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  ――風が叫ぶ

 全員が、散り散り。

 周りを敵に囲まれていて、いつ襲われてもおかしくない。


 その状況下でルカできること。ルカにしか、できないこと。


 それを成すためにルカは走る。泥濘に足を掴まれながら、不気味に伸びる背の高い草を払い除けながら、ただひたすらに走る。彼の背中を押すように、または、目の前の障害物を吹き飛ばすように風が吹く。その風を操っているのは、もちろん、風精霊(リュヒュトヒェン)だ。


 見上げれば、リュヒュトヒェンは状況がわかっているのかいないのか、楽しそうに笑っていた。ルカは、風が吹くたび――リュヒュトヒェンが力を行使するたびに頭に響く鈍痛に眉を寄せながら、それでも懸命に走っている。

 スピードが落ちそうになるのを叱咤して走りながら、ルカは前方に目を凝らす。


 ――風の魔力(エーテル)濃度からして、フィオナさんはこのあたりにいるはずだ。

 

 考えながら、ルカは周囲に目を走らせる。

 微かに聞こえる唸り声は、機械兵の足から噴き出す炎の声だ。そこに乾いた銃声が折り重なる。フィオナが音の方にいることは確実だから、ルカは魔力濃度を辿るのを止め、音を追いかけ始めた。

 そんなルカの脳内に、声が響く。


『ルカ! アルヴァたちと合流したぞ!』


 火精霊(エクリクシス)の声に『姉上たちをお願い』とだけ返事をして、ルカは疲労に震える足を無視して更にスピードを上げた。


 ――エクリクシスが着いたなら、姉上たちは絶対に大丈夫。カレンには、フォンテーヌとアルデジアがついてる。あとは、フィオナさんとさえ合流できれば……。


 と、自分がすでに敵に見つかっている可能性がすっぽり頭から抜けているルカの頬を、何かが掠め飛んでいった。一拍遅れてやってきた熱さと言ってもいい痛みに、ルカは手を触れるまでもなく何が起こったかを理解して舌打ちをする。

 

 ――撃たれた……!


 つ、と一筋、血が垂れる。

 ちくしょう、と毒吐きながら、ルカはリュヒュトヒェンを見上げる。すると、風精霊は笑みを大きく深くして、大きく息を吸い込んだようだった。


 リュヒュトヒェンの黄色い瞳が輝くのを合図に、ルカは右手に輝く熱いヘリオドールを撫でて、それから腕を振るった。ルカの中を風の魔力が勢い良く流れ、彼の手の動きに沿って空気が動く。向かうべきを定めてやれば、あとはリュヒュトヒェンが全力で――彼女はまだ手加減なんてできない――猛威を振るう。

 ヒュゴッ! っと自分の横を駆け抜けて行った猛風の勢いに、ルカは背中を押されるどころか、前に吹っ飛びそうになって、なんとかバランスをとって駆け続ける。


遠く背後で、何かが爆ぜた音がした。が、ルカはこれを「よし命中」と喜ぶ気にはなれなかった。


 限界を超えて走るルカの耳は、今や彼の心臓の音と血流のごうごういう音しか捉えていなかった。だから、徐々に大きくなっていた炎の唸り声に気が付くことはできなかった。

 が、それも先程までの話である。

 風を繰るのにちらりと振り返ったおかげで、彼は、今、自分がどれだけの数に追われているのかを把握することができてしまった。


 ルカの背後、今はずっと遠くにポツポツ見える機械兵は、十以上。


 ――ちっくしょ……! あれだけ追ってきてるのに、ぶち当てられたのは一体だけか……!


 ルカは、走りながら左右を確認して、そちらからも機械兵が迫っているのを見た。ひりつく喉でなんとか唾を飲み込む。そんなルカに、状況にはふさわしくない興奮した笑い声が降りかかる。


「ルカ、ルカ! もっかい! もっかいやろ! さっきの!」


 今度はもっともーっと倒すよ! とリュヒュトヒェンが走るルカの周囲を器用にクルクル飛び回る。彼女はルカが返事をする前に、再び息を吸いこみ始めている。同時に、ルカへと魔力が流れ込む。ヘリオドールがどんどん熱くなる。変換しきれなかった魔力は、頭痛となってルカに襲い掛かる。

 ルカは頭痛と共にぐらぐら揺れる視界を、奥歯を噛み締め何とか耐える。耐えながら、風に方向を指し示す。空気が揺れて、背後で機械が爆ぜる。その繰り返し。


 軋む脳みそと震える足で、ルカは何とか駆けている。

 頭痛は、鈍器で内側から殴られていると錯覚するような痛みと揺れをルカに与えている。

 そんな状態で、何度目の繰り返しの時だっただろうか。ルカの視界が、強い光をあてられた時のように白に包まれた。


 白に塗りつぶされた視界。空を走っているような覚束ない感覚。

 それでも駆け続けようとするルカの足は、しかし、簡単にもつれてしまった。

 彼の体が泥に沈むことはなかった。リュヒュトヒェンが風で支えてくれたから、ルカの体は春の匂いの風に包まれている。何とか立とうともがく彼に、心配そうな声が寄り添う。


「ルカ、大丈夫?」

「う……」


 うん、と言おうとした口をすぐさま閉ざす。

 苦い物が、喉のすぐ奥までせりあがっていた。


 ――……これ以上、リュヒュトヒェンを心配させるわけにはいかない。まだ年若くて不安定な彼女の感情を、これ以上揺らすわけにはいかない。


 警告のように浮かび上がる思考に、ルカは喉にあるものを何とか飲み下し、へたくそに笑った。目を擦り、何とか視界を取り戻す。朧に霞む視界には、先ほどの楽しそうな表情を不安で塗りつぶしたリュヒュトヒェンが見える。


 ――大丈夫。大丈夫……。


「……ん、だい、じょう……ぶ……!」


 ルカが自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、情けないほどか弱かった。リュヒュトヒェンだって、未だに不安な顔をしている。これじゃ駄目だ、とルカは自分の頬を引っ叩く。


「……行こう、リュヒュトヒェン」


 見えない春風の手から降りて、ルカは柔らかな泥を踏みしめる。

 一度立ち止まってしまった体を前に進めるのは大変で――先ほど立ち止まってしまったのを、見逃す機械兵ではなくて。

 よろよろと走り出そうとするルカの目に映るのは、四方八方から向かい来る機械兵の姿。

 咄嗟に動くこともできない彼の代わりに、風が爆発した。


「ルカに寄らないで!」


 リュヒュトヒェンの叫び声が暴風を伴って空を揺らす。垂れこめていた雲を裂く勢いで空衝く風の渦は、ルカを中心に、彼を守るように吠えている。

 迫る機械兵は立ちはだかる風にぶつかり金属片へと成り下がり、泥へと沈んでいく。

 瞬間的な危機は去った。が、今度はルカの頭を激しい痛みが襲う。

 目の前が明滅するほどの衝撃。意識が途切れそうになる痛み。今度こそ泥に膝をつきそうになって、しかしルカはそれに耐えた。

 耐えきって、リュヒュトヒェンへと笑みを見せた。

 滴る冷や汗がルカの口にまで垂れてくるがそれを無視して、ルカは、己の内側を暴れまわるリュヒュトヒェンの魔力の手綱を何とか取った。そして、襲い掛かる痛みを覆い隠して今度こそ普段通りに笑って見せた。


「リュヒュトヒェンのおかげで助かったよ」

「ルカ、大丈夫なの? 苦しい? それは――」


 ワタシのせい? と顔を歪ませる風精霊を撫でて、ルカは首を振る。


「ううん、違うよ。これが誰かのせいだとしたら、未熟な僕のせいだ。だから、気にしなくていいよ」


 ルカは、これ以上リュヒュトヒェンを不安にさせまい、と歩き出す。未だ激しい頭痛を誤魔化すために、グッと眉を寄せ、一歩、一歩と泥を踏みしめ、その感覚を短くしていく。そうして何とか駆け出せたルカの目前に――大きな影が落ちた。


「目標発見」


 感情の無い声に、遥か頭上に灯る赤。


「――……くそ……!」


 普通の機械兵ですら、無理をしてやっと。そんなルカの前に立ちはだかったのは、砂漠で襲撃してきたのと同じタイプの、巨大な機械兵だった。


 ――どう倒せばいい。姉上は、どうやって倒した。


 クラクラする頭でやっと記憶を掘り起こすルカに、巨大な腕が迫る。彼はそれをで弾くべくと、腕を振り上げる。風が巻き起こる。ルカの頭を鋭い痛みが襲う。


 ――調整ができない……!


 どくどくどく、とルカの中を血と共に魔力が駆け抜ける。鼓動と共に強くなる頭痛の中で、ルカは歯を食いしばり、笑った。


 ――だったら調整なんかもうしない……!


 ルカは翳した右手に左手を添えて、いっそ凶暴なほどに笑っている。心臓が痛い。節々が痛い。何より、脳みそを締めあげられているように頭が痛い。その痛みが、ルカの精神をすり減らす。

 ルカの体は、心は、とっくに無理をしている。


 でも。


 ――僕の体の限界を決めるのは、僕だ……!


「リュヒュトヒェン、ありったけを!」


 一拍おいて、周囲の魔力濃度が跳ね上がる。全てをなぎ倒すような風は、ルカから生み出されている。

 姉上がこれにどう勝ったかは思い出せなかったけど、とルカは牙を剥いて笑う。


 ――細切れにすれば止まるだろ……っ!


「ぶっ壊れろぉぉぉぉぉ!」


 ルカは、方向と共に、再び右手を振り上げる。それに合わせて猛風が舞い――同時に、乾いた音と、硬質なものが砕ける音が沼地に響いた。

 束ねた風が霧散する。その事実に、ルカは目を見開いた。


「これは虎の子だ、二機も壊されては困るんだよ」


 かすれた声がルカの耳に響いている。かと思えば声は水中で聞いたかのように歪んで、膨らんで、を繰り返す。


 何が起こったか、ルカにはわからなかった。が、それも一瞬。彼は、自分の右手の甲が嫌に冷たいことに気が付いた。それから、そちらに目を向けた自分の視界を落ちていく小さな黄色の欠片にも気が付いた。

 

 まずい、と。

 彼がそう思った時には既に、リュヒュトヒェンの姿は消えていた。


「まったく、姉が姉なら弟も弟か。面倒なことだ」


 かすれた声が近づくが、ルカはそれどころではなかった。

 

 ――こんな状況で魔力の変換が出来なくなったら。


「だが、下調べはさせてもらった。精霊魔術師は、宝石に精霊を宿して使うそうだな。そして、その宝石は肌身離さず身に着けている、と」


 ――これが、フォンテーヌやエクリクシスなら、まだ。アルデジアでもギリギリ。でも……。


「もっと、目立たないところに着けているものだと思っていたよ。でもまぁ――」


 ――リュヒュトヒェン、は。


 ルカは風精霊を探して周囲を見回す。その途中、こちらに向かってくる背の高い影と、それに侍る機械兵がこちらに向ける銃口が目に入ったが、彼はもうそれどころではなかった。


 ルカの視界が歪む。音の聞こえもおかしくなる。それから、今にも大地から振り落とされそうなくらい、ひどい眩暈がルカを揺らしている。


「おかげで、随分と狙いやすかったよ」


 銃弾が掠め飛んだことでえぐれてひびの入ったヘリオドールを震える手で撫でながら、ルカはか細くリュヒュトヒェンを呼ぶ。そんな彼の頭に銃口が添えられる。

 それでも、ルカの意識は目の前の男と機械兵へは向かなかった。

 風精霊の姿はない。風は凪いでいて、空気はぴたりと動きを止めている。


「私と一緒に来てもらおう。君の姉君は随分とお優しいことで評判だ、君を人質にして見せれば素直に私たちについて来てくれることだろう」


 ルカへと手が伸びる、その刹那。


 狂ったような笑い声が周囲に響き渡り――ルカは、なすすべなく、泥へと崩れ落ちた。

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