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黒山羊屋敷

 エリザベスが夢中になっている間に、舞台は終わってしまった。

 最後まで鑑賞して車に戻ると、パーカーは真っ先に硝子の瓶を取り出す。

 主の前であることもかまわず、中に入っている錠剤を三錠、口の中に放り込む。水はないからそのまま強引に飲み込んだ。


「……どうかした?」

 その様子を眺めていたエリザベスがたずねるが、パーカーは「何でもありません」と答えて表情を消した。主の行動が胃痛の原因なのだが、それをあからさまに口にするわけにもいかない。


「ここに行ってちょうだい」

 ヴェイリーから受け取った地図を、エリザベスは運転席で待っていたトムへと手渡した。

「おや。黒山羊屋敷においでになるんで?」

 地図を見たトムは、眉間にしわを寄せた。

「黒山羊屋敷?」

 錠剤の瓶をしまいこみながら、パーカーは鸚鵡返しに返す。胃のあたりを押さえているのは、まだ薬が効いていないからだ。


「何でも、この屋敷の主は、闇の組織と繋がりがあるとかで」

「ばかばかしい。劇場内で会ってきたけど、いい人よ。闇の組織との繋がりなんてあるはずないじゃない。顔が怖いのがいけないんだわ」

 鼻で笑ってエリザベスは早く出せとばかりに手を振った。実際後ろ暗いところは多々あるのだろうけれど、それをトムの前で口にするのは面倒である。


 トムいわくの黒山羊屋敷は、高級住宅街の端にあった。少々古風なつくりの、雰囲気のある建物である。敷地も広かった。

 この屋敷に出入りする者は多いらしいが、屋敷の持ち主が芳しくない噂の持ち主だからエリザベスのような貴族階級の人間は出入りを控えている――というのがここまで車を走らせてくる間にトムが教えてくれたことだった。


「お邪魔するわね」

 そんな屋敷に足を踏み入れてもエリザベスは、悪びれた様子はまったくなかった。出迎えた執事らしき男に、車の中にいる間に取り出しておいた拳銃を預ける。

「あら、かわいらしいお嬢さんだこと」

 派手な美人がエリザベスを出迎える――女優のミニー・フライだった。

 かなりの年齢のはずだが、広く開けたドレスの胸元は妖艶な雰囲気を漂わせている。薄暗い照明のためか、実年齢より十歳以上若く見えた。


「レディ・エリザベス・マクマリーよ」

 昂然と頭をもたげて、エリザベスは名を告げた。普段自分からは好んで使うことの少ない「レディ」を使ったのは、本人も意識していないミニーへの対抗心の現れだったりする。


「ええ、主人から聞いておりますわ。どうぞこちらへ」

「……主人?」

 ころころと笑いながら、ミニーはエリザベスの手を取り、そのまま客人の集まっている広間へと案内していく。

 パーカーは、何かあればすぐに対応できるようにと、周囲に目を走らせているがそれにミニーは気づいているのかいないのかそれはエリザベスにもわからなかった。


「テレンスとは、もう結婚して二十年近くになりますか。私が駆け出しの売れない女優だった頃からですもの」

「……一言も言ってなかった」

 年増だとか何だとか、テレンス・ヴェイリーの前でひどいことを言ったような気がしなくもない。何もなかったことにしようと、エリザベスは決めた。


「公にはしていないので知っている人は少ないでしょうね。私のイメージというものがありますものね」

「イメージ?」

 もう一度ミニーは笑い声をあげる。その様子は、エリザベスを戸惑わせた。

「そう、女優ミニー・フライのイメージ。妖艶で、男を惑わせて、若いツバメを連れ歩く悪女。なかなかうまくやっているでしょう?」

 ミニーが首をかしげると、耳につけた大きなサファイヤのイヤリングが煌めいた。


「何で女優をやめないの?」

 ちょうど広間に通じる扉の前に立った時、エリザベスはその問いを投げかける。

「……いろいろと都合がいいからですわ」

 今度の笑いは、くすりという小さなものだった。扉に手をかけたミニーは、エリザベスをふり返る。


「後ほど主人の書斎にご案内しますわ。それまではどうぞ楽しんでいらして……ダスティ・グレンがお好きだとか?」

「好きじゃない女の子がいたら、会ってみたいものだわ」

 そう返すのと同時に、ミニーは扉を大きく開いた。


 扉の向こうに広がっていたのは奇妙な光景だった。中にいる人の格好はばらばらだ。服装だけで爵位を持たない者、貧しい者、財を持っている者、そして貴族がいるとエリザベスには判断できてしまう。

 ソファに座った若者を、同じような年頃の若者たちが取り囲んでいる。皆エリザベスより少し年上だろうか。

 ソファに座った一人が何か朗読しているようで、囲んだ若者たちは皆それに聞き入っていた。


 かと思えば、広間の別の壁側には立派なグランドピアノが置かれている。ピアノに向かっているのは派手なドレスをまとった中年女性。歌っているのは彼女と同じ年頃の女性だ。

 壁際には絵が立てかけてあって、その絵の前で熱心に語り合っている人たちもいる。

 ビリヤードの台を囲んでいるのは中年の男性たちだ。彼らは何を話しているのだろう。


「ダスティ!」

 ミニーの声は、人混みの中でもよく響く。

「新しいお客様ですか?」

 絵を見ていた一団から抜け出て近づいてきた彼は、ミニーにたずねた。その彼の顔を見て、エリザベスは口をぽかんとあけた。ダスティだ。本物のダスティ・グレンがここにいる。

「主人のお友達なの。あなたのファンなのですって。お相手してさしあげて」

「それは光栄だな。お名前は?」

 甘い声で問いかけられて、エリザベスの顔が真っ赤になる。


「エ……エリザベス。エリザベス・マクマリーよ」

「ではエリザベス。あちらの席にどうぞ」

「こちらは結婚前のレディです。気軽に手をとられては困ります」

 パーカーは、エリザベスの手をとろうとするダスティを妨害しに前に出た。

「邪魔しないでよ!」

「お嬢様に悪い虫がつかないよう、厳重に警戒するようレディ・メアリから言いつかっております」

 むくれたエリザベスにパーカーは諭すように言ったが、彼女の機嫌は直らない。


「……ダスティは悪い虫じゃないわ。失礼な人ね! もう、あっちに行っててちょうだい」

 エリザベスはパーカーを追い払う仕草をして、ダスティのしめすソファへと足を進めた。追い払われてもエリザベスを一人にするわけにもいかず、パーカーも慌てて後を追った。


 エリザベスは少し離れて立ったパーカーの方をちらりと見てから、顔をそむけた。

「飲む物をどうぞ。大丈夫、お酒じゃない」

 可愛らしいグラスに注がれた果汁をソーダ水で割ったものをもらって、エリザベスはダスティを見上げた。


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