樹神竜アルボル②
跪くアルヴァたちの目の前で、樹神竜アルボルは畳んで体に沿わせていた二対の翼を大きく広げている。メキメキ、と響く音ともに落ちてくるのは、地衣類か苔か。定かではないが、どちらにせよ、この神竜がどれだけの間ここに居たのかを雄弁に示していた。
神威に圧されて言葉を発することができないアルヴァたちを見下ろして、樹神竜アルボルは若草色の目をゆっくりと瞬かせている。
アルヴァはごくりと唾を飲みこんで、震える唇をなんとか開いた。吸い込む息すら震わせながら、彼女がそれでも息を吸った理由は、神を前にして名を名乗らない非礼を詫びるためである。
「――御身を前に口を噤んでいましたこと、お許しください。私は、アルヴァ・エクエスと申します。リアダン女王陛下の命により、禁足地を開くために神竜様方の祠を巡って参りました」
アルヴァは、深く深く頭を下げた。彼女の視界には、足元に咲く花々のみが映っている。と、そんな彼女の上から声が降ってきた。
「顔をお見せなさい……」
言葉と共に、しゅるり、と優しい音がする。音の主は、滑らかな細蔦だった。恐らく樹神竜アルボルの手指となる物なのだろう、蔦は器用に動いてアルヴァの顎をすくい上げた。
顔を上げれば、アルボルのアルヴァをじっと見つめて、それから神竜は一対の角に絡みつく華奢な蔦を揺らして、優しく目を細めながら首を傾げた。
「……――ああ、良い目の娘よ。澄んだ心を抱く獣よ。良くぞ、結界を切り替えてくれました」
アルボルの若草の目は、深い慈しみを湛えてアルヴァを見つめている。アルヴァはその目にふさわしくあろうと、跪きながらも凛と背筋を伸ばした。
細蔦がアルヴァの頬を優しく撫でる。
視界の端に何本も蔦が見えたから、恐らくルカたちも同じようにされているのだろう。
「我が伴侶の見た夢を、あの娘へと届けた甲斐がありました」
若草色の目が柔らかく見つめるのは、己が巻き付くオークの木。夜空に向かって手を広げる大樹は、風もないのにサアサアと葉を揺らす。
アルヴァは暫しその音に耳を澄ませて、それから小さく口を開いた。
――樹神竜にも、結界を起動していただかなければ。
「アルボル様」
「ええ、言われずとも。結界の要たる私が力を巡らせれば、この小さき国は寄せ来る黒い悪意から守られるのですから」
樹神竜は囁いて、それからゆっくりと空へとその口を向けた。
「細かく強く、編み上げましょう。悪しき風の入らぬように」
歌うように美しい声は、やがて澄んだ咆哮へと姿を変える。
魂の底から震わされるような咆哮に、アルヴァはそれを追いかけるように夜空を見上げ――そして、目を瞠った。
星々煌く黒い夜をキャンバスに、五方向から伸びくる五色の光が線を引いている。
一つは、焔の深緋。一つは、大地の褐色。一つは、海原の瑠璃。一つは、氷塊の灰青。一つは、雷鳴の青緑。
その五色が、天高く――森のあけた場所にいるアルヴァたちにも見えるくらいに高く高く、伸びあがって輝いている。光たちは空を切り取るように伸びあがって、そして互いに手を取り合うようにぶつかった。
空から、澄んだ高い音が聞こえる。質の良いガラスがぶつかり合うような音だ。
その音がアルヴァたちに降り注ぐと同時に、混ざり合った光がベールとなって空から降りて来た。
このベールは展開の規模から見て恐らくアングレニス王国の国土すべてを覆える程度の大きさがあるだろう。
アルヴァの後ろで、ルカが「ああ……」と感極まって震えた声を溢している。
――きっとルカには、私の目が捉えている以上に美しい光景に見えているんだろう。
アルヴァはそう思いながら、ただただ空を見上げていた。
やがて、ベールは大地に降り立ったらしい。
一層煌いて、そして澄んだ音と共に夜空に溶け込むようにして消えていった。
アルヴァは静かに息を吐きだして、それから、目の前にいる神竜を見つめた。樹神竜は輝く緑眼を優しく細めて口を開いた。
「国を守る結界は編み上がりました。これでこの国に悪意が侵入ることはもうありません」
「……悪意、ですか」
アルヴァの言葉にアルボルは「ええ」と頷いた。
「我が伴侶が夢によって知らされたのは、この国に害成す大きな悪意が忍び寄りつつある、というものでした。それが芯まで侵入ってしまえば、この国はおかしくなってしまう、と」
樹神竜の言葉に声を返したのは、ルカだった。
「……――もしかしてそれは、獣人の国の方から来るものですか」
「暫し待ちなさい――……ああ、そのようです。我が伴侶はお前の言葉に頷いています」
アルヴァはルカを振り返った。
「どういうことだ? ルカ」
「姉上がカトラスさんと模擬戦してた時。僕、コルセスカさんと少し話したんです。……その時彼女が、『私の国は少し前から何かに蝕まれている』と」
ルカの濃琥珀の目は真剣さを宿してアルボルを見上げている。
「アルボル様。ソレが、この国にも入ろうとしていたのですか?」
「――これは、言わずにおこうと思っていたことなのですが……」
アルボルは目を伏せながらオークの木を撫でている。
「我が伴侶が言うには、もう既に侵入られたあとなのです」
目を見開くエクエス姉弟に、アルボルは「断っておきますが」と前置きしてから言葉を続ける。
「結界が正しく起動した今、この国の末端に侵入した悪意は全て祓われたことでしょう。今後一切、侵入を許すことはありません」
そこまで言って、樹神竜は言葉を濁すように目を閉じて、それから細く溜め息を吐いた。
「――しかし、もしも人の心の奥深くに根付いてしまった悪意があるとすれば、それは例外です。人の心という物は、私たちの埒外にある。私たちには触れえぬ物なのです」
アルボルは細く息を吐き、それからふわりと蔦を動かした。アルヴァはそれを目で追った。
蔦はゆるゆると静かに動き、そしてアルヴァの目の前で動きを止める。ジッと見つめていれば、蔦の先端が静かに膨れて形を変える。若草色の蔦から生えてきたのは、灰色味のある緑色の植物だった。
その植物には、膨らんだ蕾があった。蕾は瞬きの間に甘い匂いと共に花開く。
「……アングレカムの花……」
白い星蘭は、中に柔らかな緑の光球を抱いていた。
アルヴァの呟きに、アルボルは大きく頷きながら口を開いた。
「これを、イグニスの元へ届けなさい。微睡む灰燼竜を起こし、星蘭の楔を燃やしなさい」
――女王陛下の受けた神託の言葉だ。
アルヴァは恭しく白い星蘭に手を添える。すると、星蘭は、緑の光球を抱いたまま、自然とアルヴァの手の中へと落ちてきた。アルヴァは、樹神竜の目をまっすぐに見つめた。
「さあ、お行きなさい。美しく慈しみ深き獣よ。禁足地を覆う結界はもはやありません。イグニスを起こしなさい。アングレカムを燃やしなさい」
さあ、ともう一度促され、アルヴァはゆっくりと立ち上がる。
「拝命いたしました」
星蘭を優しく抱えながらアルヴァが深く一礼すれば、樹神竜は満足そうに目を閉じた。




