【28】招かざる者(1)
鴻嫗城を出てから急いで歩いたお蔭か、忒畝は思っていた時間より早く絢朱に着いていた。
昼前に出航する船の搭乗手続きを済まし、馨民に連絡を取る。
馨民の声を聞きながら、なぜか脳裏には誄が浮かび上がり違和感を抱く。けれど、原因を追求しないようにし、会話を続ける。
「僕が戻ったら、急いで手を付けた方がいいことはある?」
仕事の進捗を確認した──そのときだ。誰かに、後ろから刃物をあてられたような殺気を感じたのは。慌てて来た道へと視線を送る。感じていたくないほどの冷たい気配は、その方向から伝わってくる。
その気配は、何の気配か──忒畝にはわかっていた。研究所を出る前に感じたものと、まったく同じ気配。
馨民の声は、もはや上の空。申し訳ないと思いながら、忒畝は声を遮る。
「ごめん。やっぱり今日はここを発てない」
そう告げて電話を切ると、忒畝は再び鴻嫗城へと向かう。恐怖を感じ、向かいたくのない、その方向へと。
三十分ほど前のこと。鴻嫗城では、剣士たちの緊急ミーティングが開かれていた。
忒畝の言葉に刺激されたのか、大臣が指揮をとっている。襲撃を受けたという事態を想定した座学だ。沙稀は大臣のとなりで、基礎を退屈そうに聞いていた。
この平和な光景が崩れるとは、誰も思わずに。
最初の微かな異変を感知したのは、沙稀だ。
「どうしたのですか?」
不意に立ち上がった沙稀に、大臣は声をかける。すると、
「何かが……聞こえる」
張り詰めた表情で沙稀が答えた直後だった。異様な奇声が響き渡る。
『ああああああああああああああああ』
『あ』とも『う』とも、『お』とも形容しがたい声は、高い声も低い声も幾重に重なり、その場を一気に呑み込む。
大臣と沙稀には、正体の見当が付く。これは、忒畝が言っていた通りの事態、相手は四戦獣だと。
響き渡る奇声は、神経を襲ってきた。
頭痛や眩暈、吐き気をもよおし、精神さえも蝕んできそうな感覚におそわれる。それは、大臣も、沙稀も同じ。ただ、彼らは呑み込まれてしまえば、それは敗北──つまりは、死に直結すると身をもって知っている。だからこそ、振り払うことができた。
しかし、実戦経験が皆無の者たちは、そうはいかない。周囲は地獄絵図と化す。
ある者は壁に自ら何度も当り、またある者は耳を塞ぎ恐怖に怯え、嘔吐する者、倒れてしまう者たちまで。
鍛えぬかれたはずの剣士たちが、こんなにも精神を乱し、大臣はうろたえた。まさか剣士たちがこんなパニックを起こすとは、思ってもいなかった。
「冷静になれ! お前たちは冷静に判断し、行動を起こす立場だろう!」
沙稀が声を張り上げるが、耳に入らない──そんな感じだ。沙稀は実践経験が乏しい者たちを情けなく思い、悔しさが込み上げる。
しかし、下唇を噛んでいる場合ではない。
──戦えそうな者を探そう。
戦力は多い方がいい。そう思い直して、沙稀が指揮をとろうとしたときだ。
「物理的な衝撃にあまり反応を示しません」
告げてきたのは、大臣だった。いつの間にか奇声元を見つけてきたらしく、ふと手元を見れば、左手に剣を握っている。
「恭良様のところへ。早く! 貴男がお守りすべきはこの城よりも、あのお方でしょう?」
沙稀にとっては、究極の選択だ。天秤にかけようと思ったこともない。だからこそ、大臣を疑うように見た沙稀だったが、目が合うとすぐに体制を変えて走り出す。
大臣は沙稀の姿を見送る。そして、
「では、遠慮なくこの場を仕切らせていただきましょうか」
と、不適に笑みを浮かべた。
取り乱した剣士のひとりに近づき、スッと剣を鼻先に突き出す。
「さて……お前はこの城のために命を懸け尽くすか、それとも、己のために命を乞いこの場で死ぬのか……どちらを選ぶ?」
そう問う彼は、『大臣』ではなかった。傭兵となった沙稀を教育していたときの『剣士』へと変貌していた。
姫のもとへ駆け出した沙稀には、不安はない。かつての『彼』をよく知っている。だからこそ、城の守りは任せられると判断した。
彼の剣の扱いはまるで舞い――やわらかい動きの剣で、決して急所を外さずに射止める。目で残像を追うのがやっとというほどのしなやかな動きを、いともかんたんにしてみせる。
沙稀がS級剣士になってから、大臣が剣を鞘から抜くことはなかったが、あの動きが衰えるはずはないと妙な確信があった。
だからと言って今、その彼に負ける気はもちろんない。
沙稀は姫の行方について集中する。──倭穏は恭良と話そうと誘っていた。倭穏は瑠既の恋人だ。大事な客として、それ相応の客間に行くはず。だからといって、誄と会う場所を使うとは考えにくい。恭良は誄を慕っていて、特別な存在だ。
数多くある鴻嫗城の客間から、沙稀はひとつの部屋へと絞り込む。近づくにつれ奇声は弱くなり、沙稀は恭良が無事だと思いつつも足を早める。
「恭姫、俺です。沙稀です」
辿り着いた目的の客間を素早くノックをする。扉はゆっくりと開いた。その扉に手をかけて開く速度をやや早め、
「緊急事態です。一緒に避難をお願いします」
と、手短に述べる。
切迫する表情の沙稀の対し、恭良の眉は下がる。
「でも、倭穏さんが……」
次第にうつむく恭良の顔。沙稀が部屋をのぞくと、確かに恭良しかいなかった。
倭穏はどこへ行ったのか──そう問おうとしたとき、恭良は言いにくそうに呟く。
「お手洗いに行くと言って、まだ戻ってきていないの」
恭良は待ちたいと言っている。しかし、沙稀には一秒でも惜しい。もし、恭良があの奇声を聞いてしまったらと思うと、気が気ではない。だからと言って、恭良の気持ちを無下にできないのが沙稀だ。
「では、避難の前に一度見てきましょう」
「沙稀が? 女子のお手洗いを?」
何とか妥協策を言ったにも関わらず、恭良は緊迫感のないことを言う。そんな状況ではないのに。
「いえ、恭姫をひとりにさせるわけにはいきませんので、お供するだけです。職務ですから」
最後の言葉に恭良の頬は不満で膨らむ。沙稀は珍しく過敏に気づいたが、すでに後の祭りだ。
「わかったわ」
恭良は通れる分くらいの隙間を更に広げると、扉と沙稀の間をスルリと通っていく。
「いたらすぐに避難を呼びかけますが……もし、いなかったときには。恭姫、一緒に来てくださいますね?」
沙稀は慌てて確認をする。急いで扉を閉め追いかけるが、恭良は一度立ち止まって沙稀を見ただけで、うんともすんとも言わずにまた歩いていってしまった。




