氷の権能 その3
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
2000年7月19日。
私の、欲しいもの……?
私が、どんな人かだって……?
私、日下 萌々奈は、凍傷で痛む身体を押して、走り出した。
関節の可動域が狭い。それでも、私にとっては全力を振り絞った大きな一歩だった。
この一歩で、何かが変わる。
この状況から脱するだけじゃない、私のとっての何か大きな……転機!そんな予感がした。
眼前にそびえるその像は、まだ遠い。
像の側には、優越感と、苛立ちとが入り混じった、醜悪な表情の猫崎 唯がいた。
まだ、その像は遠い。
振り返ると、冷田とかいう大男を何とか制止する、謎の男の人の背中はまだ近い。
この歩みは、私の意思かもしれない。
それとも、この真面目そうな?謎の男の人が、私に何かをしたのかもしれない。
もしかして、魔法……?
ここは神流町だ。魔法があっても、驚かない。
とにかく、私は行くと決めた。
行かなきゃ。そして、欲しいもの………
像の近く、伸ばせば手が届くところに来た。私を取り囲む冷気を、振り切って進む。
冷気のせいか…… それとも、その像の力なのか、頭が冴えてくるような感覚が確かにあった。
そんな私の頭の中に、一つの声が響く。
「望みは、過去。 ……お前は、誰だ。」
……像から聞こえる妖しい声。幻聴だ。
でも、今はこの声に従うしかない。
この足で、奇跡を掴むため…… !
足は止めない。
私の願いは、過去にあると信じて。
……昔から、私は明るい子だと言われて育ってきた。
勿論、人の噂話なんかはしない。もっとも、小さい時にはしたのかもしれないけど。
……そうだ、私は温かみのある人でありたいと願ってた。
ああ、寒いな。
優しさを与える、朝日の輝き。
安心を与える、お母さんの手の温もり。
私の欲しいもの。
大好きなもの。
そんな、美しい概念みたいな人になれたら、なんて考えたりもしたっけ。
でもやっぱり寒い。
そもそも、まずはこの氷を融かさなきゃいけないよね。
いま欲しいもの。
とりあえず、この寒さから抜け出せればそれでいい。
そしたらまずお風呂に入って……
そして私は今日を乗り越えて、明るく温かい人として過ごしたい。
輝きに満ちた未来が欲しい。
……うう……寒い。
寒すぎる!!
そうだ。熱だ。私は今までも、今も。
温かくて、優しい熱を渇望している。
そして私は、ソレに……触れた。硬くて冷たい。なんか、やっぱりキモい。
同時に、もう引き返せないような気もした。
……この像のせいで、私の日常は終わるんだろうな。
静かな安堵感と、威圧感にも似た緊張が一瞬のうちに駆け巡る。私の中に不思議な声が響く。これは、男性?女性?周りには聞こえていないらしい。
「願いは聞かれた。邪神が権能を、神に代わって授けん。」
チン…アレ像の右側のタマに、紋章のようなものが光り、浮かび上がってくるのを見た。そこには、太陽の光の輪に囲まれた、薔薇の花びらのような紋章。
この紋章を見て、それが「熱」の力であることを、私はなぜか瞬時に理解できた。
このときだった。
私の全身が黒い靄に包まれ、体はふわりと中に浮いた。体の内側が熱い。
これが、私が望んだ熱だっていうの……?
痛みは残るけど、もう寒くない。急に血が巡って皮膚が痒い。でも、そんなことはどうでもいい。
ありえないほどの力がみなぎる。掌が熱い。
私を縛り付けていた鋭い冷気が、空気に散り、熱に吸い込まれていくのを肌で感じる。
目の前にいるのは、冷気を発する男。顔を見たのは今日が初めてだ。
猫崎 唯は……クラスでは委員会も同じだったし、ちょこちょこ話すことはあった。
別に、愛想がいい子だとは思わないけど、自分が根も葉もない噂を言いふらされたからって、他人をこんなに追い詰めたりできるような子じゃない。
と、仲いいわけじゃないけど、そう信じている。
……そっか。猫崎 唯は変わってしまったのかもしれないね。
間違いない、このヤンキーのような男が唆したからだ。
そんなことできる子じゃなかったのに。
その時悟った。私のこの力は、与えられるべくして与えられたのだと。
男は私の目を見る。
足を後ろに下げ、間合いを取るような構えだった。怖気づいているんだ。
無理もない。私の力は、この冷気を確実に無力化しているから。
奥にいる唯の顔を見ると、変な顔をして、なんだか喚いている。
……あーあ、いい友達になれると思ったんだけどな。
私がこの男を倒したら、恨まれちゃうかな。
もう恨まれてるか。濡れ衣で。
なんてことを考えながら、弱まっていく冷気の源に目を向ける。
……私は、手を振りかざした。
煮えたぎるような、熱。
そこから先は、あまり覚えていない。
2000年7月19日。
僕、伊勢 健之助は、今なにを見ているのだろうか。さっき僕の口をついて出た言葉も意味が分からないが、彼女はその通りに動いた。
凍えて思い通りに動かない体を引きずって。
その結果、恐らくその像からだろう。灼熱の、不思議な力を得た。
珍能像が纏うオーラにも似た、禍々しい力だ。きっとこれが……この熱が、彼女の「権能」なのだろう。
みるみるうちに周囲の氷を溶かしていく。暑い…いや、熱い。
これほどの暑さを感じたことは一度だってない。
「……なんだってんだよ!俺の氷が解けていくじゃねえか!」
目の前の男は、像に触れた少女を見て慌てふためいていた。高慢そうな金髪の女はというと、
「こいつも超能力がつかえるの?マジわけわかんないんだけど!ねね、あっくん、早くあのバカ女をやっつけて!お願いっ!」
と、早口でまくし立てる。
「おうよ!」
男の周囲から、またも強烈な冷気が漂う。
僕の方など全く見ていないが、その冷気で僕の体は硬直していた。
完全に巻き添えだが、皮膚が裂けそうな気分だ。
女の期待に応えたい、そんな気概を男の背中から感じた一方で、得体のしれない脅威に足がすくんでいるように見えた。
どこか及び腰で男は両手を構え、さらに冷気を強めた。周囲に氷の粒が集まり、地面を霜が覆う。
……いて、僕の唇がひび割れてしまった。
だが、目の前の壮絶な光景の前にして、そんなことはとうに忘れていた。
熱を帯びた少女は、はかなげで、それでいて静かな怒りを湛えた表情を浮かべている。
先ほどまでとはうって変わって……危険な圧。禍々しい灼熱は膨れ上がる。
熱気と冷気の間。男の周囲では空気中の水分が急激に冷やされ、息もできないほどの霧がかかる。
この膠着状態が8秒ほど過ぎただろうか。いや、時間の感覚など最早あてにならない。
膨れ上がる熱を抑えきれず、男は満身創痍だった。
男は幽かに揺れる弱い冷気に包まれながら、その肌には汗を浮かべている。
地面に滴り落ちた汗は、ジュウ、と音を立てて蒸発した。
まるで乾燥しきったサウナのようだ。肺を凍らせる程の冷気は、肺を焼き尽くすような熱気に切り替わった。
あまりの温度差に、体が呼吸を拒否しているようにまで感じる。
それでも、僕は熱の少女と、氷の男の姿を目に焼き付けようとしていた。
熱を帯びた少女は、手を振りかざす。
「……ーっ!」
僕は息を呑む。像の陰では、金髪の女が、喚き散らしていた。
「……おいこのクソ女ァァ!!あたしの!あたしのあっくんに、な、なにするつもりだよ!!やめろ!離れろよ!!死ね!死ね!!」
その掌が放つ邪悪な灼熱は、その場にいた全員に底しれぬ恐怖を植え付け、正気を奪っていた。
……あ、これ僕もヤバいかもしれないな。
少女の手が、男の足元に向かってゆっくりと、しかし力強く振り下ろされた。
「……私、寒いの、嫌い。」
少女が静かに呟く。
その一瞬、時が止まった気がした。
ついに、 萌々奈は珍能像に宿る謎の人物から「熱」の権能を与えられ、強力な氷の権能をもつ 冷田を圧倒する。戦いの行く末はいかに。




