灰燼竜と眠る星蘭③
全き赤の目の威圧に、相手が何なのかを知る前にアルヴァの生き物としての本能が揺らされてしまったらしい。彼女の手は腰に佩いた剣に向かう。
ルカは、まずい、と思った。これは敵意を見せてはいけない相手だ、と。
――剣を抜かせたらだめだ……!
赤が、赤に内包された針のような黒い瞳孔がルカたちひとりひとりを刺すように見つめている。その色に、アルヴァは己が対峙している威圧が何より出でているものなのか悟ったらしい。ルカが止める前に彼女は柄頭に手を添えた格好で動きを止めた。
ホッと息を吐きたい気持ちになりながら、しかし、ルカは息を溢すことすらできない。彼を睨むように見つめる赤が、それを許さない。
布の弾けた音がした。この空気にあてられたイグニアが人の形を取っていられなくなったのだろう。怯えたような小さな声も聞こえてくる。
次いで、白衣が握られた。これは恐らく、すぐ後ろにいたカレンだろう。
ルカはへたり込みたい気持ちを跳ね除けて、必死で立っていた。
ひりついた空気を揺らしたのは、低く掠れた声だった。
「だれだ……」
唸り声に交じる、長い眠りから覚めたあとのような声。それが、この神殿の中に閉じ込められた神話の時代の空気を揺さぶっている。
「誰だ、ここに何をしにきた……」
明瞭になった低い男の声がルカの鼓膜を揺らす。答えられない。喉が張り付いて声を出せない。戦場の緊張に慣れた姉でさえもそうなのだから、それ以上に張り詰めた空気の中でルカが声を出せようはずもない。
男の声は――目の前の灰色の竜の声は、答えを待たずに紡がれていく。
「……何しに来やがったって聞いてんだろうが。答えられねぇのか。答えられねぇようなことをしに来たのか。どうなんだよ……」
声とともに、巨躯が動く。
錆びついた関節を軋ませながら、そのたくましい両の腕が地面をじわじわと突き放すように動く。降り積もった灰色の埃がパラパラと落ちていくのすら緩慢に見えるほどの巨体が、中途半端に持ち上がってルカたちを見下ろしている。
大きい。
四肢を完全に伸ばしたわけでもないのに、成体の竜よりも大きい。
ハァァァァァ、と吐き出された重い息はその灰の体に似合わない灼熱の温度でもってルカたちの間を駆け抜けていく。恐らく、エシュカからもらった火竜の鱗のネックレスが無ければ彼らは既に灰へと還っていただろう。
「――あいつらは一体何をやってやがる……」
苛立った呟きと共に、二対の翼が大きく開く。
「もう一度聞くぞ。テメェらは、何を、しに、来やがった?」
強靭な翼に押しやられて天井が削れて落ちてくる。息を飲むルカたちの前、巨竜の言葉は怒りを灯すように大きくなっていく。
「宝探しか? 生憎なぁ、ここにはテメェらにやれるもんはねぇんだよ」
広間の温度が上がっていく。
「それとも、ただ未踏の地を踏破したかっただけか? だったら一瞬待ってやる。さっさとここを出て行け」
言われたところで、誰も動けない。
巨竜の頂く二対の角が、天井を擦っている。
赤い目が、異様な冷たさでルカたちを見下ろしている。
「……それとも――」
――何か、何か答えないと……!
ルカはそう思いながら、苦し紛れに何も発せない喉を引っ掻く。まずい、と言う事はわかっているのに、目の前にいる者の圧が言葉を許さない。
「ひッ、ぐ、う……!」
無理に引きはがした喉から出てくるのは、カエルが潰れたような声だけで。
「それとも、何か。テメェらは――」
ルカたちの逃げ場を無くすように、空の篝火たちに業火が灯る。灯って天井を舐めている。さながら、焔の檻だった。
ルカたちは、退くという事を考えることも出来ないままに退路を断たれてしまった。
「――テメェらは……墓荒らしの糞野郎か……?」
瞬間、広間は火山の様相を呈したようだった。
ルカたちが立っている場所以外は、赤く赤く燃えている。
「ここに眠るのが誰だか知ってんのか? 知りながらやろうとしてんのか? それを俺が、――この俺が! 許すと思ってんのか? ええ? おい」
ごごう、と足元が揺れたのは、恐らく、この灰燼竜の――
「……――許すわけがねぇだろうが……! 焼け死ね、糞共がぁぁぁぁぁ!」
――炎の照り返しで金に赤に煌く火神竜イグニスその人の、怒りに合わせてマグニフィカト山が猛っているからである。
怒りに満ちた声が、肌すら震わされるような咆哮へと変わって行く。と、次の瞬間には、火神竜イグニスのその大きく開いた口の前に火の魔力が集中していた。
この禁足地の中に溜まった色濃い魔力に火が点けばどうなるか。
それがわからないルカではないから、フォンテーヌに――例えそれがまさしく焼け石に水でも、水の結界を、と。頼んだ。フォンテーヌは彼の願いに応えてくれた。
が、駄目だった。
秒と持たなかった。この炎の中、あまりにも貧相な水の結界は、熱気を遮断する間もなく蒸発した。
フォンテーヌの絞り出すような悲鳴に、ルカはやっと体を動かすことができるようになった。
彼は軋む体を叱咤してショルダーバッグから水筒を取り出した。それすら、手のひらを焼くほどの厚さを持っていた。
ルカは中に水が一滴でも残っていることを願いながら水筒を開けた。ちゃぷ、と水が揺れる音と蒸発音が聞こえてくる。
『フォンテーヌ……!』
水精霊は水筒の中に飛び込んで、微かな、本当に微かな水音を響かせて常若の国へと還って行った。
ルカはひとまずフォンテーヌを無事に還せたことに安堵した。それから、灼熱を飲み込んで前に向き直った。
――もう、来る。
火力濃度の上昇は、もはや視覚ですら感知できるほどまでになっている。
それが何を意味するか。
――このままだと、僕らは。
覆らない最悪を脳裏によぎらせながら、それでもルカは考える。
どうにかして、この後来る一撃を耐える方法を。
――退いたところで、逃げられない。僕らが走るより、この後来る火焔が速い。
毛穴から汗が噴き出す。
――逆属性で相殺……無理だ、火に食われて水の魔力のリソースなんかない。
汗がこめかみを伝う。
――魔力吸収……無理だ、あんな高濃度の魔力、正の魔力だとしても狂ってしまう……。
頬を垂れる前に、汗が蒸発する。
――……待てよ。あった、そうだ……できる。吸収できる。やれる。絶対に出来る。
ルカは吠えた。喉が焼け付く感覚に眉を寄せながら、全力で吠えた。
「姉上っ!」
掠れた小さな声だ。
でも、アルヴァへは届いた。ルカの姉は、己を呼ぶルカの声のたったそれだけで、彼の考えの全てを理解してくれた。
衣擦れの音。
それから、この場にそぐわない涼し気な音。しゃらり、と五色の鱗が揺れる音。
神竜の鱗のネックレス。ルカは、姉の首元で舞うそれを見つめて、それから前を見据えた。
眼前。轟音と共に炸裂する神炎。赤いうねりがルカたちを焼き殺さんと襲い掛かってくる。
その赤い牙が、音もなく。
煌く赤の鱗へと。
ルカは、無音ながらに襲い掛かっているであろう衝撃に揺らぐ姉の背中を全体重でもって支えた。そうしているうちに、神炎はその全てが火神竜の鱗へと吸い込まれたようだった。
急に消えた力につんのめったルカをアルヴァが片手で支えてくれる。
ルカはすっかり冷えた空気を灰一杯に吸い込んで、姉の腕にもたれる様にして安堵の溜め息を吐いた。
「……なんで、俺の鱗を持ってやがる」
その言葉と共に、広間に灯った篝火が天井を舐めるのをやめたようだった。静謐が戻ってくる。
ルカはもう、殆ど放心していた。だから、火神竜の言葉に反応はおろか、そのセリフの意味すら理解できなかった。
放心したまま、ルカはアルヴァを見上げた。その顔に珍しく疲れと安堵が見えて、彼は『流石の姉上も、これはきつかったみたいだ』なんて他人事のように考えながら、その綺麗な輪郭を眺めてゆっくり瞬きをした。
「おい。なんで俺の鱗を持ってんだって聞いてんだろうが」
粗野な言葉遣いに鼓膜を揺らされて、でもルカは『神話での描写なんてあてに出来ないな』としか思えなかった。そんな彼の耳を「おい」と催促の声が揺らす。
それに答えたのは、アルヴァだった。
「わ、たしたちは……女王陛下の命で……いや、樹神竜アルボル様の――」
「……アルボルだぁ? 奴がここにテメェらを寄越したってのか? はぁ!?」
だったらそれを早く言えや! と。火神竜イグニスの低い声が近くなる。ついでに、ルカがもたれているアルヴァの腕が驚いたように跳ねる。
ルカは目を瞬いてぼやけた脳みそを覚醒させながら前を見る。
彼の目はそこにいる巨竜――ではなく灰色の男を映していて、ルカは理解が追いつかないまま、ぽかんと口を開けるほか何もできなかった。




