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54 それは必要な時間

 

 浜辺から少し歩いたところにあるコンビニ跡地。


 その裏手が程よい広さになっており、しかも建物で人目を避けられるため好都合だった。

 スプレーでペイントされた下品な絵が並んでいる。それを絵と呼べるかは難しいところだ。辺りには木が生い茂っていて、明媚とまではいかないものの小さな林になっている。そこは浜辺の喧騒とは違い静まり返っていた。


「幸いな事にさ、軽いヒビで済んだんだ。僕の肋骨」

「そうか。だがまだ完治していないんだろ?」

「ふふっ、心配してくれているの? 余計なお世話さ、問題無いよ」


 シャドーをしているが、軽く振っているその左は凄まじく速い。グローブという重りが無いため尚更際立つ速度である。

 たーんたーん、と独特のリズムを刻みながら左右を振る。異質な程の身体のキレは、プロでさえ簡単には触れさせないだろう。


 楓も軽く身体を動かす。マスとはいえ本気でやるつもりである。自分が今どのような状態なのか知っておきたかった。


「さ、始めよっか。遊びみたいなものだけどね」

「……ああ」





 慧は10円玉を取り出すと親指で上に弾いた。

 ゆっくりと地面に落ちていき、キーンと開始の合図が鳴り響く。



 オードソックスに構えた楓、そして相変わらずのノーガードの慧。


 先に仕掛けたのは楓。

 頭を振りながら圧力をかけていく。ジャブというよりはストレート、次々と放り込んでいく。


 飄々と慧はそれを躱す。口元には笑みを浮かべながら要所で左を放つ。何発寸止めされただろうか、数え切れないほど放り込んだ後、右ストレートを繰り出すと身体ごとその場から消える。


 手に負えない。


 確かに寸止めであるから実戦とはまるで別物である。実戦ならば、強打を当てていけばいずれは身体の自由を奪えるのだ。そういう意味ではこのマスは遊びの延長ではある。


 だが……いや、だからこそ慧の圧倒的な天賦の才が光る。次々とパンチを放り込んでいく。

 対照的に楓のパンチは寸止めすらさせてもらえない。全てを鮮やかに避けてしまうのだ。楓もかなりスピードはあるほうだ。しかもグローブをつけていないのだから相当な速さがある。


 歯軋りが聞こえてきそうなその表情を見て、慧は大きくため息をついた。




 楓の放った左ジャブを右手で掴んだ。

 そしてカウンター気味に左ストレートを伸ばす。


「な!?」

「弱いよ……ダメだよこれじゃあ。威圧感がまるで別人だね」

「……」

「言い方は悪いけどさ、"殺してやる"ぐらいの殺気が無くなった。見てよ、僕全然震えていないよ」


 伸ばした左をゆっくりと下ろすと、楓の表情を観察する。じっと見つめた後、怠そうに口を開いた。


「ねぇ、がっかりさせないでよ? こんなもんじゃないだろう君は。こんなのは許さない」

「……俺が弱い?」

「うん、弱いね。何を悩んでいるのか知らないけど、早く復活してよね。じゃないとつまらない」

「…………」


 何も言い返せずに下を向いたまま押し黙る。これほどまでに圧倒されてしまっては、何も言い返せなくても無理は無い。

 身体自体のキレは悪くない、ようは気持ちの持ちようなのだ。ぽっかりと空いた心の隙間と表現したらいいのだろうか。決して気を抜いているつもりは無いのだ。

 だが慧の瞳にはそのように映っている。


 リング上でグローブをつけてやれば勝てる成算はある。だがそれも今は負け惜しみになってしまうだろう。

 だから結果として慧の意見をそのまま受け入れざるを得ないのだ。きっと今の楓には何かが足りないのだろう。


 それでも慧が楓を見限らないのは、類い稀なライバルを失いたくないからだ。敵が勝手に消えてくれるのは好ましい、そんな事を考えるのは所詮三流。

 共に競い合い、そして自分の力を見せつけたうえで叩き潰す。その執念には一点のブレも無い。


 慧は黙ったままの楓の肩を軽く叩くと眉を顰める。そのまま背を向けると、軽く手を振ってから去っていった。


 その場に残された楓は近くに立っている木を叩く。何かにぶつけないと爆発しそうだった。



 悔しい。



 一方的にやられた自分が、何も言い返せなかった自分が……許せない。

 鈍い音が鳴り響く。拳の皮が捲れて血が滲むが、それでも構わずに叩きつける。


「おい!! 何やってんだよ楓!! やめろって!!」


 腕を掴まれ止められた。ゆっくりとその人物を確認すると、陽だった。


「何してんだよ……大事な拳だろ!」

「……うるせえよ。離せ」

「いいや離さないね!」


 腕を掴んだまま半ば強引に表の道路まで連れて行く。

 陽は着ていたTシャツを脱ぐと、躊躇無くビリビリと裂いていく。血が滲んだ楓の拳にそれを巻きつけた。


「で、どうしたんだよ?」

「……」

「話したくないのか? なら聞かないけど」


 陽は自分の事を心配してくれている、それは痛いぐらいに伝わってくる。


 なんと情けない事か。

 まるで子供。


 楓はどうしたらいいのかわからない。いっそのこと恋人や友人、そういったものを排除すればいいのだろうか。



 それはできない。


 ではどうしたらいい。



 そんな考えが延々と頭の中で渦巻いている。

 これは楓にとって初めての経験であった。


「なぁ楓。少しずつでいいから話してくれよ。力になりたいんだ」

「……」

「駿河慧と何かあったんだろ?」

「陽。俺は弱くなったか?」

「そう言われたのか?」

「あぁ、威圧感が無くなったってな。俺はやっぱり1人でいた方がいいのか? わからなくなった」


 陽はじっと楓の顔を見つめる。ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。


「俺はボクシングそんな詳しくないし、正直わからないよ。だからその問いには答えられない、悔しいけど」

「……そうか」

「でも俺や響、なにより夕月さんと関係を断つなんて考えてるんなら、それは殴ってでも止めるよ」

「……」

「ふざけるなよ……これだけ関わっておいて、自分から一方的に離れていく? そんなの勝手すぎる」

「じゃあ……どうしろって言うんだよ!!」

「俺が知るわけないだろそんな事。自分で考えろよ」


 楓が頭の片隅で考えていた事を、先読みして制止された。友達を辞めるつもりなど無いと陽の瞳は語っている。

 拳に巻かれた布からうっすらと血が滲んでいる。拳に力を込めてみても、歯軋りをしてみても、何も変わらなかった。

 感じるのは拳から伝わってくる鈍痛のみ。


 そんな様子を見ていた陽は、楓の背中を軽く叩きながら困ったように笑った。


「なんか変な話だけどさ。安心したよ」

「安心?」

「うん。楓も俺と同じ高校生なんだなぁって」

「なんだよそれ」

「おまえが壁にぶつかって悩むなんて想像できなかったよ。軽くぶっ壊して進むと思ってたしね」

「……買い被りだ」


 堪えきれなくなったのか、陽は声を出して笑い始めた。

 不思議とバカにされている気はせず、むしろその笑顔を見ていると酷く安心した。


「もう少し夏休みは残ってるしさ。少しだけ歩みを止めて考えてもいいんじゃないか? ずっと全力で走ってきたんだ。バチは当たらないだろ?」

「……」


 その陽の言葉に素直には頷けない。身体を動かさないと逆に不安になる気さえした。


 だがわかっているのだ。


 陽が正しい。きっと今の自分に必要なのは頭の中を整理する時間であり、それをしない限りは練習にも身が入らないと思った。

 とすれば……今すべきことは練習では無い。絶えず湧き上がる焦燥感には蓋をして、考えなくてはならないのだ。

 それが最優先事項。


 少し間を置いてから小さく頷く。


 頷いた楓の様子を見て、少し安心したように陽は笑った。


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