40. 黒き死を照らす篝火①
アルヴァに促され、カレンとフィオナを連れて走ったルカは中庭の扉の影へと二人を押し込んで自分もそこに身を隠した。
「フィオナさん、結界を……!」
息も絶え絶えに伝えれば、彼女も荒い息のまま頷いてくれた。
『フォンテーヌっ!』
『任せてちょうだい!』
張られた風の結界の下に、支えるように水の結界を。それでも、ルカは不安をぬぐい切れなかった。
――姉上があれだけ硬い声を出すなんて。きっと、大変なことが起こる。
ルカはカレンとフィオナを守れるように更に奥に押し込んで、ぐっと体に力を入れる。
その直後だった。
最初に感じたのは、音だった。鼓膜が破れそうなほどの爆発音だった。
次に、結界がたわむのを感じた。洗剤で作った泡に息を吹きかけた時のように、結界が歪んでいる。
フィオナは必死で形を戻そうとしているが、ルカは恐らく無理だろうと思った。きっと、もう数秒も持たずに結界は解けてしまうだろう。
ルカの想像通り、結界は衝撃に耐えきれずに弾けてしまった。不幸中だったのは、大きな瓦礫はあらかた弾いた後であったことだった。
飛び来る瓦礫はルカとフィオナが精霊魔術で弾いて砕く。それでも、弾き切れなかったものはルカたちの後ろ、扉に当たって腹を揺らすような音を響かせた。
――このままここにいたら、扉が壊れてその下敷きになりかねない。
ルカはフィオナを見た。彼女も同じことを思ったのだろう。彫刻の方を指さしている。ルカはそれに頷いて、なにがなんだかわからない顔をしているカレンの腕を掴み走り出す。
だが、遅かった。
耳鳴りの隙間に、ごごう、と低い音が響く。見上げれば、もはやヒビだらけとなっている扉から巨大な破片が剥がれ落ちてルカたちの方へと落ちてきていた。
咄嗟の水弾も、破片を二つに割ることしかできない。万事休すか、と諦めかけたルカの背中を風が押す。
よろけて数歩踏み出して、勢いのままに転んだルカとカレンの上には、いつまでたっても瓦礫は落ちてこなかった。
その、代わり。
「――フィオナさんっ!」
カレンが叫ぶ。その目線を追えば、瓦礫の下敷きになったフィオナがそこにいた。二つに割れた瓦礫が互いを支えるようになっているから、すんでのところで上半身は押しつぶされていない。
「フィオナさん、大丈夫ですか!」
「わ、たしは……大丈夫、です……」
血の気の引いた顔だった。どう考えても大丈夫ではない。
――足が潰されているのかもしれない。でも、僕とカレンだけじゃ動かせない……!
姉上は、と無意識に頼りながら視線を彷徨わせ、ルカは空を見上げて目を瞠った。
イグニアに跨ったアルヴァの前に、あの黒い騎士が飛んでいる。
背中から生えた翼が空を叩いている。
「人間に翼を生やすなんて、そんなこと精霊魔術でも……どういうことだ、どうやって……」
目の前の信じがたい光景を噛み砕こうとするルカの前で、黒い騎士が動く。アルヴァへと突進した黒い騎士は、竜と見紛うほどの速さだった。
乱高下を繰り返し距離をとろうとする赤に、黒が噛みついて離さない。
――振り切れる速さじゃない。だんだん距離が詰まってる。このままじゃ……!
焦りでなんのアイデアも浮かばない。
そんなルカに声をかけたのは、フィオナだった。
「ルカ……さん。……私の、バッグから、枝、を……」
微かな声がルカの焦燥しきった頭を引っ叩いたようだった。現実に引き戻されながら、ルカは素早くフィオナの前に跪き、前に投げ出されるように落ちているバッグを漁って頼まれた物を引っ張り出す。そしてそれをフィオナの手に握らせてやると、彼女は静かに目を閉じた。
途端、冷たい冬の風が吹いたようだった。
フィオナの口から紡がれるのは、風の上位精霊への祈りの言葉―――では、なく。
「……ロゼさま……っ!」
泣きそうなほどにか細い、誰かを呼ぶ声だった。
急激に周囲の気温が下がる。抜ける風は厳しい冬の香りを孕んでルカたちの髪を掻き乱す。
『ああ、私の可愛いフィオナ。だれがお前を傷つける? だれがお前を苛むのだ?』
低くしゃがれた声が降ってくる。
『私の愛しいフィオナ。私にロゼマレインの名を与えた真白き乙女よ。お前に仇なす敵の全てを、我が弓を以て殺してやろう。お前の前に立ちはだかる全てを、我が北風が突き崩してやろう』
やがて、声の主も降りてきた。
半透明の体は小さく、ともすればルカの半分もないだろう背は幼子のよう。長い白髪は伸び放題のぼさぼさで、着ている物もぼろきれのようだった。みすぼらしい姿なのに、ルカが今まで出会った精霊の誰よりも神々しく見えた。
風の上位精霊――ロゼマレインは指の一振りもなく風を操って、フィオナの上に伸し掛かっていた瓦礫を塵にした。そしてそのまま風の腕でフィオナを抱き上げる。
「ロゼさま……どうか、お願いいたします。ルカさんに……この少年に、力を貸してあげていただけませんか……」
『これにか?』
ロゼマレインの冷たい目が値踏みするようにルカを睨む。ルカがジッと目を見返せば、精霊の目の冷たさがほんの少し和らいだ。
『……愛しいお前の頼みならば、そうしよう』
そう言って、北風の精霊は小さな右手の上につむじ風を起こした。風は凝縮して、半透明の弓へと姿を変える。そして精霊は、それをルカの胸に押し付けてきた。
『さあ、構えろ。良き目の人間よ』
しゃがれた声に促されてルカは空を見上げ、矢のあてがわれていない弓を引く。すると、周囲の空気が渦を巻いて弓の中に納まった。
ルカの耳元でロゼマレインの声がする。
『中てたいものを願いながら放つがいい。さすれば、私の風でもってそこまで運ぼう』
さあ、と言う囁きに導かれるように、ルカの手から弓弦が離れていく。
――あの黒い騎士に。どこでもいい……中れ!
渦巻いた風が返事をするようにゴウと鳴いて飛び去った。
そして、ルカの視線の先。一騎打ちをする騎馬兵のように突進しあう赤と黒がぶつかった、その瞬間。風の矢は、黒の騎士の右腕に確かに中った。
黒い騎士が動きを止めた。
「やっ――」
やった、というルカの言葉は、つんざく咆哮にかき消された。
確かに中ったのに、と何が起こったのかわからず呆然と弓を下げるルカを、黒い騎士が、見た。
それを認識した直後には、羽ばたく黒が急降下してルカの真上に来ていた。咄嗟の水の結界は用をなさなかった。ルカの脳は、これは死ぬ、と判断を下す。
逆巻いた北風が、黒い騎士を拒絶するように結界を作る。ただの風の壁で攻性結界ではない、というのがルカにはわかった。無駄だと思った。風の壁くらい、簡単に超えてくると。
しかしルカの予想に反して、黒い騎士は結界を嫌がるように急上昇した。
「――あ……りがとうございます……!」
ルカは詰まった息を吐きだすように礼を言って振り返った。
ロゼマレインはフィオナを大切そうに抱えたまま、ルカの方など見ていない。恐らくルカが助かったのは、彼が空から急襲を受けた場合に発生するであろう衝撃や瓦礫がフィオナに降りかかるのを、ロゼマレインが嫌がったからだ。
――助かったんだから理由はどうでもいい。
そう思いながらルカは改めて黒い騎士を見上げた。黒い翼で羽ばたく騎士は、唸り声をあげながらルカを睨んでいる。
――何がトリガーだ。なんで、奴は僕を狙うようになった?
黒い騎士の意識がアルヴァから逸れたのはルカにとって喜ばしいところ。しかし、そこに『なぜ?』があるままでは気を休めることができない。
――僕が矢を放った後……傷を負ったからか? だから、風の結界にも突っ込んでこなかったのか?
しっくりこなくて、ルカは黒い騎士を目で追いながら考える。
ルカの放った風の矢は、確に中った。しかし恐らく、鎧を貫いてはいなかったのだろう。ルカがそう思う根拠は、先ほどの空からの急襲未遂での接近だった。
接近したあの一瞬。見えた黒い騎士の腕に滴っていた黒い物は血ではないようだった。ルカにはそれが血よりも随分粘度が高いように見えた。
「じゃあなんで、風の結界をあんなにも嫌がった……? 近寄ったなら、精霊魔術師じゃなくても攻性結界ではないと気が付いたはずだ。勢いよく吹き荒れていたって、傷つくのは鎧くらいで――」
黒い騎士が一層高く舞い上がるのを見ながら、ルカは自分の言葉にハッとした。
「……――もしかして鎧か?」
そこに思い至ると、ルカにも黒い騎士の行動が理解できた。
鎧を傷つけられたから、標的がルカに変わった。
鎧を少しも傷つけたくなくて、風の結界から逃げた。
理解を終えて疑問が増した。
鎧なんて傷付いてこそ価値がある物だろうに、と。傷つけられたからといって、怒りに我を忘れるほどでは無いだろう、と。
でも、首を傾げている暇も余裕もルカにはない。
黒い騎士が再びルカの方へと急下降してくる――が、今回も急襲は未遂に終わる。
風の結界が立ち上るよりも早くルカの前まで降りて来た黒い騎士の鋭い黒い爪が彼に迫り、そしてそれは、翻った赤によって遮られる。
「お前の相手は私たちだっ!」
アルヴァの声と共に、イグニアの口元に魔力が集まる。次の瞬間には、そこから火球が飛び出した。
直撃は免れない。黒い鎧は焼き溶けるだろう。ルカはそう思った。
だがしかし、そうはならなかった。
「――――――っ!」
騎士が、吠えた。
超至近距離から発せられる咆哮に耳をやられながら、ルカが目にしたのは、ただの一度の咆哮で無残にもかき消された炎だった。
咆哮の残響に脳を揺らされるルカの前で、アルヴァが剣を振るう。騎士が避けて羽ばたいて空へと戻っていく。赤がそれを追いかける。
剣先が走る、走る、走る。しかしどれ一つとして当たらない。
そうしている間に、黒い騎士の標的が再びアルヴァへと移ったようだった。
競り合いが激しさを増して、その中で押されているのはルカの姉と妹分の方だった。
ルカは二頭の竜の争いを見ているような気持ちだった。自分では届かない位置での争いを見ていることしかできない。彼は歯噛みしながらこぶしを握り――そして、己の手の中にある物を思い出した。
ルカは上空の戦いから目を逸らさず口を開く。
「ロゼマレイン様」
間があって、返事があった。
『なんだ、人間』
「僕にあなた様のお力を、いま一度、貸していただけますか」
背後から、鼻で笑ったような音がする。
『好きにするがよいだろう。願いて撃つなら、風が届ける。それだけだ』
ルカは殆ど口の中で呟くように礼を言って、弓を強く強く引いた。
細く長く息を吐けば、それがそのまま矢に変わる。
食いしばった歯の奥で「中れ」と願えば、風は矢を攫って飛んで行った。黒い騎士にまで到達した風の矢は、黒い兜の頬の部分をかすって飛んで行く。
黒い騎士がルカを見る。
ルカの姉は、その決定的な隙をみすみす逃すような人間ではない。
閃いた剣先が、黒い騎士の腹を抉る。黒の中に薄ら白い肌が見える。どうやらアルヴァの一閃は鎧の下の黒い肌着のような物を切るにとどまったようだが、次がある。アルヴァの剣は既に翻っている。下に溜めた剣が西日を受けて煌いている。
アルヴァが気勢を発しながら剣を振りぬき、そしてその切っ先が――肌を食い破ることはなかった。
黒い鎧が流動してアルヴァの剣を掴んでいる。
その代わりとでも言うように、黒い騎士の兜の丁度左上が四分の一ほど欠けて、そこだけ素顔を露わにしていた。黒の隙間から覗く赤紫の目だけ、ルカの立つ位置からも嫌にはっきり見える。
と、直後、アルヴァが空に放り投げられた。
弧を描いた彼女はルカたちの方に落ちてくる。ルカがフォンテーヌと共に水のクッションを作り上げるも、空気に満ちる水の魔力の薄さが影響してアルヴァの勢いを殺す程度にしかならなかった。こうなれば体で受け止める、と痛みを覚悟で腕を広げるルカの上ギリギリでアルヴァの体が浮き上がる。見れば、必死で追いすがっていたイグニアが、アルヴァを捕まえていた。
イグニアは忙しなく翼を動かしながら、地面近くなったところでアルヴァを離して飛びあがる。アルヴァは、丁度ルカの近くに衝撃を殺すようにして着地した。
「姉上!」
たまらずアルヴァを支えに行ったルカは、彼女が大いに困惑した顔で空を見上げているのに気が付いた。
「姉上」
「……ああ、すまない」
アルヴァは表情を取り繕う事もなく、ルカをほんの少しだけ支えにして立ち上がった。丁度その時、ルカたちの後ろにイグニアが降り立った。不安そうな顔で姉弟の間に顔を寄せつつ上を見ているイグニアを宥めながら、ルカも視線を空へと動かす。
ルカにとって空というのは、彼の姉が竜と共に駆けて君臨するものである。
しかし今は、もはや制空権は黒い騎士にある。
半壊した礼拝堂の上、悪夢のように君臨する黒い騎士は体中から怒りを発しているようだった。
地上からでも、騎士が怒りに震えているのがわかる。
ルカは、強く拳を握る。手中の弓をこれでもかと握り締めてなお、足元が崩れそうなほどの――これは恐らく、『被食者』が感じるものと同じ類の恐怖である。
知らず知らずのうちに歯の根が合わなくなっていて、ルカは何とかそれを押さえようと歯を軋ませる。彼が倒れないのも気丈にふるまうのも、全ては彼の後ろでガタガタと震えながら泣いているカレンがいるからこそ。彼女がいなければルカはきっと自分を無くしていただろう。
ルカは、どうすればいいんだ、と思考する。様々な考えが脳内に溢れて、しかし全く噛み合わないから意味がない。
そんなルカの横で、アルヴァがイグニアの背に跨った。




