21.お嬢様は島に漂着する(2)
時化の夜が明け、また次の夜が迫る頃、エイレンは見覚えのある砂浜に流れ着いていた。
やや黒ずんだ細やかな砂は雲母や輝石を多く含み、太陽の光を浴びればキラキラと輝くはずだ。しかし今は、重い雲の下で暗く沈みこんで見える。
空気の層を身に纏わせ、気を失っているルーカスを抱えたまま波打ち際に仰向けになって黒い雲を眺め、エイレンは考えた。
(運が良いといえば良い。悪いといえば悪い)
良い点は、ここが聖王国の軍事サバイバル訓練で何度も訪れた島であること。
悪い点は、島の周囲が遠浅の海であり、船を着けられる岸がないことである。大型船や中型船は沖を素通りしていき、港から漁師たちが小舟で訪うにはやや遠い。
つまりは、何らかの合図をこちらから送らねば気付いてもらえない可能性があるのだ。
(砂浜がえぐれるほどに神魔法を叩き込めば、ゴートは気付くはず)
船が着けられる入江ができれば一石二鳥かもしれない、などと物騒なことを考える。だが問題は、エイレンに今、それほどの神力が残っていないことだ。
神魔法で結界を張るのは、考えていた以上に大技だった。この身に継承されているのは確かに禍神の力であり、守護には徹底的に向いていないのだと術を使いながら思い知った。
身の内の全てを削り取らるような感覚の中で。
それでもまだ、大丈夫だと信じていた。身体が耐えられず、不覚にも海に落ちるまでは。あまりの無様さに、情けないのを通り越して嗤ってしまう。
(とんだ思い上がりだったわ)
この海を問題なく護れる結界が己にも張れるのであれば、神の加護は必須ではなくなる。そうすれば、まだ自由でいられるかもしれない。
術を使いながら、心の片隅でそんなことを考えてしまっていた。
そうすれば、聖王国の工場建設や鉱床開発に好きなだけ参加できる。使者として帝国と聖王国の橋渡しをし、その合間に親しくなった知り合いとツマラナイことに興じたり、貧民街の子供たちの成長を見届けたりもできよう。
そして、全てが終わったら、郊外の古い精霊魔術師の館で、煤払いだの種蒔きや収穫の手伝いだのといった仕事を受けながら暮らすのだ。アリーファや師匠と共に、普通に、静かに、ほんのときたま、少しだけ賑やかに。
しかしそれは、現実には有り得ない未来だった。それが、分かってしまった。聖王国にはやはり、神の加護が必要だ。国王を核に張られた結界が必要だ。そして、神と国王の仲立ちをする役目の巫女もまた。
神殿の女は、その役目を押し付けられながら、それ以上の地位には立てず、子供すらも望まれない。力を受け渡す盃として役に立たなくなれば、王宮を離れて目立たぬように暮らし、次の娘を教育する。
何も考えず、何も感じない、ただの器であるように。
長い間、それが当然の使命なのだと思ってきた。もしカロスが処刑されたりしなければ、今でもそう思っていただろう。
(けれどどう思おうと関係ないわね)
結局は近い将来、己も同じ道を選ぶのだ。選ぼうと、決めた。
だが、苦しい。
それが己のためなのだ、と信じ込めればまだラクなのに、心は「違う」と叫んでいる。
(わたくしの為したいことではない。わたくしの欲しい未来でもない)
涙が頬を伝い、空気の層を破って暗い波と混ざり合う。
(どちらがラクだったのかしら)
捨ててもかまわない者たちのために、心の奥底にある憎しみにも怒りにも気付かず、ただそれを当然と信じて、空虚な器となることと。
「できれば捨てたい」と願い「なぜ己でなければならないのか」とこの立場を呪詛いながらも、愛おしく大切で、捨てられない者たちのために、身を差し出すのとでは。
「エイレン?」
不意にルーカスの声が響いた。腹の上から、カロスと同じ薄青の瞳が幾分ぼんやりと、不思議そうにこちらを見ている。
「怪我をしているのか。痛むのか?」
ゆっくりと伸ばされた手が、頬に触れて涙を拭った。
「あなたはいつも泣いているな」
「あら、それは気のせいではないかしら」
微笑むと、ルーカスは戻した手をしばらくじっと眺め、黙ったままあいまいに頷いた。
砂浜に立ち、靴を脱ぐと中から水がボトボトと垂れた。気が付けば軍服もかなり湿っている。
「それにしても、起きていただけて良かったわ。わたくし1人であなたを運ぶのは難しいもの」
「ここは?」
「ゴート沖の島。港からは船で1日+泳ぎ、といったところかしら」
エイレンの言葉に、船の立ち寄らない島であることを悟るルーカス。両の眉が気遣わしげに寄せられる。
「普段は無人だけれど水も住居もあるから安心なさって」
「詳しいですね」
「軍事訓練に使われている島だもの」
「ああ」思い当たったように再び頷くルーカス。
「あのド派手な示威活動」
「あら帝国からもそう見えるのなら大成功ね」
エイレンはクスリと小さく笑い、素足を半分砂に埋めるようにして歩き出したのだった。
「ここよ」
程なくしてエイレンが振り返る。
案内されたのは、砂浜から近い崖下にぽつっと空いた小さなウロである。木の細い枝をまとめて紐でしばっただけの目隠しを除けると、その裏に『洞穴』と呼ぶにもおこがましいような、ほんのちょっとしたくぼみがあったのだ。
「ここを住居とは呼ばないと思いますが」
戸惑いつつきっちりツッコむルーカスにエイレンは黙って地面を指し示す。
そこには、簡単に切られ、大きさも形もまちまちの石で囲まれた炉があった。
「ね、住居でしょう?」
いや違う、絶対。とは思うが、水掛け論になるのは分かりきっている。
エイレンは置いたままになっていた火打ち石を取り、口の中で精霊魔術の文言を唱えながら炉に火を起こした。
火があかあかと乾いた土の壁を照らし始めると、当然のように湿った軍服を脱ぎ出す。
「おい!?」
「あらルークさんも乾かしたら?わたくし以上に濡れているでしょう?」
「いえこのままで結構です」
ルーカスは組んだ膝の上で両手を握りしめ、じっと炎に目を注ぐ。上に渡されたロープに衣服をかけ、また何やらブツブツと唱えるエイレン。
「精霊魔術ですか」
「ええ。早く乾くようにと、汚れを落とすように」
ルーカスの後ろに回り、その服に手をかける。
「このままでいいですっ」
「いいからじっとなさって」
そのまま先程と同じらしい精霊魔術の文言を唱えられ、ルーカスは軽く脱力した。そう、相手の倫理観は異次元なのだ。いちいち本気にとっていては心臓が持たない。
「少し乾きが早くなるけれど、すぐにとはいかないのよね」
風邪ひいても困るし脱いでしまえばいいのに、と無邪気に言われ、再び全霊を込めて拒否する。
「絶対にダメです!」
「わたくししかいないのに、ヘンな方」
誰に羞じらうというの、と不満げな表情には絶句するしかない。何だと思っているんだろうか、男と思っていないのは確実なようだが。
「もしこれが、あなたが好きな男だったらどうするんですか」
「襲うわ」
「逆もあるとは、思わないんですか?」
「ルークさんがわたくしを襲うの?」
面白そうに問い返され、ああ100%思っていないんだな、と分かる。
もう放っておこう、と改めて思う。意識を切り替えれば良いのだ、となるべく何も考えないようにして、再び炎を見詰めるルーカス。不名誉な信頼であっても、彼女からの信頼ならば応えたいのだ。
あなたが望まないことなら、しない。あなたを傷付けるなど、有り得ない。
「あなたを護りたいんだ」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも意外なものだった。
「無事に聖王国に着いた後も、傍に置いてほしい」
ああでも、それは、ずっと願っていたことだったのだ、と分かる。そしてなんとなく、彼女の答えも分かっている。
エイレンは、いつものように軽やかに微笑み「ダメ」と言った。




