10
あの日、空気が重くなってしまって、リシャールはぎこちなく笑って帰っていった。
同じ痛みを分かち合えるかもしれない唯一の仲間。
いつも軽い感じで接してくるリシャール。心の奥底に抱えているものとの対比に、痛みを感じて心が共鳴した気がした。
胸が痛くて苦しくて、勝手に流れ出した涙が止まらなかった。
〈ルアル、どうかしたのか?〉
「なんで?」
〈薬草の収穫に随分時間がかかっているし、ここ数日元気がないから。今日は落ち着きがないし。あいつになにかされたのか?〉
「何もされていないよ」
〈ほんとか?〉
「うん。大丈夫(何もされていない。何もない)」
ルアルは勝手に想像して泣いただけ。
ルアルが泣いてしまったのを見て、ぎこちなく笑ったリシャールも泣きそうな顔をしていた。
だけど、ただそれだけ。
結局、リシャールは自分のことを話さなかった。
「はぁ……(捗らないな)」
顔を上げて木の影で今の時間をなんとなく確認する。
いつもなら今日、来るはず。
今までならこの時間には来ていた。
なのに来ない。来ないのは、前回のせいかと気がかりだった。
多めに作ってるのは晩御飯の分も兼ねているから、薬作りが捗ってないし時短のため――と、自分に言い訳しながら、お昼前にたくさん作った野菜スープ。
このままでは本当に晩御飯にも食べることになってしまう。
(……今日は来ないのかな)
前に、五日ごとに休みがあると言っていたから、今日は休みのはずなのに。
〈あいつを待ってるのか〉
「え!ち、違うよ」
〈……今日、今までのとは違うクッキーを持ってくるって言ってたのにな〉
「あ、そうだね。(ピッピもリシャールを待ってるのかな)」
〈俺はあいつを待ってるんじゃないぞ!あいつが持ってくるクッキーを待ってるんだ!〉
「同じことじゃない?」
〈ぜんっぜん違うだろ!?そこんとこ間違えるなよ!〉
「リシャールが来ないとクッキーもないよ」
〈……知ってるよ。ルアルは少し落ち着けよ!〉
ピッピに指摘されるほどルアルは落ち着きがなくなっていた。
気を取り直して今度は薬作りに集中していると、気がついた時には日の色が茜色に変わっていた。
結局、この日リシャールが小屋に来ることはなく、お昼に作った野菜スープは晩御飯と翌朝にも食べるはめになった。
休み毎にこの小屋に来る約束なんかしていないし、リシャールにはリシャールの休日の過ごし方がある。
(なのに、私はどうしてがっかりしているの……)
◇
「いらっしゃい!あ、ルアルちゃん。こんにちは!」
「こんにちは。納品に来ました」
「はい。じゃあ今日もこの上に出していってもらえる?確認していくわ」
「はい」
リュックと手提げに入れて抱えてきた薬を、いつも通りカウンターに並べていく。
(傷薬が一、二、三、四……)
「……あの」
「(……二十三)ん?(二十四、二十五と)どうしたの?」
「……リシャールに頼んでくれたんですよね。ありがとうございました」
「(リシャール??)……えっと?」
アンヌは薬を数えるのを止め、首を傾げる。
「(あれ?リシャールで通じない?)あの、軍人の」
「ああ!少将様ね。そうそう。そうなの。次の日にルアルちゃんの家を聞かれてね。『西の森に住んでいることしか知らない』とは言ったんだけど、それでも行ってみるって言うから、『じゃあついでに』ってお願いしたの。ないと困るでしょう?」
「助かりました。ありがとうございました」
「いいのいいの。私はついでにお願いしてみただけだし。だけど、ちゃんと辿り着けたみたいね。(宗主国の軍人さんにお願いするのは図々しいと怒られるかと思ったけど、なんの抵抗もなく引き受けてくれて。無事に届けてくれたみたいだし、頼んでみてよかった)あの少将様とは何日か後に偶然会った時、『渡してきた』と聞いていたけど、大丈夫だった?」
「はい」
「そう……(少将様、明らかにルアルちゃん目当てっぽかったのよね。初めは軍人だから安心かと思ったけど、次に道で会った時にはルアルちゃんの事ばかり聞いてきて。ルアルちゃん、嫌でも断れなさそうだし、あの人ちょっと軽いし。格好いいのが余計に心配だわ。ルアルちゃん、免疫薄そうだし。ああいう手に慣れてないだろうからコロッ――)」
「あ、あのっ。あっちで待ってます……」
「あっ。そうね。もう少し待っていて(えっと、二十六、七、八……)」
リシャールとアンヌはよく会っているわけではなかったことが分かって、ルアルは少しほっとしていた。
(私目当て――それは、同じ力を持った仲間が見つかったから)
「ルアルちゃん、お待たせ!先月と同じ数だったので、こちら。いつもありがとう!」
「こちらこそ。いつもありがとうございます。あっ、この前の小麦粉代とかは……」
「いいのいいの。いつもいい薬を卸してくれるお礼だと思って。それよりね……あのね、相談があるのだけど良いかしら?」
「はい」
「実はね、少し特殊な薬が必要で――――」
アンヌから、魔物の瘴気に侵された体を治す内服薬が作れないか相談された。
塗布用の傷薬でも治せないほどとなると、かなり強い瘴気となる。
それくらい、この国境沿いに近いところに強い魔獣が出ているのだと推測できる。
「作り方は知っているのですが……」
「作ったことはない?」
「母から教えてもらって以来で」
「作り方を知っているなら作って貰えないかしら?」
「でも、本当に作り方を知ってるだけで……」
「お願い!どうしても必要だって頼まれちゃって、私も困っているの(駐留軍のお偉いさんがわざわざ来るくらいだから、用意したいけど、ルアルちゃん困った顔してるわ……諦めるしかないかしら……)」
「わかりました」
「ほんと?ありがとう!数はとりあえず十個。できれば一週間か二週間後には欲しいのだけど……。いつもの納品日と違うけど、大丈夫そう?その分、いつもの薬は腹痛の薬なら減らしてもらってもきっと大丈夫だから」
「やってみます」
早めに欲しいと言うことはそれだけ危機的状況が差し迫っていると考えられる。
(材料調達に行かないと……)
今回頼まれた薬作りについて考えながら、食堂に向かって歩く。
いつもなら人と目が会わないように下を向いて歩くルアル。
しかし、今日は無自覚できょろきょろしていた。
軍服姿の人を見るとドキッとしてしまうけど、リシャールとは別の人ばかり。
リシャールの心の奥を垣間見たあの日から二週間。彼はぱったりと来なくなってしまった。
初めて小屋に来て以来、リシャールは休み毎に小屋に来ていた。
こんなに急に来なくなると、何かあったのかと心配になる。
(もしかして、アンヌさんから頼まれた特殊な薬が必要なのはリシャールだったり!?)
そう思うと心配になってきたが、誰かに確認することもできない。
「いらっしゃい!カウンターだけどいいかい?」
「はい」
今日も他のお客さんから見えにくい、いつものカウンターの端。
ブラウンシチューとパンを注文して、今日も頭の中に流れ込んでくる声を何となく聞き流す。
特殊な薬のことやリシャールのこと、自分の思考に集中し始めた時、気になる声が聞こえてきた。
「――――ってのが、少将だってよ」
(少将って……、リシャールのこと?)
振り向いてしっかり聞きたいが、それはできない。
心の声が聞こえていることは、絶対に誰にも悟られてはいけないのだから。
心の声に反応することだけはしてはいけない。
「なんでも駐留軍の少将って、若くて良い男だって噂じゃないか」
「ああ。だから、領主様が末のお嬢様を嫁がせたいってんで頑張ってるんだろ」
「お嬢様は確かに器量良しだが、相手は宗主国から来てるエリートだろ?言っちゃ悪いけど、この辺じゃ美人でも、大きな国の都会なら珍しくない程度だろ」
「いや、俺の聞いた話じゃ、怪我して入院していた所にお嬢様が見舞いで通いつめてるって」
三人ほどの男性がしている噂話。
何食わぬ顔をしてシチューをすくおうとしたルアルはスプーンを落としそうになった。
(怪我して入院!?やっぱりあの薬が必要なのはリシャールなの!?どうしよう。早く帰って作り始めないと!)
「いやいや!てっきり俺もお嬢様が入れあげて領主様もその気になって頑張ってるのかと思っていたけど、それがどうやら違うんだよ!」
「どういうことだ?」
「それが、退院したら今度は少将の方が領主邸に通ってるって話だぜ!」
「そりゃ、お前!それって、そういう事なのか!?」
「二人は結婚するって最近専ら噂になってるのは、てっきり領主様が外堀を埋めるために流した噂だと思ってたが、そういうことか!」
「お嬢様と宗主国の少将閣下か!そりゃいい!二人が結ばれればこの町の安全が保障されたようなものだな」
(………………そうなんだ)
リシャールとはそもそも住む世界が違う人だったとルアルは気づいた。
同じ力を持っていて、同じような痛みを持っているようだけど、同じではなかった。
(表で堂々と生きているリシャールと、森の中でこそこそと生きるしかない私……。全然違うじゃない)
リシャールとも食べたブラウンシチューは、それから味が分からなくなった。
食堂を出て森の方へと歩き始めたら、ルアルはリシャールとばったり会った。
リシャールの左手首に包帯が巻かれている。
『怪我して入院していた』という噂は本当だったようだ。
「あっ!?ルアル!なんで?」
「リシャール……(あ、怪我してる……)」
「あ、これはその……」
ルアルが包帯を巻かれた手に視線を送ると、リシャールは背中に隠すように手を後ろに回してしまった。
「……(なんで隠すんだろう)」
「これはその、ちょっと……」
(あれ。噂の少将様じゃない?)
(あら?一緒にいるのはお嬢様ではないわよね?)
(あれって、旅行者?ん?あのローブって、もしかして森の魔女とか言われてる……?)
「あ……そ、それじゃあ……」
ルアルは、この小さな町で言われている自分の評判を理解しているつもりだ。
森に住み着く魔女――ルアルはそう言われている。
これから領主の娘と結婚するなら、魔女と話しているところを見られては駄目だ。
「え?ルアル!?待って!なんで逃げるの!?ルア(痛っ……)」
人々の心の声で、関心が集まり始めていることに気がついた瞬間、ルアルは走り出していた。
自分のことを魔女と呼ぶ周囲の人の声を、リシャールに聞かれるのも嫌だった。




