雷竜の長④
先ほどまでどこにいて何が起きたのか、という事すら忘れて、ルカは意識を漂わせながらひたすら静かに眠っていた。
――なんかすごく疲れた気がする。僕……何してたんだっけ……? 研究? もしかして、のめり込みすぎてまた気絶同然で寝落ちした?
『今、自分は寝ている』と自覚しながら空を漂うルカの閉じたまぶたの上に乗るのは、淡く輝く青緑。深い水に沈んで空を見上げたような色だ。その心落ち着く光の中で、ルカは自分が何をしていたのかを考えるのを、早々に諦めた。
――……ああ、もう、なんでもいいや。なんでもいいから、もっとぐっすり眠りたい。もっと深く、眠りたい……。
普段の彼ならば、あり得ないことだ。こんな風に思考を放棄するなんて。だが、そうする他無いくらいに、ルカの頭と体はたった一つを要求している。
寝ていることを自覚することなく、夢のひとつも見ることなく、眠りたい。
それが、今のルカが切に求めるものだ。
それを叶えるべくと、ルカは静かに深く息をする。そうすると、その吐息のひとつひとつと共に、心に溜まった黒い靄が外に出て行く。それを感じながら、ルカはすっかり安堵して、もっと深い眠りの底へと向かって落ちていく。
と、――そんなルカを優しく揺り起こすように、柔らかな地面が小さく揺れた。まだ寝たりない、と眉を寄せるも、ルカの意識は眠りの底から遠ざかる。
ゆっくり醒めていく微睡みは、ルカに五感の覚醒をもたらした。
まずは嗅覚だった。草の香りと、それから、ふわりと柔らかい花の香り。安心する香りがルカの周りを満たしているようだった。
次に聴覚。閉じた目の代わりにほんの少し鋭くなっている聴覚が捉えたのは、春風に何かがそよぐ音。それから、ころり、と遠くの空で雷が鳴く音。
最後に、触覚だ。なんとか眠りに潜りたいルカが覚醒する頭に反抗するようにゆるゆると首を振ると、頬に肌触りのいい何かが触れた。あまりにも触り心地がいいので、ルカは思わず確かめるようにそれに擦り寄って頬を寄せる。と、その触り心地のいい大地は、擽ったがるように小さく揺れ動いた。
その揺れがとどめとなって、ルカの意識は完全に浮上してしまった。薄っすら目を開き空を確認すれば、朝焼けに似た色が目に飛び込んでくる。
――今、何時だっけ。……――まあいいや。この空なら、きっとまだ朝早い時間だろうし……。
もう一回寝よう、と口の中でモゴモゴと独りごちるルカの頭は、もうどうしょうもないほどに起きるのを拒んでいた。
寝過ぎたあとのような倦怠感と頭痛。そのくせ、まだまだ眠り足りないと頭が叫んでいる。だからルカは、薄く開いていた目を閉じて寝返りをうち、自分の頭の下にある柔らかい地面に手を添えて、もう一度眠ろうとして――
「あ、起き……!」
――自分の上から降ってくるソプラノにゆっくりと目を開いた。
「ルカさん起きましたか?」
「いえ、まだ寝てるみたいです、フィオナさん」
声が少し遠くなるのは、恐らく、ルカの枕になっている人の顔が向こうを見たからだ。
――ん? 枕になってる人? 誰? 姉上?
姉上にしては声が高くないか、と思いながら、ルカは目を瞬かせてぼやける視界をはっきりさせる。柔らかな橙の光を浴びる草が、さらさらと風にそよいでいるのが見える。
それから、もっと手前には――肌色が。
もっと言うと、紺のハイソックスと深緑のキュロットスカートの間に、日焼け一つしていない白い肌が。
ルカの、手と、頬の下に。
今どういう状況だ、と息すらできなくなったルカの頭を、誰かが――ルカに膝枕をしている誰かが、撫で始める。戸惑いがちに触れてきたその細い指は、ルカの頭を撫で、髪を梳き、確かめるようにひと房持ち上げてはスルリと逃がして、を繰り返している。
「カレンさん、足は痺れていませんか?」
少し遠くから投げられた声に、その手は、ルカを膝枕する人の手は、――カレンの手は、びくりと跳ねて離れていった。
「うあゎ……! だ、大丈夫です!」
その声を聞きながら、ルカは恐る恐る寝返りを打って空を見上げ、空の色より先に、カレンの瞳の青を見て、その輝く青に吸い込まれそうになった。
そんなルカを前に、カレンの青はみるみる内に涙の膜を張り始める。
――なんだどうした……っていうか退かないと……!
「ルカ……!」
震える声に名前を呼ばれ、ルカは声をかけあぐねて口を半開きにしたまま、カレンの膝から起き上がることも忘れてしまう。そんなルカの口に、塩辛い物が降ってきて。
その味に、ルカは先ほどまで自分がどこにいて、何をしていたのかを全て思い出した。
ルカは、括られていない髪を振り乱して跳ね起きる。そして、カレンから逃げるように飛び退る――が、疲労に塗れた体はついてはこなかった。飛び退ったつもりになって、その実、ルカはまだカレンのすぐ横にいる。カレンの側でへたり込む彼の鼻腔を満たすのは臓物と血の生臭さ。先ほどまで漂っていた優しい花の香りは消え失せてしまっていた。
目の前が、赤と白とで明滅を繰り返す。
空っぽの胃からモノがせりあがってくる。
「ぅえ……っ!」
何も吐き出せない。なのに、吐き気は止まらない。と、そんな風に嘔吐くルカの背中に、誰かの手が乗る。
ルカは反射的にその手を振り払おうとして、動けなくなった。
だって、振るった自分の手が――真っ赤に染まって見えたから。
中途半端な格好で動きを止めたルカは、乱れた前髪の隙間から、地面を彩る緑を見つめる。西日に染まるその姿に、鮮血がフラッシュバックする。
はッはッと犬のように荒い息を溢しながら、ルカはゆっくり、ゆっくりと己の手を眼下に引き寄せる。
「……っ……!」
息を飲んで、涙を溢して、ルカは自分の手を見つめる。
真っ赤に染まった、血生臭い、死の匂いを纏った己の手を。
人を見殺しにした、己の手を――。
「ルカ……! 大丈夫です、大丈夫ですよ……!」
その手を、ルカの側から伸びてきた震える細い指がしっかりと包んで離さない。僕に触らないで、と叫びたくても張り付いた喉は言葉を発しない。だから、ルカはカレンの手を振りはがそうと必死で暴れる。
「フィオナさ……フィオナさん!」
涙をボロボロ溢すカレンが叫ぶ。と、精霊を連れてフィオナが駆けてきた。
「フィオナさん……!」
フィオナはカレンの隣――ルカの前にしゃがみこんで、暴れるルカの手にそっと手を添えながら口を開いた。
「ソージュ様」
『はいはぁい、任せてぇン。水精霊ちゃん、準備はいいかしらぁン?』
「できておりますわ。いつでもどうぞ」
聞き慣れた水精霊の声に、ルカの動きが一瞬止まる。と同時にフォンテーヌがそっと手を広げて霧を作り出し、その間を通るように秋風が吹き抜けた。
と、ルカの鼻腔を、爽やかなハーブの香りが満たした。
眼前の明滅がゆっくり収まって、早かった鼓動が落ち着き始める。暴れるのをやめたルカの手から、カレンの指が離れていく。
「ルカさん、大丈夫ですよ」
静かなフィオナの言葉。ルカはそこに重ねるようにヒュっと喉を鳴らして息を吸いこんで、それからポツ、と声を溢す。
「血、血が、血が……」
「大丈夫ですよ。血なんてついてません」
「で、でも……」
――僕には、見えているのに。
そんなルカの心を読んだかのように優しく微笑むフィオナが、彼の手を柔らかく引っ張った。目的地は、ルカとフィオナの間に浮かぶ水球のようで、彼女は自分の手ごと、ルカの手を水球の中にさし入れた。
ひんやり心地の良い水球からは、先ほどの霧が纏っていたのと同じハーブの香りが漂っている。
「ルカさん」
静かな声だ。
「ほら、大丈夫です。ね、見て」
声に従ってルカは水球を見る。
水球の中で、フィオナはルカの手を揉むように洗ってくれている。その水の色が赤に染まることはなく、立ち昇る匂いも鉄錆に侵されることはなかった。
「大丈夫ですよ」
フィオナの静かでゆるぎない声に。寄り添って背中を撫でてくれているカレンの手の温かさに。
ルカの濃琥珀から涙がこぼれる。
その涙を拭うのは、いつの間にかルカの肩に降り立ったフォンテーヌの指だった。




