22.お嬢様は旅に出る(2)
透輝石の灯の下、リクウが書き物をするのを、エイレンはベッドの端に腰掛けじっと眺めている。こういう時に、彼女が師の邪魔をすることはないのは普段通りだが、何もせずにぼんやり待っているというのは珍しかった。
いつもなら大抵、読書しているか懲りもせず修業に励んでいるかなのに。
リクウはペンを止め、エイレンの方を見た。
「もしかして、出立の予定が決まりましたか」
「ええ。明朝に発つわ」
「そうですか。では、気を付けて行ってらっしゃい」
散歩に出るのを見送るかのような気軽さで言って再びペンを取り、何か違うな、と首をかしげた。
「ああ、そうそう。ほとぼりが冷めたらいつでも帰ってきていいですから。あと半月ほどもすれば、ゴートに移動します」
「ずいぶん遠くまで行くのね」
ゴートは聖王国の中心から見れば王都とはほぼ反対側に位置する港町だ。
「夏は寄港する船が多くなりますから」
「荷運び人足でもなさるのかしら」
「それもありますし、船のちょっとした補修や補強の依頼もきますよ」
「仕事は選びなさいよ」
「精霊魔術師はそんなものですから」
幾度か繰り返したことのあるやりとりの後、再びペンを握って続きを書きかけてまた首をひねった。何か違うな……ああ、そうだ。
「旅立つ人には精霊の加護を。明日バタバタして忘れるといけないので、今やっちゃいましょう」
立ち上がって弟子の側に行き、頭をそっと両手で包んで呪文を唱える。
風の囁きにも似た音韻を連ねていくに従い、精霊の力が色濃く彼女を包みはじめる。最後に額に口づけて、まじないは完了。
「あれ。どうしました?」
エイレンが無表情で凝り固まっている……ように一瞬見えたが、気のせいだったようだ。
「まぁ師匠。無くても困らないけれども無いよりはマシなまじないをどうも有難う」
「効果はそれほど持ちませんがね」
「そこそこ期待しておくわ……ついでに」
あっと思った時には彼女の腕がリクウの首にまわっていた。その髪からは花の香りがほのかに漂う。
「抱いて下さる?」
「はいはい、いいですよ」
気軽さを装い、片手で背を支えて片手で頭をヨシヨシと撫でてやると、エイレンは悪戯っぽい表情でさらに甘く囁いてきた。
「もっと」
「よしましょう」
苦笑して身体を離し、ほんの少しの本音を口に乗せる。
「手放せなくなると困る」
エイレンはまた一瞬無表情になり、それからくすっと笑った。
「なかなかの模範回答ね……」
※※※※※
その精霊魔術は何度も見たことがあった。ベビーシッターのバイトの後、別の仕事から合流した師匠が子供たちに与えることもあるし、道端で偶然に会った赤子のために請われても気軽に応じられる類いのもの―――それが精霊の加護である。
なんら特別ではあり得ないその呪文をリクウが始めた時、あああれね、程度のノリで受けてしまったことをエイレンは後悔していた。
息遣いまではっきり聞こえるほどの近さ。人の温もりと、耳をくすぐる心地良い声。もっと欲しい、と思ってしまうのは。
(気のせいに違いないわ)
と、己に言い聞かせつつ術を受けていたというのに。
最後の口づけで、耳の奥で何かがはじけたような気がした。それでも。
(今のは何かの間違いね)
絶対に無いわ、と気を取り直し、なるべく普段通りに振る舞ってみたのだ。そう、いつもならわたくしはこんな風に師匠で遊ぶはずだわ、と。
(でも、でも……やりすぎたかもしれない)
その証拠にリクウが口にした、普段なら言いそうもない台詞に、相手も無傷ではないのだ、とうっかり喜びを噛みしめてしまいそうになった己はバカではなかろうか。いや確実にバカだ。
(あんなのタダの女性を傷付けたくない精神から出る甘台詞でしょうに!)
……そう思い当たったからといって若干がっかりなどしていないわ、絶対に。
エイレンにとってリクウは安心できる存在だった。どんなにイジりまくっても一定の線をキープして接してくるところが貴重なのだ。それが崩れるところなど見たい……でなくて、見たくない。
(それにこのわたくしが、ただの子供扱いに負けるなどあり得ないわ)
そう、今晩のことは徹底的に気のせいだ。明日の朝リクウのとぼけた善人面を見て、ドキドキもソワソワもしなければ、それがはっきりと分かるだろう。
そこまで考えてふと、ある可能性に思い当たる。
(もしその時にもう1度、何か思ってしまったらどうするのよ)
これまで色々とやってきたエイレンではあるが、その経験はこのケースでは全く役に立たなかった。珍しく彼女は悩み、そして決めた。
三十六計逃げるに及かず。
夜明けを待たず、エイレンはそっと精霊魔術師の館を後にしたのだった。




