――狂嵐を鎮めるは
――ヘリオドールが砕けたあの瞬間。
リュヒュトヒェンは、頑張るルカの力になりたいと、幼いながらにそう思った。そして、その思いを実行しようとしていた。
「ルカが頑張ってるんだから、ワタシも頑張らなくちゃ!」と。
ヘリオドールが砕けた後に、この状況が引き起こされた何よりの原因をあげるなら――タイミングが最悪だったこと。
ただ、それだけだ。
ルカの体を巡る、変換されていない純然たる異界の魔力。それがルカの体にもたらすのは、尋常ではない頭痛と、内臓が溶けだしているかのような吐き気だ。
平衡感覚を失って泥濘に倒れ伏したルカは、ひどい耳鳴りのその向こうで機械の泣き叫ぶ音を微かに聞いた。霞む視界の奥で細切れに引きちぎられては空を舞う鉄塊を見た。
巨大な機械兵を握りつぶし引き延ばしバッタの手足を捥ぐように弄ぶ嵐が、笑っている。きゃあきゃあと、興奮した幼子の声で笑っている。
それを見ながら、聞きながら、ルカは『このままじゃ、ダメだ』と思った。
――リュヒュトヒェンの暴走を、止めなければ。
そのためには……とルカは頭が爆発してしまいそうな痛みが響く中、何とか記憶を手繰り寄せようと必死だった。
――精霊魔術の道を行く人間なら、必ず一度は学んでいる文言という物がある。
それは、精霊魔術師を、その周囲にいる人間を守るための文言であり――なにより、その精霊魔術師と――『仮』でも『本』でも――契約している精霊を守るための文言である。
それは、精霊を常若の国へと強制返還するための、古き言葉の羅列。
異界の王の名を借りた、命令文。
その文言は、まさに、今のこの状況に唱えられるべきものなのである。
――僕のせいで、僕の油断のせいでこうなった。リュヒュトヒェンが僕のせいで人を傷つけてしまう。
ならば。
――還さなくては。リュヒュトヒェンの心が傷つくその前に、還さなくては。
ルカは強く息を吐きだして、生臭い泥に手を突っ張って、必死に上体を起こす。
風がルカの髪を弄んで行く。霞む目を瞬かせ、そして、ルカは鉄塊を孕んで笑っている嵐を、その中に溶け込んでいる風精霊を追いかけるように濃琥珀を滑らせる。
胃からせりあがってくる物を何とか押し留めながら、ルカは精一杯声を張り上げる。
「常若、の……国の、王との……古き……盟約に、従、い……!」
風は楽しそうに喚きながら、群れていた機械兵を飲み込んでは噛み砕いている。ルカは泥に這い蹲って、懇願するように叫ぶ。
「我、ルカ・エクエスは……! 与えた名でもって……風精霊、を!」
その叫びが聞こえていないかの如き様子で、リュヒュトヒェンは渦巻き、逆巻き、沼地を抉ってはケタケタ笑う。
その笑い声が大きくなるごとに、ルカの吐き気がひどくなる。頭痛が酷くなる。が、ルカは、まだ、何とか耐えている。
「リュヒュトヒェン、汝を、縛――!」
ルカがそのセリフを叫んだ時だった。
キィィィィィアァァァァァァァ!
笑い声が拒絶の叫びへと転化する。同時に、沼地の至る所で竜巻が生まれて、雲を食らうように天へと伸びる。
そして――ルカの体へ、今まで以上に濃い異界の魔力が流れ込む。火、地、水の三つの属性の上位者の鱗があってやっとのことで保たれていた精神の均衡の上で風が吹き荒れて、大きく傾き、ルカの心に小さなヒビを作る。そのヒビに、異界の魔力が忍び込む。
次の言葉を用意していたルカの口から出てくるのは声ではなくて胃の中にあった物だった。
ビタビタ、と落ちていく嘔吐物を追いかけるように再び崩れ落ちたルカは、体を震わせながら胃の中身を全て吐き出した。それでも収まらない吐き気が、今度は苦くて酸っぱい物を持ち上げる。
ルカは喉が焼けるのを感じながら、苦しさに涙を零した。そんな彼の頭の中に響くのは、今やルカの周囲の空気に溶け込んでいる風精霊の強烈な感情と、不気味な声が紡ぐ罵倒だけ。『楽しい』と『嬉しい』と、そしてその隙間に『お前のせいで』『お前が未熟だから』と罵倒がさし込まれて、ごちゃまぜになってルカに押し寄せてくる。
悶えることすらできずに嘔吐するルカの方へ、先程風に掴まれて吹き飛んだ背の高い男が、口を開閉しながらやってくる。
『お前のせいで、こうなったんだぞ』
『お前のせいで、リュヒュトヒェンがこうなったんだ』
『お前のせいで、リュヒュトヒェンが傷つくぞ』
男の口の動きと合わない言葉がルカの脳を揺らしている。その隣、機械兵が口を開く。
『お前が未熟だから、死ぬんだぞ』
『姉上も、イグニアも、ケネスも、フィオナも』
『カレンも、お前が未熟だから、死ぬんだぞ』
『風に巻かれて、死ぬんだぞ』
ボロボロと涙を流しながら、もう吐くものも無くなったルカは、反論すらできず、ただ泥濘に横たわっている。胃液混じりの唾液を零しながら嗚咽も挙げずに泣く彼の前で、男が足を止めた。男が立っている場所だけ、泥が土へと戻っていた。
『そして、リュヒュトヒェンは、自分の風が人を殺した事実に耐え切れずに、死んでしまうんだ』
伸びてくる手を跳ね除けることすらもできないルカの軋む心に浮かんだ自責と、頭に響く声が歪に重なる。
――全部、僕のせいだ。
『――全部、お前のせいだ』
茫然と虚空を見つめるルカの二の腕に、男の手が触れる。
まさに、その瞬間。
「だめぇぇぇぇぇ!」
澄んだ、高い声が。
翻る金髪が。
その二つの持ち主が、男に体当たりをして。
想定外の衝撃にたたらを踏んだ男とルカの間に、細くて小さな体が立ちはだかって。
「ル、ル、ルカに、な、何を……」
その震える声に崩れかけた心を包まれた気がして、ルカは静かに瞬きをする。
「わ、わ、わたし、わたしが相手になります、わたしだって、き、騎士を志しているんです! わた、わたしが、ルカを」
「どうするというんだ? 守るというのか?」
震えるソプラノを、苛立ちを纏った掠れた低音が覆い隠す。
「ま、ま、守ります……!」
「そんな棒切れ一本で、この機械兵とやりあうと?」
男が顎で隣の機械兵を示す。
と、その言葉に反応するように、男の後ろのぬかるみから泥の手が飛び出して、男と、それからその隣の機械兵を叩き潰さん、と背を伸ばした。それをチラと振り返っても男は焦った様子も見せない。この風の中、髪一つ乱さない男の口が静かに開く。
「障壁展開」
その、たったの一言。その一言で、男の隣の機械兵が両腕を空へと伸ばす。
そして――。
「対イーサー攻撃用吸収障壁、展開」
――男の頭上で、泥の手が、水と土とに戻って崩れて消える。
「さあ、お前たちお得意の『精霊魔術』は使えないことが分かっただろう。コレは、嵐に弄ばれてる汎用機とは性能が違う。精霊魔術は効かない」
「で、でも――だ、だって、わたしが、わたしが守らなきゃ」
「できるものなら、やってみると良い。――どちらも捕獲しろ」
――ああ。そうだ。
風に煽られ踊っている紺のマントと金の髪。それから、ほんのり香る花の匂い。
――守らなきゃ。
ルカは自分の嘔吐物ごと泥を握りこみ、低く唸りながら体を起こす。
頭痛も吐き気も収まらず、流れ込むリュヒュトヒェンの感情もルカの頭に響き続けている。が、負の魔力による幻聴だけは、綺麗に無くなっていた。
ルカは、静かに息を吸う。
「……常若の国の王との古き盟約に従い――」
荒く息を溢しながら、文言は揺るがない。
「我、ルカ・エクエスは――」
小さな声だ。ルカの前で対峙する二人にすら届かない、小さな声だ。
「与えた名でもって……!」
風が唸り始める。不機嫌を露わにし始める。そこでやっと、ルカの前の二人も異変に気付き始める。
「風精霊を……! リュヒュトヒェン、汝を縛る!」
否を示す叫び声と、上から吹き付ける突風。頭を押さえつけられ、泥に押し付けられそうになりながら、ルカは歯噛みする。
――ああ。
「王……のっ……名を、借りてっ! ……リュヒュトヒェン、汝に……帰還を……命ずる……!」
軋む奥歯の隙間から吐き出しても、リュヒュトヒェンはルカの祈りを聞き入れない。耳を塞ぎたくなるような叫び声が沼に響く。それと比例するように、割れんばかりに頭が痛む。
――ああ、くそ。
「きか、ん……を……」
――畜生……畜生、畜生畜生……っ!
ルカは、苛立ちに拳を握り締める。
何に苛立っているか。
この状況に、ではない。
カレンの対面に立つ王室魔導士に、ではない。
湧いて来ては嵐に食われている機械兵どもに、ではない。
ましてや、リュヒュトヒェンに対して、ではない。
ルカにとって、自分の無力が何より腹立たしい。
だから、心の中に湧きあがる罵倒は、今度こそ幻聴ではないこの罵倒は、ルカが、自分自身に投げつけているものである。
強制返還をさせることはできそうにない。自由を好む風精霊は、何より束縛を嫌う。だから、たとえどんなに気に入った名前を与えられたって、そう安々と言葉に縛られてはくれない。
だったら。
ルカに出来ることは、あと一つしかない。
――魔力行使の権限を、全員から借り受ける。そしてリュヒュトヒェンを、僕の手で、止める。
やろうとしていることをイメージして水晶を介して精霊たちに伝える。と、返ってきたのは、言葉ではなく感情だった。
燃え盛る炎のような怒り。滴り落ちる雨のような悲しみ。頑なな岩のような拒否の感情。
そこに、『快』『不快』以外がわからなくなり始めているリュヒュトヒェンの、楽しそうな笑い声が混ざる。
ルカの心が、ルカ以外の感情でごちゃごちゃになっていく。
――ああ、畜生。
喜怒哀楽のめちゃくちゃになった心を抱えて、ルカは唸るように声をひねり出す。
「――いいから……」
小さな、小さな声だ。沼地の空を裂いて遊ぶ風に、かき消される小さな声だ。
「僕の……」
その声に、ルカのすぐ傍から聞こえる水精霊の声が重なる。
「ああ、だめ、だめよルカ……!」
ルカはそれを黙らせるように低く唸って言葉を吐く。
「――……言う事を……っ!」
言いながらゆっくり顔をあげた彼に表情は、無い。
抜け落ちたような――あるいは、喜怒哀楽を全て均等に混ぜ込んだような、静かな表情だ。
ただ、目だけが――彼の目だけが、異様にギラギラと輝いている。
凪いだ表情の中で、唇が、薄っすら開く。
――聞け。
極小さな声だった。もしかしたら空気の一つも揺らしていないかもしれないそれは、静かな静かな命令だった。
水晶を介して繋がっている精霊たちへ、ルカが下す初めての――ルカ自身の言葉を用いた命令だった。
瞬間、世界が息を止めた。




