57 愛情
楓にとってはまさに人生の転機となった場所。
高校入学を機に地元を離れてから、一度もあの公園には近付いていない。高校入学前も公園や墓には積極的には行っていない。たまに墓に行って一笑するぐらいであった。
意図的に避けていた訳では無いのだ。わざわざ思い出巡りをしている暇があるのなら「走れ」。明ならきっとそう言う気がした。
だから夕月の提案にはただ驚いた。嫌という訳では無く、墓に行くなどという考えそのものが楓の頭には無かった。
だが、それもいいのかもしれない――。
慧に心をへし折られ、自分の土台が崩れてしまいそうな感覚。初めて立ちはだかる壁に楓は憔悴している。
何か立ち直るきっかけになればと、結局は行くことに決めた。
出発は明日、隣県なのだがなかなかの距離があるため幹に連絡を取った。これを幹は快諾、楓からのお願いなど滅多に無いため手放しで喜んでいたようだ。「ちょっと早めの墓参りだな」と言っていたので、幹にとっても都合は良かったらしい。
(おっさんの墓か。タバコでも買っていくか)
幹に頼んでタバコを買ってもらおう。そう思ったのにも訳がある。
生前に明がタバコを吸っている光景を見たことがある。ボクシング漬けの日々を送っていたので、引退を機に「嗜好品の一つでも試してみよう」と目の前で吸っていた事を思い出す。その煙で盛大にむせていたのは言うまでも無い。
墓参りなどしたら、きっと明は指さしながらゲラゲラと笑うのだろう。だから何か皮肉の一つでもやり返しておかないといけない。
行くと決まったら少しだけ嬉しくもなってくるもので、「話しておくことが沢山あるな」と小さく呟く。その声は夕月の耳にも届いていたようだ。優しい瞳で楓を見つめている。
見つめ合っていると、その空気に割り込むように玄関のチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
「ん? 誰だ? ちょっと行ってくる」
夕月がこくんと頷いたのを見て玄関に向かった。扉を開けるとそこには意外な人物が立っていた。
身長は楓と同じぐらい、切れ長の目に長い睫毛、長い髪を後ろで一本に縛っている。スーツ姿のキリッとしたその姿は、如何にも有能なキャリアウーマンといった様相か。女性にしては高めの身長だが、出るところは出ており、締まるところはしっかりと締まっている。歩いていたなら言わずとも注目の的である。
神代梓。
正真正銘、楓の母である。
楓の身長、そして目つきは梓からの血が濃い。並んで歩いていたなら母子だとすぐにわかるであろう。
言うまでも無く、美人と呼ばれる類の人種である。あずみに近い雰囲気だろうか。
突然の来訪者に一瞬固まっていると、梓はニッコリと笑って口を開いた。
「久しぶりだな楓。元気にしていたか?」
「……母さん。相変わらず元気そうだな」
――清廉潔白。
この言葉を体現したような人物だ。後ろめたい事など一つも無い、純粋で真っ直ぐ。女性にしては珍しく漢気がある。隠し事など一つも無いし、させない。幹もそのような梓に惹かれて一緒になった。
楓の性格はどちらかと言うと梓譲りだ。それも無理は無いことで、男性から見てもカッコいいと思える生き様は、憧れの対象となるのは当然と言えた。
一本気で少しだけ古臭い。不器用なところも楓とよく似ている。
梓は楓をじっと見つめると、うんうんと頷きながら破顔した。
「突然来て悪かった。ちょうど昨日帰国してね、とりあえず楓の顔を見たくて来たんだ。迷惑だったか?」
「はは、母さんらしいな。迷惑なもんか、顔見れてよかったよ俺も」
梓は楓の身体を下から上へと確認していく。首を何度も縦に振り、何か納得したように満足気だ。
「身体が一回り大きくなったか? しっかりと鍛錬しているようでなによりだ。母は誇らしい」
「大袈裟だ。まぁプロテストまでにはもっと仕上げるさ」
「期待している。だが無理はするな、健康第一ということを忘れてはいけないぞ。ところで……」
玄関にちょこんと並べてある女物の靴を見つけたようだ。中に夕月がいることを失念していた。
「幹から聞いている。彼女だろう? 挨拶させてもらおうではないか、いいか?」
「構わない。夕月も喜ぶ」
快く応じると二人で部屋へと戻る。梓の姿を見つけた夕月は、急いで立ち上がると姿勢を正す。緊張でカチカチになりながらもなんとか口を開いた。
「……は……はは……はじめまして……小日向夕月……と……申します」
「はは! そんなに緊張しないでくれ、私が緊張してしまう。はじめまして神代梓だ。楓が世話になっているね、それにしても……」
梓は遠慮無く夕月に近付いていくと、少しだけ腰を折ると至近距離で顔を見つめる。「ふむ、なるほど」と頷きながら呟いた。
「幹から聞いていた通りだな。とんでもない美人だ。楓と一緒にいるのなら性格も申し分無いのだろう。こいつに合わせるのは普通の女子高生では不可能だからな」
「……いえ……そんな」
「謙遜する必要は無いよ。目を見ればわかるものだ……楓。いい人を捕まえたな」
「あぁ。俺もそう思う」
あっさりと肯定する楓を見て、夕月は顔を真っ赤に染めて押し黙ってしまった。その様子を見て堪らなくなったのだろう、梓は夕月を力一杯抱きしめる。
「……ふぇ?」
「すまない! あまりに可愛らしくな! 衝動的に動いた後悔はしていない!!」
「……あわわわ」
突然の事に混乱している夕月は、それでも嬉しそうに笑っている。その様子を見て楓は胸を撫で下ろす。もっとも梓と夕月が険悪になるとは思っていなかった。
梓はその見た目と性格でありながら、可愛いものが大好きなのだ。目の前にとんでもない美少女が居たのなら……必然こうなる。
少し間を置いてゆっくりと身体を離すと、両手で包み込むように夕月の顔に触れる。まじまじとその顔を見ると「あぁ!!」と嬌声を上げた。
「なんて可愛いんだ……夕月さんは楓の嫁に来るのか!? ということは私の娘になるわけだ! 大歓迎だとも!! 愛して愛して愛し尽くしてやろう!!」
「……はわわわ」
「母さん。夕月が困ってるぞ」
「これは失礼」と一歩後ろに下がると優しく微笑む。夕月も驚いてはいるようだが嫌そうでは無い。
テーブルを挟んで三人がその場に座ると、ようやく落ち着いた空気となった。
話を聞くと、どうやら明日は梓も同行する事になったらしい。盆期間は日本にいないらしく「それならば丁度良い」ということで墓参りを済ませるつもりらしい。
梓も幹に会うのは久しぶりらしく、それも理由の一つのようだ。
コーヒーカップを手に持ちながら、梓は再度夕月を見つめる。夕月も恥ずかしそうに、だがとても嬉しそうに見つめ返している。
「……楓の……お母さん…………羨ましい」
「ん? 嬉しい事を言ってくれるじゃないか。お母さんか。いい響きだ」
「……ご……ごめんなさい!」
「何を謝っているんだ。むしろ積極的に呼んでくれていい!」
どうも夕月はこういったやり取りに慣れていないらしい。だがそれも考えてみると当たり前だった。
家族からの愛情に飢えていた夕月は、このように手放しで好意を向けられる事に慣れていない。楓や陽、響から向けられるものとは、また違ったものであるからだ。
だから耐えられなかった。
気が付くと夕月の大きな瞳から一粒の涙が零れ落ちる。
「……あ……あれ……」
自分でもよくわからないのだろう。一生懸命に両手で拭ってみても涙は止まらない。堰を切ったように感情が爆発していき、身体は僅かに震えている。
そんな様子を見た梓は、目を閉じて大きく息を吐く。そして夕月の隣に座り直すと強引に抱き寄せた。
「嬉しいのか? 悲しいのか? ……私にはわからないが、何かあったら頼るといい。私達は君の味方だ。安心しろ」
「…………」
胸の中で弱々しく泣いている少女を梓は優しく撫でる。泣き声が止むまでずっとそうしていた。
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