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黒山羊

 中に入る前にエリザベスは大きく息をついた。中でどんな相手が待っているのかと思うとさすがに緊張する。

 もう一度深呼吸してから、思いきって足を踏み出す。扉の中で待っていたのは、直接の面識はなかったが、エリザベスも顔だけは知っている男だった。


「まあ、あなただったの。テレンス・ヴェイリー」

 後ろ手に扉を閉じたところで、エリザベスは立ち止まる。テレンス・ヴェイリーと呼ばれた男は、ボックス内に置かれていた椅子から立ち上がり、丁寧にエリザベスに一礼した。

「おや、初めまして、ではありませんでしたかな?」

「いえ、直接お会いするのは初めてよ――でも、あなたは有名人だもの」


 相手の顔を確認したとたん、エリザベスの身体から緊張が抜けた。手すりの向こう側には舞台の正面が見えた。

 ちらりと横に視線をやれば、テーブルには氷の入ったバケツにシャンパンの瓶が冷やされ、チーズやクラッカーなどの軽食が一緒に置かれている。

「さて、お嬢さん。あなたのために最高の席を用意したつもりだ。さあ、そこの席にどうぞ」


 エリザベスに正面から見られたヴェイリーは、表情一つ変えず、椅子を勧める。年の頃は四十……いや、五十にはなっているだろうか。

 年齢のわりに白髪の少ない黒い髪はぴったりと撫でつけられている。それとは対照的に顎には山羊のような髭を生やしていた。

 髪の色と髭の形から『黒山羊』とも呼ばれる、エルネシア国内でも有名な実業家だ。おそらく総資産はマクマリー家のはるか上をいく。エリザベスも裕福ではあるのだが、彼の足下にも呼ばないだろう。


 エリザベスはすたすたと歩いていって、勧められた椅子に腰をおろした。組んだ両手を腿の上に置くと、悠々と背もたれに背中を預ける。落ち着き払っているように見えればいい。


 ヴェイリーとエリザベスが顔を合わせたことがない理由は一つだけ。二人の交友範囲がいっさいかぶっていないのだ。

 レディ・メアリの後ろ盾があるということになっているエリザベスは、「あまり近づかない方がいいお嬢さん」ではあるのだが、一応社交界への出入りを許されている。


 ヴェイリーの方は、爵位を持っていないために社交界への出入りもごく限られた場所しか許されてはいなかった。おまけに黒い噂には事欠かない。

 彼に逆らうと不審な事故に遭う――などいう噂がまことしやかにささやかれている白と黒の境界線を行ったり来たりしているような男なのである。


 この男には回りくどい話より正面から挑んだ方がいい。

「ヴェイリーさん……アンドレアスにうちの商品ちょろまかすように命令していたのですって?」

「正確には、上納金を納めよと言ったのですが、ね。レディ?」

「食えない男ね」

 

 肩をすくめたエリザベスhあ、椅子から身を乗り出し、パーカーに買い与えた席を目で探す。こちらを見上げている不安そうな顔を見つけだすと、ぶんぶんと大きく手を振った。

 少なくとも、今のところは無事だ。まあ、劇場なんて場所を指定してくるという以上、騒ぎを起こすつもりはないであろうということも予想はしていたのだが。

 何かしでかそうと思うには、ここは、あまりにも人の目が多すぎる。


 エリザベスの視線を追っていたヴェイリーの目が、どうやらパーカーをとらえたらしい。

「お友達ですか? レディ?」

「チケット一枚しかくださらないなんて、案外吝嗇なのね、ヴェイリーさん。私が一人で劇場に入れるはずもないでしょう?」

 ヴェイリーは申し訳なさそうに手を振った。

「申しわけございません。どうも不手際が続きますな――すぐにお呼びいたします。あそこにいるのはどなたですか?」


「家の執事よ。何でもやってくれる忠実な、ね。相手がどなたかわからないんですもの。連れてくるのは当然でしょ?」

 ヴェイリーは手を叩いた。扉の外に控えていた男が入ってくる。完全にくつろいだ様子で腰掛けているエリザベスにちらりと目をやり、それから姿勢をただして主の命令を待った。


「レディ・エリザベスのお連れの方を、こちらのボックスにご案内しなさい」

「あら、いいの?」

「忠実な執事なら口もかたいでしょう」

「親切な方ね、ヴェイリーさん」

 吝嗇、と口にしたばかりのつい今しがたの言葉は忘れたように、エリザベスは微笑む。


「さて、お連れの方がいらっしゃる前に面倒な話はすませてしまいましょう。そろそろお芝居の幕も上がることですしな。アンドレアスのしでかしたことについては重々お詫び申し上げます。レディ」

 ヴェイリーの目が危険な光を放った。


「お望みでしたら、あいつを再起不能にすることも可能ですが――あやつの処置は私にまかせていただけませんか? 一般の方にご迷惑をおかけするとは、私の望むところではありませんのでね」


「そこまで望まないわよ、ヴェイリーさん。私はね、取引相手を変えるつもりはないの。今後、正当な取引をしていただければそれで十分」

 エリザベスの言葉に驚いたように、ヴェイリーは眉を上げた。

「報復は望まないと?」


「うーん、報復を望むと言うよりは貸し一つでいかが? ご存じかもしれないけれど、私は暗黒大陸での生活が長いから……世の中は綺麗事だけでは片づかない、というのを肌で感じたことがあると、そう言えば理解してもらえる? 私はそこに足を踏み入れようとは思わないし、あなたが何をしようとしているのかまでは追及しない。けれど、アンドレアスを失うのはもったいないかなって思うの」


 ラティーマ大陸で暮らしていた頃は、犯罪者すれすれの人間達に関わっていた時期もある。それがけして正しいことだとは思わないし、自分がそうなりたいとも思わない。ただ、そこで暮らしている人がいることまでは否定しようとは思わない。


 それに、とエリザベスは隣の椅子を占めている男を横目で眺める。この男は、白と黒を行ったり来たりしているのは間違いないだろうが、噂通りの男のようには見えなかった。


「寛大なお申し出、感謝いたします、レディ。この借りはいずれお返しさせていただきます」

 ヴェイリーは胸に手を当てて、恭しく一礼した。

「貸しを返していただく機会がこないように願っているわ。だって、あなたに借りを返していただく時って、絶対私がものすごく困っている時だもの」


 これで、アンドレアスの件については、手打ちということで二人は握手を交わす。

「私、お酒はたしまないの。オレンジジュースをいただけるかしら?」

 要求も遠慮していない。ヴェイリーがもう一度手を叩くと、別の男があらわれた。一度姿を消し、エリザベスの要求通りオレンジジュースを持ってくる。


 グラスを受け取ると、エリザベスは足を組み替えた。

「ねえ、ヴェイリーさん。あなた泥棒には詳しい?」

「泥棒、ですか」

「家にね、泥棒が入ったの。警察はあてにならないし――あなた犯罪組織の親玉なのでしょ?」

 困ったようにヴェイリーは笑った。


「犯罪組織の親玉だなんてとんでもありませんよ、レディ。私はただの商売人です――ただし、多少顔がきくことまでは否定しませんよ」

 帰ったらヴェイリーについてはもう少し詳しく調べた方がいいだろうが、おそらく彼に関する噂の大部分は意図的に流されたものだろう――エリザベスの勘が正しければ。

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