刃の権能 その8
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年8月2日。
あたし、猫崎 唯の前に現れた男、呉 建炫。
めちゃくちゃカッコいい……
……じゃなくて!やるなら今!
今ならこの子を斬れる……!それでこの綿は収まるんだ!
「エーデルワイス!アンタ彼の仲間なのに、これがチンアナゴだって気づかなかったの?」
チンアナゴなんてのは、正直どうでもいい。
あたしが、みんなを助ける!重要なのは、今この瞬間だ。
エーデルワイスの細い首に、鉤爪の軌道を……
……定めた。震える鼓動を制するように、肩で息を吸う。
やらなきゃ!!だってコイツは邪神の。
……あの憎い、邪神の。
……邪神の……何?
この一瞬、流れ込む思念は紛れもなく、あたしのものだった。
……助ける?
傷つけることしかできない、あたしが……?
……斬る?
この子に何の恨みもない、あたしが……?
なんで?何のために?
その時、体に力が入らなかった。
……それでもあたしの刃は、正確無比だ。
この権能は確実に、狙ったものを斬れる。必ず、斬ってしまう。意思に関わらず。
冷や汗が止まらない。このひと呼吸の間に、あたしは一線を越えてしまう!
後悔が、鼓動が、獲物の髪の匂いが!あたしの心臓を、一瞬で握りつぶしてしまいそうだ。
止まって、お願い!
もう、手遅れだと思った。刃が届けば、あたし……
……人殺し。
その時だった。
……あれ?手が!刃が……!
その場で完全に、制止されていた。
……動かない!力を込めても、筋肉が強張るだけ。まるで、何もない空中にネジ留めされたみたいだった。
……身体も、腕も、動く。でも、身体から飛び出た刃だけが動かない。刃を納めることもできなかった。
前のめりで止められた体。
目の前には擦り傷ひとつない、あの子の華奢な首元。
あたしは……どうしてか、目頭が熱くなっていた。
……人としての一線を、あたしは越えられなかったんだ。
あたしの潰れかけた心臓には、血液が流れ込んで……胸の奥が息を吹き返すみたい。
あたし……まさか、安心……してるの?
違う……そんなんじゃない。
あたしなんかに……そんな資格ないのに!
なのに……なんで……?
ねえ。この涙は……なに?やめてよ。止まってよ!!
この手で涙を拭えないのが、たまらなくもどかしかった。
皆の視線が、馬鹿げたチンアナゴに集まっている。
殺さなかった。殺さずに済んだ。
でも、そんな救済……要らない!!
……要らなかった、のに。
どうして!?……ねえ、どうしてよ……。
……死にたかったのに、生かされた。
あたし、殺したくないのに、殺そうとした。
この、必殺の刃で。
……でも、殺せなかった。
あたしって、矛盾ばっかりだ。やっぱりだ。
こんなにも、矛盾だらけ。
……それがまるで、「生きててよかった」……この期に及んでそう言ってるみたいじゃない。
認めたくなかった。
許せなかった。
……そっか、あたし、死にたかったんだ。
こんな自分が、この世界から消えられたなら、どんなに楽だったか……いつの間にか、そればかり考えてた。
それなのに、なんで……?
あたし、こんなの……知りたくなかったのに!!
胸が震えて、脈動が頭にまで響く。
こんなにも、何かが止めどなく溢れる。
あたし……歩き出せるかな?
解放された伊勢さんと、建炫さんが何か話しているみたい。でも、視界が潤んで歪み、何も見えない。
「……それが、その権能の流れか!」
建炫さんの声が聞こえると、パチン、と指を鳴らす音。
……あっ。
刃に掛けられた拘束が突如解かれる。前傾姿勢だったあたしは、そのまま前方へと倒れてしまった。
……ボロ泣きしながら顔面からぶっ倒れるなんて、いくらなんでもダサすぎるわ!
床が迫る。間に合わない……!
嫌……!ぶつかる!
ドテッ。
……痛ってぇなオイ!!
「……エーデルワイス、撤収だ。我々の目的は達成された。」
痛たた……建炫さんがそう言うと、エーデルワイスは地面に向かって手を振り下ろす。すると、一帯を覆って萌々奈と瑠美を縛っていた綿が、みるみるうちにエーデルワイスの体に戻っていった。
「帰るんですか?私は別にいいですけど……」
ぽかんとした顔でそう言ったと思うと、エーデルワイスは静かに、倒れこんだ私の方に歩み寄った。
そして、エーデルワイスがしゃがんで、あたしの耳元で囁く。
「……ねえ、唯さん。これこそが、あなたに舞い降りた奇跡、なのかもね。」
その額には汗一つ浮かんでおらず、涼やかだった。あたしには、どんな言葉を返していいかわからなかった。
「どういう、こと……?」
「あなたには殺せないって、わかってた。建炫さんがいたからってのもあるけど……」
エーデルワイスはあたしの目を見ると、手を差し伸べるでもなく、皆がいる方を向いて言った。
「その目から、生きてる匂いがしたから。」
……そっか。
「あはは!……なに、それ。」
あたしはしゃくりあげながら、力なく笑った。こんなヤツに言われたクサいセリフが、あたしのどこかに刺さって溶けた。
それがたまらなく悔しくて、たまらなく……
「さあ、エーデルワイス!それに健之助、日下 萌々奈、猫崎 唯!と、そういえばまだ聞いてなかったな、お前は。」
建炫さんの声だった。
「私、宮島 瑠美っていいます。」
「ああ、すまない宮島 瑠美。……皆、ひとまず原状復帰を手伝ってくれ!」
……片付け?めんどくさ。
「この戦闘での損失を計上して、水族館の管理事務所に報告してほしい。映画の撮影ということで話は通しているが、これほど損失が出るとは想定外だった。ほとんどが、そこのバカが出した獣のせいだがな。」
「獣じゃないですよ、かわいい熊さんですよ。」
「バカは否定しないのか。」
「カメラもないのに映画の撮影?」
瑠美が口を挟むと、彼が言った。
「人払いだ。領域の外からは、権能の綿や刃は、見ることも感じることもできない。4体のチンアナゴ像が、権能の流れを変えているからな。人に見られては面倒だろう?」
……だからってこんな所でやらなくても。
そこで伊勢さんが言った。
「流れということは……僕の権能の動きも、チンアナゴ領域では筒抜けということですか?」
「……健之助、その通りだ。やはりお前、見込みがある。だが、お前の権能は……」
そう言いかけて止めた。
多分、あたしの刃が止められたのも、伊勢さんを縛っていたエーデルワイスの綿が消されたのも、この男の権能に操られたせいだ。
それに、伊勢さんの奇跡が、他の権能とどう違うっていうの?
「それはそうと。今回の被害については俺一人では調べきれん。各々が破壊した商品と、だいたいの個数を書いておくように。」
彼はそれぞれの方向を見て、淡々と言った。
「日下 萌々奈……お前、商品を燃やして投げただろ。それに床も焦げている。」
「ええ、はい。まあ。」
「全部記載しておけ。」
「はーい。」
「次に猫崎 唯。お前のいた所は床に傷跡ができている。これが店内の地図だ。損傷した部分に印をつけろ。」
「はーい。」
うわめんどくさ。
「さて、最も荒らしたのは……お前だエーデルワイス。幾つ商品棚を倒した、やりすぎだバカ。」
エーデルワイスはうなだれていた。
「すまないが健之助に宮島 瑠美……こいつを手伝ってやってくれ。」
……そんなわけで。あたしは店内の地図を見ながら印をつけた。床はビニール?みたいだけど、ザックリと深い斬れ込みがあった。
1時間も掛からず、損害の調査は終わった。
「ご苦労だった、店内の損害はこんなところだろうか。弁償額については邪神様が管理人と協議する。お前たちは早く帰るんだ。」
チンアナゴ像とその結界が消えると、あたし達はそそくさと、お土産コーナーを後にした。
エントランスでは、萌々奈が俯いて呟く。
「ねえ唯、その……ありがと。」
「……そう。」
気の利いた返しでも思いつけばよかった。この沈黙が、重い。
遠くの方では、懲りずにエーデルワイスに抱きつこうとした瑠美が、他の客に見えない薄い綿に絡め取られていた。
「なによこれ〜!エーデルちゃあん!」
ふたりの間の沈黙を破ったのは、あたしの思いがけない言動だった。
「萌々奈……来て。」
萌々奈の手を引く。
「ちょっと!どこに?」
「……いいから。」
そう言って、展示室へ進む。
「どうしたの?」
「別に。」
「……綺麗だよね!」
そしてふたり、クラゲの水槽を眺めていた。
海の月……そんな言葉が似合うような、上品な静けさ。
ふわふわで、煌びやかな可愛らしさ。
水流に逆らっては、変わらずとどまっている強さ。
種類とかは詳しくないけど……クラゲを眺めているのが好きなんだ。
萌々奈が、あたしに笑いかけた。
「……クラゲ、好きなんだね。」
今なら、ちゃんと言える。
「うん、好き!」
笑顔でそう答えると、さっきまでとは違う涙が溢れた。あたし、泣いてばっかだ。
「……えーと、泣くほど?よーしよし、ホラ元気出せー。」
萌々奈はあたしを抱きしめて、わしゃわしゃと頭を撫でる。
「……撫でんなバカ。」
「ちょっと、人の服で顔拭かないでくれるー?」
「うっさい!」
しばらく、このままでいたかった。
あたしは、猫崎 唯。
ただの、泣き虫だ。
猫崎 唯は刃の権能でエーデルワイスを殺そうとしたが、呉 建炫の介入によって殺せなかったことに、内心安堵していた。それは自ら死を望みながら死ねない、他人を殺したくないのに必殺、そんな矛盾にまみれた彼女にもたらされた、ただひとつの救済だった。
刈り取ろうとした命への喜び。それが自身の思いと重なった時、彼女の中で新たな命に出会ったのだった。
一方、建炫が主導で戦闘後の処理を行うなか、彼が持つ謎の権能は、「権能の流れを操る力」だということが明かされる。ただし健之助の力は例外らしく……
希死念慮や自罰、自己矛盾を抱えてきた唯。その大きなきっかけは萌々奈に対する嫉妬だったが……彼女はただ、萌々奈の胸で泣いた。
刃の権能編、これにて完結です。ありがとうございました。長編の最終話だから文字数増えても許してください。
あとチンアナゴって可愛いですよね。
言葉足らずだったと反省すべき点も多いですが、これからも丁寧に書いていきます。




