

 ――主のことを想うのならば、きっちり止めるべきなのだろうが。

 

 エリザベスが、何か調べて回っていることは彼も十分承知していた。怪しげな醜聞ばかり掲載されている新聞を読みふけるだけではなく、エリザベス自身の商売のトラブルをネタに、テレンス・ヴェイリーの屋敷にまで乗り込んだのだから。

 あの屋敷をうろうろしている人間とエリザベスには深く関わり合って欲しくはない。特に、あのダスティ・グレンとは。

 胃薬の瓶を握りしめるパーカーの手に力がこもる。エリザベス自身、彼に対する感情は単なるファンのものであるとわかっているようで、婚約者候補のリチャードとよく出かけているし、このまま屋敷に起きた事件のことは忘れ去ってくれればいいと思っていたのだが。


「オルランド公爵の財布――止めるべき――いや、止めなければ」

 パーカーは口の中でつぶやく。それと共に、彼の脳裏によみがえるのは、鮮やかな少女の姿。

「私、いつか帰ってくる。絶対、この屋敷に帰ってくるから――」

 十歳の少女とは思えない、決意を込めた眼差し。まっすぐに彼を見据えていた。

 あの日、まだ十代半ばの少年は悟ってしまった。

 彼女の願いを叶えるためなら、きっと自分はたいていのことなら目をつぶってしまうのだろう。彼女の命が危険にさらされるようなことにでもならない限り。

 パーカーもエリザベスもまだ知らない。この後、彼らがますます大きな事件に巻き込まれていくことを。


「パーカーさぁん」

 ようやくエリザベスから解放されたロイが、よろよろとしながらパーカーの方へと近づいてくる。

「お嬢さん、とんでもないことを頼んできたんですよ!」

「わかっている」

 扉のところに張りついて聞いていたなどとおくびにも出さず、パーカーはロイにうなずいた。

「俺――やるって言っちゃったんですけど」


「そうだろうね。君がお嬢様の頼みというか命令というか脅しというか――そういった類のことに逆らえないのはわかっているよ」

 パーカーは困った顔をして自分を見上げている少年の頭をぽんと叩いた。

「ロイ?」

「何でしょう?」

「自信がないならやるな。失敗は許さない――失敗すれば、お嬢様は破滅だ」

「……はい」

 難しい顔になって、ロイはパーカーを見上げる。

 自分はどうするべきなのだろう。困惑した様子の少年を見ながら、パーカーは考える。


 止めるべき――わかっている。それはわかっているし、彼の立場なら止めるべきなのだ。けれど、彼女が何を求めているのかはわからないが、彼女の願いを叶えてやりたいとも思ってしまうのだ。

 ――執事失格だな。

 自重する彼の顔を、不思議そうな顔をして少年が見上げている。

「ああもう、その件についてはお嬢様の言う通りに――繰り返す。失敗は、するな」

「わかりました!」

 パーカーの言葉を得たことで、彼は気が楽になったのかもしれない。勢いよく駆けていく後ろ姿を見送りながら、パーカーの手は無意識に胃薬を探し求めているのだった。

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