雪崩と消失③
ルカたちがソリに降り立つと、銀の球体が近寄ってきた。
「アルヴァ、あの壁はそこの小増が?」
「ええ。私の弟で、ルカと言います」
姉と球体のやり取りを聞き流すルカは、火精霊の魔力の残滓が宿った熱い体を持て余し、姉の背中にぺったりと寄り掛かっている。未だに息が整っていない。そんなルカの肩の上にいるエクリクシスは、もっとぐったりしていた。
と、ルカの前に球体がグッと寄ってきた。
「お前、やるではないですか」
尊大な物言いが、ルカの平常ではない脳を刺す。
火精霊の魔力に侵されたルカの情動は、『怒り』のほうに天秤が動きやすくなっている。だから、つい、眉が寄る。そんなルカに気が付いているのかいないのか、彼の前で球体は言葉を続けた。
「人間にしてはかなり使うではありませんか」
「ああ、そうですか」
「ええ。このザミルザーニアが言うのです。誇りなさい、小僧」
「――ザッ……!?」
驚いて跳ね飛んだルカは、見事にイグニアの背中からソリへと落ちた。這いつくばりながら、恐る恐る、と目をあげて彼が見るのは、輝く銀ではなく、姉である。
「……ザ、ザミルザーニア様?」
「ああ、ザミルザー……」
「ザミーニャ」
「……ザミーニャ様だ」
姉上あんたなんで愛称で、という疑問はほっぽり出して、ルカは倦怠に満たされていた体を無理やり動かし平伏する。
「氷神竜様に、とんだ態度を……!」
「ああ、気にせずともいいですよ。あたくし、そんな程度で気分を害するほど小さい器ではありません」
そんなことより、という静かな言葉に、ルカは『今も差し迫っている脅威』のことを思い出して、跳ね起きた。
「氷妖精! 今どのあたりに――」
「忙しないですね。小僧、ええと、名前はなんだったか」
「ルカです、ザミーニャ様」
「ふむ、ルカ。お前は、あの賢しい偽雪を見事灰にして見せました。お前のその働きに免じ、氷妖精はあたくしが何とかしてやりましょう。何、悪いようにはしません」
最後のセリフは恐らく、とルカはソリにへたり込んで迫る吹雪の渦を見つめている三人の氷妖精を見る。三人とも、泣きそうな顔だった。
「それでいいですね、フロスティア」
氷神竜ザミルザーニアが進む方向には、ベッドがある。そちらに目を向けたアルヴァが沈痛な面持ちを浮かべるものだから、ルカはベッドに駆け寄り――静かに息を飲んだ。
ルカを乗せてきてくれた氷竜が大粒の涙をいくつも溢している。珍しくその隣に立てているカレンが、恐怖以外の感情に青白い顔を強張らせて突っ立っている、その向こう。
真っ白なベッドに横たわるのは、死の淵で微睡む女性だった。
「氷竜の長だ」
「姉上……こ、れは…‥なんで」
竜の命が終わるときってこんなじゃないですよね、とルカが目で尋ねると、アルヴァは頷いて、そして「呪いのせいだ」とひとこと言って口を閉ざす。丁度それと重なるように、掠れた声が微かに響く。
「はい……どうか、あの子を、ラヴィネを、止めてあげて、ください。あの子は、悪くないのです……」
息も絶え絶えで言ったきり、氷竜の長フロスティアは苦しそうな息を溢すばかりになってしまった。
「ええ、止めて見せましょう」
ソリの舳先に陣取ったザミルザーニアの声とともに、ソリの速度が上がったようだった。
ソリは進む。雪原を、吹雪の渦に向かって。
互いが互いに向かって求め合うように動いているから、ソリと吹雪がかち合うまでに、そう時間はかからなかった。
「ザミルザーニア様ぁぁぁぁぁぁ!」
狂喜の声が響き渡る。喉を焼き切ってしまいそうな高音が、ソリへと向けられている。その声の高さに比例するように、吹雪が強く激しく暴れまわる。
雪の白に覆い隠されて、赤の強い太陽ももう見えない。薄暗さの中で、氷神竜だけが、浮かび上がるように銀を纏っている。
「お前たちは、まったく困ったものですね。よそから来た蛇にそそのかされて、望まないことをして」
挙句、と言いながら瞬くザミルザーニアの声には、一つの棘も怒りもない。ただ、ほんの少し、憐憫が射し込んだ色だった。
「――お前は、愛した者に罵声を浴びせ、己が牙を向けました」
「私が愛しているのは貴女様だけですわ、ザミルザーニア様! 貴女様に牙なんて!」
白い視界で、ルカは氷妖精の女王のティアラが黒く煌くのを見た。
「ラヴィネ。蛇に憑かれた哀れな氷妖精の女王。正気に戻ったお前が己の歪みに耐えきれるかわかりませんが――」
ザミルザーニアの言葉とともに、ラヴィネのティアラが大きく歪む。そしてそれは、瞬きの瞬間にはもうどす黒い蛇に姿を変えて、ザミルザーニアへと牙を剥いていた。
ルカは考えるより先に、エクリクシスの魔力を使った。伸ばした彼の指先から、炎が矢のように飛んで行く。肩の上でエクリクシスがビクンと揺れた。
だが、それも必要ないことだったようだ。
蛇に炎の矢が触れた、刹那。
蛇を焦がす炎ごと、銀の氷が包みこむ。
「――それでも、何もわからず終わるよりはこうするほうが、きっと、良いのでしょう」
ザミルザーニアの声に重なるように、蛇と炎を閉じ込めた氷が綺麗な旋律を奏でて爆ぜる。中に閉じ込めていた黒と赤を全く感じさせない美しい銀の飛沫が飛び散って、そして、手に乗せた雪のように音もなく消えた。
それと同時に、吹雪が掻き消える。
狂喜の笑い声も、苦しそうなあえぎ声も、吹雪とともに霧散する。
「気分はどうですか、ラヴィネ」
いっそ無慈悲なほどに優しい声で言いながらザミルザーニアがゆったり瞬いている。
「あ、ああ……わ、私、わたし……な、んて、ことを……! ああ、ああ……っ!」
あとに残ったのは、絶望の表情で頬を掻きむしる、氷妖精の女王だけ。
彼女の目に映るのは、ザミルザーニアでも、吹雪が止んだことでソリへと着地できたジェーニャたちでもなく、ベッドに横たわって、白く濁った眼で虚空を見つめる、氷竜の長だった。




