大陸だけの風習
搾りたてのオレンジジュースは、甘味の中に程よい酸味があって、心地よく喉を滑り落ちていく。ヴェイリーがこちらをうかがっているのも十分承知していたが、エリザベスはそれを気にせずにクラッカーにチーズを載せて齧った。
ヴェイリーは危険な人物ではあるかもしれない。けれどエリザベスに害を与える必要はないわけだし、このクラッカーに毒物が混入されているかもしれないなんて考えるだけでも馬鹿馬鹿しい。
エリザベスが二枚目のクラッカーに手を伸ばした頃、再び扉がノックされた。パーカーを呼びに行った男が、ようやくパーカーを連れて戻ってきたのだ。
パーカーは執事らしい無表情を装ってはいたが、ヴェイリーのことを胡乱に感じていることまでは隠しきれていなかった。
それに気づいているのかいないのか、ヴェイリーはにこやかにパーカーを招き入れた。
「開幕に間に合ってよかったですな……こちらが執事殿?」
「ヴァレンタイン・パーカーと申します」
あいかわらずクラッカーを齧っているエリザベスは、にこにことしてパーカーを自分の側へと座らせる。
「こちら、テレンス・ヴェイリーさんよ。アンドレアスの件についての話し合いは一応終わったところ。大変親切にしていただいたわ」
「こちらこそ、レディ・エリザベスには感謝しております。大変寛大なお申し出をしていただきまして」
ヴェイリーの腰は、どこまでも低い。まるで、エリザベスをあがめているかのように。
「ああ、そろそろ開幕ですね。お話の続きは幕間にしましょう」
「悔しいけど、ミニー・フライは綺麗だものね……年増だけど!」
悔し紛れのようにそう言うと、エリザベスはハンドバッグに入れていたもう一つのオペラグラスを取り出して目にあてた。
王女に扮した主演のミニー・フライは、舞台映えする女優だった。自然と見る者の目は彼女に引き寄せられてしまう。
それはエリザベスも例外ではなかった。ダスティ・グレンと恋仲なのは許せないが――もともと手の届くような相手ではないし、ファンなら微笑ましい目で見てあげるべきなのかもしれない。
舞台の上では、国を滅ぼされた王女が悲痛な声をあげている。夢中になっている間に、舞台の幕は下りて、休憩時間となっていた。
「素敵な舞台だわ」
幕が下りるのと同時に、エリザベスは素直に感嘆してみせた。ミニー・フライはとても素敵な女優だと思う。
――年増ではあるが。
悔し紛れに年増と繰り返してしまうのはあまりよろしくないのだろうけれど、ダスティ・グレンと恋仲なのだから、心の中で思うくらいなら許してほしいとも思う。
彼女の自宅に剃刀の入った手紙を送り付けようとしているわけでもないのだし。
「パーカー。叔母様とご一緒したいから、チケット取ってくれる?」
「かしこまりました。人気の舞台ですから少し先になるかとは思いますが――」
最後まで見てはいないが、レディ・メアリを誘ったら喜びそうだ。
日頃心配ばかりかけているから、この辺りで少し叔母を喜ばせておいた方がいいだろう。
「よろしければ」
丁寧な口調でヴェイリーが話に割りこんだ。
「このボックス席は、私が一か月貸しきっています。どうぞ、こちらの席をご自由にお使いください」
「まあ、ありがとう」
このボックスを一か月貸しきりにするとは豪勢な話だ、とエリザベスは素早くボックス内を見回して値踏みした。
何もないのにここを一か月貸しきりにするなんて、商売人ならまずやらない。よほど贔屓の役者がいるのか――ひょっとしたら、エリザベスのような人間を招き入れるのに利用されているのかもしれない。
「いえ――ただのお詫びですよ、アンドレアスがご迷惑をおかけした、ね。ご都合がよろしければ、今夜我が家のパーティーにいらしてください。ミニー・フライも来ますし、最近若い女性に人気の……誰だったかな、ああ、そうダスティ・グレンとかいう役者も来ますから」
ミニー・フライとダスティ・グレンの醜聞を知っているのかいないのか、穏やかな笑みを浮かべながらヴェイリーは言う。
「素敵! 嬉しいわ。ダスティ・グレンには一度会ってみたかったの。素敵な俳優さんよね。この舞台には出演していないけれど」
「お嬢様!」
低い声でたしなめたパーカーの方は見向きもせず、エリザベスは手を叩いた。
「最近ミニーが贔屓にしているようですね。なかなかの好青年ですよ」
ヴェイリーがそう言ったとたんに、エリザベスは頬を膨らませる。
「知っているわ。新聞に熱愛って書いてあったもの」
「……ゴシップ紙ですな」
「お嬢様、このような男性の家に出入りするなど……」
「なかなか率直な物言いをするね、パーカー君」
「申し訳――」
思わずエリザベスの肘を掴んだパーカーの言葉を、ヴェイリーは遮った。
「かまわないよ。そちらのレディは私のことを犯罪組織の親玉とまで言ってのけたからね」
それから穏やかな微笑みを、人の悪そうなものへと変化させて彼は続ける。
「私は、喜んでレディと君を屋敷に招待するよ――ただし、屋敷に入る時には、レディがスカートの下に入れている物騒なものは預からせてもらうがね」
「あら」
エリザベスは目を丸くして、驚いたような表情を作った。ちょっとやそっとじゃばれないと思っていたのに、どうして気づかれたのだろう。
「あなたどうしてわかったの? 入口の男性には気づかれなかったのに」
「私もラティーマ大陸で過ごしたことがありますのでね」
「……なるほどね。ああ、パーカー、あなたはよくわかっていないみたいだけど、ラティーマ大陸じゃ女性が銃を持つのは珍しい話じゃないのよ」
ラティーマ大陸はあまり治安がよくない地域があるため、護身用の銃は欠かせない。実際にエリザベスの腕はなかなかのものだ。
護身用の銃が欠かせないとはいえ、ハンドバッグに入れて持ち歩くのはさまざまな弊害があるために、いつの間にか脚に吊るようになった。エルネシア国内ではまず見られない風習だ。
銃を使おうと思ったらスカートを捲り上げなければならないのだから、当然といえば当然なのだけれど。
「あなたの歩き方が独特だったのでね。懐かしいものを見ましたよ」
そう言ったヴェイリーの目からは、ついいましたが見せたばかりの剣呑な空気は消え失せていた。
「こ……今後は歩き方にも気をつけるわ」
やはり、ヴェイリーと自分では役者が違うようだ。エリザベス自身が望んで飛び込んだとはいえ、ヴェイリーの手のひらで転がされている感覚は間違ってはいないはず。
背中がちょっとひんやりしたのを無視したエリザベスは肩をすくめ、二幕が上がろうとしている舞台に注意をむけた。




