雪山を目指して④
――翌朝。
昨晩、暖炉の近くで眠りに就いたアルヴァは、風の唸る音で目を覚ました。
時計を見れば、まだ随分早い時間。当然、出発の時刻までかなり余裕があった。
誰も起きてきていない居間、起き上がって伸びをしたアルヴァに声が掛かる。
「お、アルヴァ。おはよう」
早いな、と暖炉の中から声をかけてきたのは、エクリクシスだ。一晩ずっと火の世話をしてくれていた彼は、優しく燃える炎の中からピョンと出てきて、絨毯を歩き、アルヴァの前へとやってきた。アルヴァは、彼の前に手を差し出す。と、エクリクシスが、どっこいしょ、とアルヴァの手のひらに乗りあがる。
そのまま、アルヴァがエクリクシスを顔の前まで持ち上げると、彼の小さな手がアルヴァの頬に触れる。
橙色の瞳が、アルヴァの体の奥を探るように、じっと彼女を見つめている。
「……うん、ちゃあんと火の魔力、ため込んだな」
これだけありゃ充分、とエクリクシスが笑う。そんな彼に頷き返し、アルヴァは彼を肩に乗せ、立ち上がる。
足が向くのは、窓の方向。
明るさが、かろうじて朝であることを知らせているその四角の向こう。
白一色。それ以外、何も見えない。
――これから、この中を行くんだな……。
アルヴァは気合を入れなおすように鼻から息を吐きだして、白の向こう――目的地となる雪山をじっと静かに見つめていた。
それから、時間が経って。
防寒着のフードを深く被ったアルヴァは、竜の姿に戻っているイグニアを横に連れ、ジェーニャの家の玄関に立っていた。
最終確認をするように、ルカがアルヴァの着る服に手を這わせている。防寒着の上に防寒着を着込んだアルヴァと――それから、特大ポンチョを体と翼と足に巻いているイグニアは、静かに立って、ルカの検分するような手を受け止めていた。
「――うん。流石です、ジェーニャさん」
ルカが振り返る先、そこに立っているのは赤い目元で申し訳なさそうにアルヴァを見ているジェーニャだ。彼女は、一行を泊めることを快諾してくれたばかりか、アルヴァとイグニアのために、と防寒具を仕上げてくれたのだ。市販サイズで事足りるアルヴァはともかく、イグニアの防寒具は、いくつかをジェーニャが縫い合わせて、一晩のうちに作ってくれた。
そして、その防寒具には――。
「冷気遮断の重ね掛けに、風除け、保温まで……これだけの付与魔法、一晩のうちに仕上げるのは大変だったでしょう」
ルカの言葉に、ジェーニャは首を振って、八の字の眉で微笑みながら口を開いた。
「いえ、今の私に出来ることなど、これくらいしか……」
無いですから……と消え入りそうな声が響く。――そう、ジェーニャは未だ、落ち込んでいた。
それも無理はないだろう、と思いながら、アルヴァはルカの横をすり抜けて、ジェーニャの前に立つ。
――彼女と氷妖精の間には、それこそきっと……私とイグニアの間にあるような絆があったんだろう。それが、崩れ去ったとなれば……。
アルヴァは眉尻を下げ、沈痛な面持ちで手袋を取り、ジェーニャの肩に手を置いた。
「きっと、雪山の方で何かあったのだろう、と……私は思う。竜と氷妖精の関係が崩れるような、何かが」
ジェーニャの銀の瞳を見つめながら、アルヴァは言葉を探してから、ゆっくり口を開く。
「きっとその影響で、あなたの言葉も届かないのだろう。だから、そんなに気に病まず……――すまない、こんなありきたりな言葉しかかけてやれなくて」
ため息を挟み込みながらアルヴァが言うと、ジェーニャはほんの少し隅のできた目を細めて、表面上は笑みを作る――が、それが心からの物でないことはアルヴァにも分かる。アルヴァは、ジェーニャの肩を擦ってから、手を離して手袋を付けた。これも、ジェーニャが用意してくれたものだ。
「雪山への道中で、氷妖精の異変に関する手がかりを見つけるかもしれない。もし見つけたら、ルカを通して、あなたに直ぐに報告する」
「――……お気遣いくださり、ありがとうございます」
微笑みの仮面を被ったジェーニャが、深く頭を下げる。と、「姉上」と後ろから声が掛かった。アルヴァは、弟を振り返る。
アルヴァの視線の先、ルカは右手のリングブレスレットに鎮座するルビーを撫で擦りながら、口を開いた。
「良いですか、姉上。おさらいしますよ。僕とエクリクシスは、たとえどんなに距離が開いても、繋がりを介して会話できます」
アルヴァはコクリと頷く。ふさり、とフードが揺れる。
「だから、姉上は僕らの繋がりを通信に使うわけですが――それができるのは、エクリクシスが現世にいる間だけです」
もし魔力切れで彼が常若の国に送還されてしまえば、とルカは真剣な顔をした。
「姉上は、雪原に取り残されることになります。そうなったら、僕らがあなたを探し出せるとは言い切れません」
「ああ」
よくわかってる、とアルヴァが頷くと、ルカは――その向こうでケネスも――苦々しい顔をする。と、ルカが大きなため息をついて、それから言葉を続けた。
「――そうならないためにも、道中、魔力は温存してください……と言っても、これに関してはエクリクシスが調節してくれますから、姉上はそこまで気にしなくていい。ただ、触媒は肌身はなさずに」
いいですね、と念を押すルカに、アルヴァは大きく頷いた。火竜の鱗のネックレスも、神竜様の鱗のネックレスも、火竜牙のナイフも、アルヴァはしっかりと身につけているし、これらを外すつもりは一切ない。
アルヴァは、弟の濃琥珀を静かに見つめる。すると、ルカは再び大きな大きなため息吐いて、道を開けた。
「何か異変があったら、すぐに連絡を。エクリクシスに伝えてくれれば、ラグ無く僕まで届きますから」
「わかった」
「特に、急激に氷の魔力濃度が上がったときとか。姉上は魔力感知能力はそこまで鋭く無いですけど、流石に肌に違和感くらいは感じるはずですから。そういうときは、すぐに――」
「エクリクシスに報告、だな」
「アルヴァが報告する前に、たぶん俺が気付くけどな」
フードの中で、エクリクシスがカラカラ笑う。確かにそうかも、と思いながら、アルヴァは歩を進め、玄関のノブを掴む。
「じゃあ、行ってくる。私がいない間に何かあったら、ケネス、お前に頼む」
「わかってる。お前は無事に帰ってくることだけ考えろよ、アルヴァ」
絞り出したようなケネスの声にしっかり頷き、アルヴァはノブをひねって扉を開こうとして、その重さにほんの少しだけ驚いた。玄関扉の前には、これだけ吹雪いていれば当たり前だが、雪が積もっているのだ。
アルヴァは体重をかけて扉を押し開き、そして、手早く戸を閉める。
そして、アルヴァとイグニアは身を寄せ合って歩いて歩いて――ようやっと、シロック村から出て、雪原に踏み込んだのだった。




