36. 灰燼竜と眠る星蘭①
樹神竜に見えた翌朝。
ルカは心地の良い風に頬を撫でられて目を覚ました。
その風の纏うは秋の香り。ゆっくりと瞬きをするルカを見下ろすは大きな影。
ルカがギョッとしたのも一瞬で、彼は自分の上に被さるようにしながら頬をなでていたのがフィオナの金風であることに気が付くと、フッと力を抜いて笑みを見せた。
「あらぁン。もう少しナデナデしてたかったけど、起きちゃったのねぇン。おはよう、坊ちゃん」
「おはようございます」
ソージュは朝食ができていることを告げるとルカの頭をひと撫ぜして、ふわりと扉から出ていこうとしたようだったが、薄く開いた扉の前で動きを止めた。
金風はルカを振り返って気遣わしげな顔を見せている。ルカは小首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「ええ……一応伝えておくわねぇン。春風の――リュヒュトヒェンちゃんのこと」
ルカは身を硬くして金風を見上げた。そんな彼に、ソージュは眉尻を下げたまま微笑んだ。
「深刻な話では無いわぁン。安心して。あの子は、心も体も無事よぉン。ただ……」
ソージュは言葉を選ぶようにして目を彷徨わせてから静かに口を開いた。
「ただねぇン、あの子、あなたに合わせる顔がないって。だからね、しばらくそっとしておいてあげて欲しいのよン」
「そう……ですか……」
合わせる顔がないのは僕の方だ、と思いながらもルカはソージュに笑んで見せた。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
ルカがそう言うと、ソージュは微笑みながらゆるゆると首を振って、それから主の元へと帰ったようだった。
ルカは部屋に満ちる秋の風の匂いを感じながら少しだけ俯いて、そして気合を入れるように己の頬を叩いた。
――落ち込んでる暇も余裕もないんだから。
そんなふうに考えながら立ち上がった彼の濃琥珀が映すのは、昨晩、樹神竜から預けられた星蘭。甘く匂い立って咲き誇るアングレカムの花のその奥に抱かれる、小さな緑色の光球だ。
ルカは手早く身支度を整えると、気持ちを入れ替えるように深呼吸をして部屋を出た。
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「そろそろ、出発しようと思うんだ」
朝食を終え、エルフたちへの礼を済ませた一行はレベッカが休んでいる部屋にいた。
「そうか。……アルヴァ。私が言えることでは無いかもしれないが、無理はせず、な」
すっかり元気――とは言えないが、昨日銃でその身を貫かれた人間には見えない様子のレベッカは、横になったままアルヴァを見上げている。そんなレベッカの言葉にアルヴァが頷く前に、彼女はルカを見た。
「君の姉上の暴走、ちゃんと止めてやってくれ」
「任せてください、レベッカさん。僕とケネスはそのためにいるようなもんなんですから。ねぇ、ケネス」
ルカは言葉を振りながらケネスを振り返る。が、ケネスはどこかで心ここにあらずな様子でぼんやりと外を見つめていた。
――姉上の話題なのに反応しないなんて。
ルカはそんなふうに思いながら、幼馴染を覗き込むようにして見上げる。
「……ケネス?」
「――……悪い、聞いてなかった」
「僕と君が、姉上のブレーキになるって話ですよ」
「……ああ、そうだな」
どこか、虚ろな返事だった。
ルカはケネスのそんな様子に首を傾げて――かけようとした言葉は、二人の間を通っていった褐色に遮られる。
「レベッカと二人でしたい話がある、さっさとゆけ」
肩越しに振り返ったトニトゥルスの言葉に、最初に反応したのはカレンだった。
「……なんか可愛い……」
ボソッと呟かれた言葉は本来であれば側に立つルカくらいにしか聞こえない小ささだった。しかし、ここにいるのは人間だけではない。
トニトゥルスはしっかりとカレンの呟きを聞き取ったらしい。ちらりと向けられた薄金に「ひっ」とカレンが息を呑む。が、どうやらトニトゥルスは怒るどころか感情一つ動かしていないようだった。
「禁足地までの翼は用意してやる。故、はやくゆけ」
落ち着いた声でそう言ってから、トニトゥルスは扉を開き空を見上げて吠えた。
ビリビリと肌が震えるほどの声量に頬を引きつらせながらルカは姉を見た。すると彼女はルカの視線に気がついたらしく、彼の耳に口を寄せた。
「吠え方から言って、雷竜をここに呼んでくれているんだろう」
「そうなんですか」
と姉弟が言葉を交している間に、灰色の空を裂く雷光が三つ閃いた。
控えめの落雷音と共に若い吠え声が響く。それに小さく声を返したトニトゥルスは、ルカ達に向き直ると「さあ」とだけ言った。
「すまないな、トニトゥルス。本当に助かった」
アルヴァが続けて「レベッカを頼む」と言うとトニトゥルスは『何を当たり前なことを』と言う顔を見せて、それから顎で外を指し示した。
早く二人にしろ、と言外に言っているトニトゥルスに、一行は扉を潜って外へと向かう。
待っていたのは、灰色の鱗の若い三頭の雷竜だった。イグニアより少し大きな体躯は、しかし、大柄な雷竜にすればまだまだ幼い部類に入るのだろう。そんなふうに考えているルカの頭上から低い声が降ってくる。
「おい、弟の方」
向けられた声に顔を上げれば、トニトゥルスはルカを見下ろしていた。
「なんですか?」
「エシュカの娘を人の姿にしておけ。この灰の空に、火竜の赤はあまりに目立つ」
――だからまだ鱗の若い雷竜を呼んでくれたのか。
ルカはトニトゥルスに「わかりました」と返して、それからフィオナとともにイグニアを人へと変化させる。素っ裸の体をむず痒そうに震わせる妹分に手早くマントを巻いてやったルカは、姉を見て、それから彼女の視線の先を追いかけた。
「姉上」
「……ん。ああ、どうした?」
「ケネス、なんか変ですよね」
ルカの言葉にアルヴァが眉尻を下げる。なかなかに珍しい表情だ。
「んん……ルカにもわかるか。んー、なんだろうな、なんていうか……元気がない。どうしたんだろう」
「聞いてきてあげましょうか?」
「いや。ああいう時のあいつは自分で納得できるまであのままだから」
それもそうか、とルカは幼馴染をしばらく見つめてから再び口を開いた。
「どうやって乗っていきますか?」
「そうだな……カレンは私が抱えて……イグニアはルカに任せてもいいか? さっきの会話を鑑みるに、雷竜に抱えてもらうよりは背負ってもらったほうがいいだろう」
「うん、そうですね。わかりました、イグニアは任せてください」
ルカ達は手早く雷竜に跨った。ルカとイグニアを乗せたのは他の二頭よりも少しだけ体の大きな雷竜で、よくよく見れば、雷鳴山の門番をやっていたのと同じ竜だった。
「大丈夫ですか……?」
「なんのっ……これしき……!」
食いしばった歯の奥から言葉が聞こえるとともに、くっと体が沈みこむ。ルカは飛翔に身構え、前に抱えたイグニアごと体を倒して雷竜の背に沿わせた。
臓物を地面に置き去りにしたような感覚は一瞬で、それが消えた時には、ルカはアルヴァたちと同じ景色を見ていた。
「大丈夫か?」
気遣わしげなアルヴァの声が向くのは、他より速い感覚ではばたくルカ達を乗せた雷竜だ。
「大丈夫です……! お任せを……!」
そうか、と頷いたアルヴァは、視線を前へと向けた。その目に映るのは、恐らく、天高くその身を伸ばす禁足地。
「私たちが先導する。君たちはその後を着いてきてくれ」
アルヴァの声はまたも雷竜たちに向いていた。彼女の声に、雷竜が吠え声を返す。
――さながら、竜の長だな。
そんなことを思うルカの前で、アルヴァは雷竜の背に己を沿わせたようだった。直後、彼女を乗せた竜の翼が空をかく。
対空をやめた雷竜は瞬く間に空を駆け――、ルカたちを乗せたのは雷竜も、それに続くように空を漕ぎ出した。
目まぐるしく景色を流しながら、目的の禁足地はどんどん近づいている。
激しい風に眉を寄せて息を詰めながら、ルカは前に回したショルダーバッグの中で微睡んでいる星蘭を撫でた。




