エリザベスの頼み
「今でもスリの腕はにぶってない?」
何気ない口調でエリザベスの口から放り出されたその言葉に、ロイはむせた。
「リ……お嬢さんっ、俺、もう、そんなことはしていないですよっ」
「……そんなことくらい知ってるわよ」
エリザベスに文字通り行き倒れているところを拾われるまで、ロイはありとあらゆることをやって生きてきた。そのことを責めるつもりなんて、まったくない。
エリザベス自身、大陸に渡ったばかり頃、あれやこれや今追求されたら困ることをやってきたのも事実であって、最悪の環境で生きていくことが何を意味しているのかを知っているのだから。
肩をすくめたエリザベスは、足を組み直してからロイを見つめる。
「ちょっとその腕を貸してほしいなーって言ってるの」
「お嬢様!」
パーカーが声を張り上げた。エリザベスは、じっとりとした視線を彼に向けた。そして扉を指さす。
「あなたはちょっと外してて」
「ですが!」
「出て行きなさい、と言っているの」
傲然と顎を持ち上げて、エリザベスは再度命令した。
しばらくの間、どちらも譲ろうとはせず、両者の間に挟まれたロイがおろおろとする。にらみ合いに負けたのはパーカーだった。一つ、嘆息した後彼はゆるゆると頭を下げ、無言で退室した。薬の瓶を入れてあるポケットに手をやりながら。
「欲しいのは、情報」
パーカーが退室したのを待って、エリザベスは再度口を開く。おそらく彼が扉のところに張り付いて聞き耳を立てているであろうことはわかっていたけれど、そこまでは止めるつもりもなかった。彼がレディ・メアリに何を頼まれているのかも知っているから。
「情報って何です?」
完全にあきらめた口調になって、ロイはたずねた。
「男の人って大事なものはなぜか財布に入れるでしょ。オルランド公爵の財布が欲しいの」
「……どうでしょうね」
ロイは渋った。
「毎日練習しないと、だめなんですよ、ああいうのは。俺、リズお嬢さんに拾われてから、いっさい練習やめてまっとうに暮らしてるんで」
ロイの言うことももっともだった。この屋敷は多くの人間を雇っているわけではないが、金銭的に不自由しているというわけではない。
数少ない使用人たちには、他家より多額の報酬と居心地のいい住環境を与えている。金銭目的で犯罪を働く必要はないのだ。
けれど、それではエリザベスの目的を果たすことはできない。
「……そう。困ったわね」
エリザベスはうなった。
「困った?」
「ええ――ちょっと困ったわ」
自分がよろしくないことをしようと頼もうとしている自覚はある。それならそれで、ほかの手を考えるしかない。
ロイに頼めないなら、と考えておいた手もある。本当はそれを使うつもりはなかったけれど。
いや、何もかも忘れて、見なかったことにして、屋根裏部屋に封じた記憶は封じておくべきなのかもしれない。
――わかっては、いるのだけれど。
不意に涙がぽろっと零れたことに、エリザベス自身も驚いた。慌てて手で顔を覆う。
「リズお嬢さん――」
鼻をぐすぐす言わせているエリザベスに、ロイがそっとハンカチを差し出した。
「ああもう、泣かないでくださいよ。困ったなあ」
「だって――」
「何でそんなに泣くんです?」
ロイを困らせているのはわかってはいるけれど、上手く説明することができなかった。
「だって、取り戻したいんだもの」
結局、そう言ってふくれっ面をすることしかできなかった。
「けっこうな値打ちだという彫刻のことですか?」
「そんなものどうだっていいのよ。時計――時計が欲しいの。中にある骨なんかどうだっていいんだから」
「じゃあ、何で屋根裏につっこんどいたんです? 大事なものなら肌身はなさず持っとくもんでしょうがよ」
ロイの言うことももっともだ。そんなのわかりきっている――大事な物なら、常に身に着けておくべきだったのだ。
「だって――」
むくれたエリザベスは、ぐしぐしと顔中をハンカチでこすった。後で、目の周りがひどいことになるのもわかっているけれど、かまわなかった。
「……身近に置いておくわけにはいかなかったんだもの」
記憶を探れば、それほど昔のことではないのに、遠い昔のように思われる。まだ、父がいて、母がいて、この屋敷にタイプライターの音が響くこともなかった頃。
「お嬢様、下りてきてください。木に登るだなんて――」
「あなたも登れば? 気持ちいいわよ、ここ」
木の枝に腰かけたエリザベスを見上げているのは、まだ少年から青年へ移り変わろうとしている頃のパーカーだ。
「下りてきてください。わたしはそんなところには行けません」
「つまらないな、もう」
ぷぅと頬を膨らませてエリザベスは幹を伝って下りようとする。足を滑らせて滑り落ちかけたのを、下でパーカーが受け止めた。
「ほら、危ないと言ったでしょう?」
五歳下の彼女に対して、幼い子どもを諭す口調。エリザベスは彼の首にしがみついて、お小言は聞こえなかったふりをした。
無茶をすれば、彼はいつだって駆けつけてきてくれる。普段は絶対に手を触れようとはしないのに、こういう時は抱きしめてくれた。
彼に触れてもらえるのはこういう時だけで――だからあの頃は無茶ばかりしていた。きっと彼は気づいていなかっただろうけれど、たぶんあれはエリザベスにとっては初めての……。
「――お嬢さん――リズお嬢さん」
ロイの声にエリザベスの意識は現在へと連れ戻される。
「そんなに大事なものなんですか?」
きっと、他の人にはたいした価値なんてない。エリザベスは一つ大きく息を吸い込んで、静かな声で告げる。
「わたしにとっては、ね」
「……わかりました」
感心しないと言いたげに首を振りながらも、ロイは折れた。
「練習の時間ください。お嬢さんにそんな顔をさせるわけにはいかないんで、俺、勘を取り戻せないかやってみます。取り戻せなかったら、すみません」
そう言うと、ロイはエリザベスの手にハンカチを残したまま出ていった。




